「菅付き」大連立か、「菅抜き」大連立か、被災者そっちのけの権力闘争による政治空白状況をどうみるか、(私たちは東日本大震災にいかに向き合うか、その19)

 与野党間で70日間の国会延長を決議したにもかかわらず、その直後から国会審議が10日間も空転するなど、依然として政治の空白状態が続いている。7月4日の週明けからようやく審議が再開されるというが、東日本大震災の発生からすでに4カ月近くも経過しているというのに、被災者の本格的救済や被災地の復旧復興がいっこうに進む気配がない。嘆かわしい限りだ。

 世上では菅首相の引き際の悪さや権力慾に批判が集中し、しかも支持率も地を這っているというのに、なぜかくもしぶとく菅首相がその地位にとどまれるのか。とにかくわからないことが多すぎる。政界では「内閣不信任決議以外に首相を辞めさせる方法がない」というが、それなら菅政権を支えている執行部や閣僚が総辞職すればいますぐにでも決着が付く話だ。なんとかかんとか言いながら、菅氏の居直りを許している点では彼らもまた同罪というべきだろう。

 この点、私は7月3日の「NHK日曜討論」を視て、現在の政治空白状況は、実は民主党と自民・公明両党の政治路線の対立によるものではなく、「菅付き」大連立か、「菅抜き」大連立かの政治選択に依るものだと気付いた。そして全体状況は、いまや民主・自民両党は政策の上でも政治行動の上でもすでに実質的な大連立状態に移行しており、しかも「菅抜き」大連立に収束しつつあるように見受けられるのである。

 菅首相が就任以降、消費税問題や普天間基地移転問題等に関する民主党マニフェストを「個人プレー」によって悉く投げ捨て、「菅付き」大連立を目指してきたことは周知の事実である。理由は明白だ。自民党から民主党への政権交代が国民の政治選択(政策選択)によって実現したにもかかわらず、鳩山前首相の行動がアメリカや財界によって許容されないと見るや、菅氏は後継政権を自民党との大連立によって確保する道を選んだのだ。

 だがどこの世界でも同じだが、政治世界ではそれなりの「リーダーシップ」(戦略と統率力)を備えた人物でない限り政権を維持することができない。まして「大連立政権」ともなれば、政策の妥協や調整を担えるだけの「器」が要求される。これまでその時々の時流の読みと政界の駆け引きだけで生きてきた人物には、「宰相」など到底務まるはずがないのである。

 このことを完膚なきまでに暴露したのが、東日本大震災に対する菅首相の危機管理能力の欠如だった。危機管理能力は、「リーダーシップの結晶」とも言うべき能力だ。情報が錯綜するなかでの的確な情勢判断力、利害対立する組織を超えた政策決定力、そして政策を実現する果断な行動力など、いずれもが「付け刃」ではない本物の能力が求められる。だが、菅首相にはいずれの点においてもその片鱗も見られなかった。目立ったのは、原発事故当初の場当たり的行動にみられるポピュリズム的パフォーマンスだけだった。

 菅首相に多くのことを望めないことは、もう全ての国民が知っている。それでも引退するまでに、被災者の救済と被災地の復旧の目途ぐらいは付けてほしい(ほしかった)というのが率直な国民の気持ちだろう。しかし国会審議が再開すれば、程なくして菅首相の「お遍路への花道」が用意されるのは間違いない。それが7月中か、8月末までかといったことは些細なことだ。

 それでは、「菅抜き」大連立政権への道筋はいったいどのようにして敷かれるのであろうか。その道筋の流れは、まず民主党マニフェストの徹底的な解体となって現われるだろう。民主党は、政権交代時の基本政策はもとより、その後の政権運営のなかで具体化できなかった(しようとしなかった)重要政策を、今後は自民・公明両党の要求にしたがってほぼ全面的に取り下げていくのではないか。

