731部隊施設を施工した日本の建設会社を特定できるか、中国東北部ハルビン市731部隊遺跡訪問記(5)

 731部隊の全容が明らかになった決定的な資料は、①森村・下里両氏が入手した「マル秘・関東軍防疫給水部本部満州七三一部隊要図」(元隊員たちが作成し、長年にわたって秘匿してきた部隊要図、『悪魔の飽食』、光文社、1981年所収)、②第七三一部隊航空班・写真班共同撮影による「建設途中及び完成した第七三一部隊全景写真」(石井部隊長が日本に持ち帰り秘匿していた部隊写真、『続・悪魔の飽食』、光文社、1982年所収)、③そして全景写真に基づいて修正補完された「保存版・関東軍防疫給水部本部施設全図」(第七三一部隊元総務部調査課兵要地誌班員・吉田太二男作図、同上所収)である。

これら施設配置図や全景写真は、731陳列館編集の公式記録『日本関東軍731細菌部隊』(2005年)や遺跡跡地の掲示板にも引用されており、今後の世界遺産登録に際しても最重要基本資料となるものだ。これからも精密測量や発掘作業などによって引き続きより正確な施設配置図が追求されると思われるが、建築学科出身の私としては、これに加えて日本の建設会社が請け負った各種施設の設計図や施工図がもし入手できれば(おそらくそのような努力はすでになされていると思うが)などと虫のいいことを考えた。

そこで手順としては、まず731部隊関係の既存出版物の中から建設会社に関する記述を可能な限り調べ、その中から施設工事を請け負った日本の建設会社を幾つか特定する。もし特定可能であれば、次は当該企業の社史や工事記録などを参考にして当時の建設工事を調べる。そうすれば、施設配置図に関する何らかの手掛かりを見つけ出せるのではないか、との希望的観測を抱いたのである。

 だが不思議なことに、森村・下里両氏の著書やノートには731部隊の工事を請け負った日本の建設会社についての言及が意外に少ない。その他の731部隊関係出版物も調べてみたが、建設会社に関しては少しずつ内容が違っていて判然としない。これは既存出版物の著者たちが歴史学者・ジャ−ナリスト・文筆家などに偏り、建設会社や建設工事についての知識や関心が薄いためだろう。しかしそのなかでも、科学史家の常石敬一氏の記述が比較的詳しく、かつ新しい事実の発掘につれて年代とともに進化していくのがわかる。全ての出版物に眼を通したわけではないが、注目すべき資料を出自の古いものから順番に並べてみよう。

(1)雑誌『真相』第四〇号、「内地に生きている細菌部隊、関東軍七三一部隊を裁く」、人民社、1950年4月1日、(『雑誌真相復刻版』、第二巻、三一書房、1981年所収、森村誠一、『悪魔の飽食、第三部』、角川書店、1985年引用)
「昭和一三年末、第七三一部隊満州国賓江省双城縣平房の地点に大工事の入札を行った。石井部隊長は、乙津一彦憲兵曹長に新京に各支店を持つ大倉組、清水組、五十嵐組、松村組、間組その他、殺到する大小業者の動きを厳しく取り締まらせた。このとき、乙津曹長は各業者の見積もり現場まで一人ずつの憲兵を派して業者相互の動きを断ち切り、「ダンゴ入札」を完封した。「たしか松村組が落札したと思うが、石井部隊長はうまくいったと大喜びで自分にも金一封をくれたから、案外あの大工事も安くあがったらしい」(現帝国興信所第一調査課勤務、乙津一彦氏談)。」

(2)常石敬一、『消えた細菌戦部隊』、海鳴社、1981年
「梶原の検事調書によれば、一九三八年六月には、まだ平房の本部は建設に着手すらしていない。同じ証言は川島清の検事調書からも得られる。(略)彼によれば、本部の建設は一九三九年に着手され、翌年完成した。そして一九四〇年に「細菌戦準備関係ノ業務ヲ行ウ各部ハ悉ク平房駅ニ移動」したのだった。」
「本部の巨大なビルをはじめ、平房の全建物を建設したのは工兵隊であろうが、彼らにはどんな説明をしたのであろうか。自分たちが建設中の施設がどんなものであるかは、誰でも知りたいところである。もし平房が本部建設以前から生体実験場であったという推測が正しければ、工兵隊の兵隊たちは、被験者である外国人の集団の存在に気付いたはずである。その場合、その地は外国人専用の刑務所であるという説明を受けたであろう。」
「平房の本部の建設は一九三九年からである。すなわち新本部はそこで生体実験を行うこと、被験者を収容することを最初から予定して作られている。そのため監獄の造りは非常に頑丈で、ソ連参戦の日、一九四五年八月九日に部隊はそれの破壊を決定したが、通常のダイナマイトでは壊れなかった。結局トラックで大量の五〇キロ爆弾を運び込み、それでやっと破壊し、証拠の隠滅が行われた。これらの作業は、監獄の存在を秘密にしておくため、部隊敷地内の工兵隊にも頼まず、その存在を知っている部隊員だけに行わせた。(略)石井部隊本部の本館その他の建物は、近くにいた部隊の工兵隊によって、跡形もなく破壊されたという。」