 7月3日のNHK日曜討論において、石原自民党幹事長に「子ども手当を撤回することが国会審議の条件だ」と迫られた岡田民主党幹事長は、「すでに実質的にはそのようになっている」と答え、舞台裏ではすでに与野党合意が成立していることを窺わせた。また菅首相による国会解散・総選挙についても「夏の夜の幽霊」と表現するなど、個人プレーに依る総選挙を封じて、「菅抜き」大連立への準備を自公両党と足並みをそろえて進めていることを示唆した。

 「菅抜き」大連立への流れは、東日本大震災復興と日米同盟深化の内外政策の両面で今後一層強化されるだろう。震災復興法は、自民・公明両党案を民主党が「丸呑み」して成立したものであるし、普天間基地移転問題も結局のところ自公政権時代の辺野古移転案への回帰で日米間が決着した。さらに懸案だった消費税増税も数年以内に10%幅で実施することが決定された。「菅抜き」大連立への道は、これですべて整ったことになる。

 アメリカと財界にとっては、これで「万々歳」というところであろうが、だがこれらの政策では、政権維持にとって不可欠の条件である安定した国民の支持は得られそうにもない。自民党政権時代には、党内で首相の首のすげ替えに依って政権を維持した。だがこの方法は、安倍・福田・麻生と3代続いた最低の「世襲首相」の連打に依って底をついた。以降、自民党に愛想をつかした国民の支持は戻らない。

 「ならば」ということで、新しく用意された自民党から民主党への政権交代という次の局面は、わずか鳩山・菅という「2枚カード」で終りになった。カード揃えが悪過ぎて、ゲームが成り立たなかったのだ。使い古されて汚れ切った「小沢カード」も、間もなく棄てられることになるだろう。

 となると、残る局面は「大連立」以外に考えられない。「菅付き」大連立か、「菅抜き」大連立かという新しい局面に向かっての権力闘争は、次の段階に移行するための単なる「政局プロセス」にすぎない。それが「政治空白」と言われる現象になって現われているだけのことだ。だが次の「菅抜き」大連立政権が登場しても、彼らの政策と国民要求との矛盾は解消できない。そのことが絶えざる政局不安を生じさせ、政治空白を常態化させるだろう。

 しかし、世の政治評論家やマスメディアのいうように、この局面を「政治不在」とみることは誤りだ。表向きはそう見えるかもしれないが、これから続く政治空白は、国民の巨大な政治エネルギーの「蓄積期間」となることは間違いない。その主たるエネルギー蓄積の場が、東日本大震災の復旧復興政策をめぐる軋轢であり、脱原発政策をめぐる対立であり、沖縄のアメリカ軍事基地撤去をめぐる攻防だ。

 東日本大震災の復旧復興政策の基本は、壊滅的な被害を受けた農林水産業など第1次産業を一から再建することにある。復興構想会議の提言にあるような民間資本による農漁業の集約化と再編は、東北地方全体にわたる地域経済を破壊し、地域衰退を加速化させることが誰の目にも明らかだ。この提言が受け入れられる事はまず不可能だといえるし、強行すれば広範な農漁業者の離反と反発を招くことは避けられない。

 一方、長引く原発事故の処理と放射能汚染・被曝問題の深刻化は、原発に依拠したエネルギー政策への国民の考え方を根本から変えつつある。すでにその動きは、各地での反原発運動の高まりと「節電」を通してのライフスタイルの変革という形で顕在化しており、国民が再び原発依存に戻ることはない。また老朽化した原発の運転再開が遅れれば、産業構造の省エネ化は不可避であり、土日操業を強行して労働者の家庭生活や地域生活を破壊することもできなくなる。

 沖縄のアメリカ軍事基地の再編に至っては、政府がいかなる手段を弄しようとも「日米合意」が実行に移されることはもはや不可能だ。それがわかっていながら政策転換できない大連立政権は、国を統治する能力がないことを国内外に曝しているだけのことだ。

 「菅付き」大連立か、「菅抜き」大連立かをめぐって、被災者と国民をそっちのけした権力闘争が当分は続くことだろう。だが、それによる政治空白は国会の空転現象としてあらわれていても、底流では国民の変革エネルギーを涵養する懐妊期間に転化しているというのが、私の目下の結論である。(つづく)