(3)森村誠一、『新版・悪魔の飽食』、角川書店、1983年
「第七三一部隊の施設は、当時新京(現在の長春)にあった関東軍司令部が直接監督し、工務関係部署の念入りな設計と日本特殊工業、大林組ほか軍の御用業者の手による施工で完成したものである。」

(4)常石敬一、『医学者たちの組織犯罪、関東軍七三一部隊』、朝日文庫、1991年
「第一陣が到着した頃(1938年春)、平房の建築群はまだ建設途上であったが、本館の外装はほぼできあがっていた。しかし内部は未完成で研究することができなかった。また被験者を入れる監獄も、石井が千葉の自分の郷里から連れてきた人たちによって建設が進行中といったところだった。」

(5)常石敬一、『七三一部隊生物兵器犯罪の真実』、講談社現代新書、1995年
 「監房について、中帰連の会員で元憲兵の萩原英夫は、千葉での七三一部隊展に寄せた手紙に次のように書いている。彼は憲兵になる前、七三一部隊の本部建物を建築した鈴木組の一員として本部の建設工事に加わった。七・八棟は同じ設計、同じ構造で、入口、奥は廊下をはさんで四室に仕切られており、奥の四室はタイル張りで、生体解剖その他の実験に使われたと思います。滅菌室が取り付けられた部屋もありました。一・二階とも真ん中の約二五平方メートルぐらいは、何の設備もしていない空き室でした。この空き室に人体実験に使ういわゆる「丸太」を監禁する監禁室を造るのが、私たちの重要な仕事でした。」

(6)関成和、『七三一部隊がやってきた村――平房の社会史』、こうち書房、2000年
「三五年の夏、平房のある村(地名略)に関東軍の一部が進駐した。この地に七三一部隊の根拠地を建設するための測量が始まったのである。(略)三六年秋には部隊建設のための工事が着工され、工事は次第に南東の方向に伸びて行き、三七年には部隊の専用鉄道引込線が敷かれ平房駅と結ばれた。一九三七年七月七日、日中戦争が勃発すると七三一部隊の建設はいっそう促進された。翌三八年六月には「平房付近特別軍事地域設定ノ件」(関東軍参謀本部訓令第一五三九号)が布告されると、村の農民は平房警察駐在所から一か月以内に立ち退くよう命令され、(略)さらに七三一部隊本部の西、北、東の三方面の二〜五キロに位置する三村も立ち退きを命じられ、「無人区」とされた。(略)こうして囲い込まれた土地に、七三一部隊の本部官舎、各種実験室、監獄、専用飛行場、少年隊舎、隊員家族宿舎(東郷村)などが建設された。日本特殊工業が部隊の研究機材を、鈴木組が部隊建設を一手に請け負った。三八年一月第一次建設班二〇名が、同年四月には四〇名が到着したが、いずれも秘密保持のため石井四郎部隊長の郷里近くの千葉県山武郡香取郡の出身者であった。七三一部隊の中心にはロ字棟と呼ばれる約一〇〇メートル四方、三階建ての巨大ビルが建てられ、一九四〇年に完成した。」 

(7)青木富貴子、『731、石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』、新潮文庫、2005年
「その施設は、石井自身の言葉によると、「丸ビルの一四倍半」もあるほど大きな研究室や飛行場、農場、馬場のほかに、東郷村と名づけられた官舎や国民学校、大浴場、酒保、郵便局、病院まで備えたまさにニュータウンと呼べるほどの規模だった。」
 「はじめは「東郷部隊」、続いて「加茂部隊」や「石井部隊」、そして「関東七三一部隊」の防諜名で呼ばれた部隊に送りこまれた「加茂」の村人の顔ぶれもさまざまだった。(略)地元の働き手が根こそぎ動員されたといってよい。その数は百数十名ともいわれ、彼らは内地の二倍、三倍の給料をもらって、故郷へ仕送りした。」
 「一九三六(昭和11)年、「東郷部隊」はついに天皇が認可する正式部隊になった。(略)本部にはハルビンに近い平房という土地が選ばれ、ここに新設される部隊の工事費には満州事件費110万円があてられた。」
 「一九三九(昭和14)年五月は、七棟と八棟の内部工事が完了した時期だった。研究所や飛行場を建設する大工事は、大林組が請け負い現地中国人を使って完成させていた。しかし、七棟と八棟の内部工事や研究機材の搬入、設置は秘密を要するため、大林組も現地中国人も外され、「加茂」から送られた労働者だけに任された。工事は厳重な秘密のもとに行われ、その詳細は長く不明だっ
った。さらに石井四郎は、彼の親戚の日雇い大工の鈴木茂を呼び寄せ、各種の建築業務に従事させ、「莫大な利益を得させた」とある。鈴木は事業を拡張し、土木請負会社「鈴木組」を設立、自らその組長になって工事全般を取り仕切った。」
 「「千葉班」というのが二〇名にあてがわれた名称だった。募集時には石井部隊軍属の契約だったが、鈴木組に引き取られ「隊臨時雇員」として扱われた「千葉班」二〇名には固定給しか支払われず、メンバーに不満がつのっていた。士気が上がらず工事は遅々として進まず、再度、郷里から約四〇名が投入された。」
 
 これら文献からすると、松村組、関東軍工兵隊、大林組、鈴木組(千葉班)などの名前が浮かび上がってくる。次回はその中から施工組織を特定して工事記録を調べてみたい。(つづく)