731部隊建設の工事関係資料は見つからなかった、中国東北部ハルビン市731部隊遺跡訪問記(最終回)

 731部隊関係出版物の中から浮かび上がった幾つかの建設会社を特定するため、各企業の社史や工事記録を調べてみた。第1グループは、1938(昭和13)年末に731部隊の大工事入札に参加したとされる大倉組、清水組、五十嵐組、松村組、間組のなかで、その後、社史が刊行されている清水組(清水建設)、松村組、間組の3社についてである。

 『清水建設二百年、生産編』(2003年)によれば、該当する部分は「昭和13(1938)年5月、満州支店を大連より首都の新京(現・長春)に移転した。同支店は南満州鉄道満州国関東軍関係工事の入手に努め、吉敦線、新白線などの鉄道敷設、新京の関東軍司令官舎、各地の忠霊塔や遠く勃利方面の大規模兵舎の建設工事を受注した。その後、満州国の発展にともない、昭和15年3月29日、満州国法により株式会社満州清水組を設立した」とあるだけで、それ以上の詳しい記述はない。また1936(昭和11)年から1940(昭和15)年にかけての年表や『工事年報』においても、関東軍関係の工事は一切記載されていない。

 間組の場合は、別の関東軍関係工事がやや具体的に記述されている。『間組百年史』(1989年)によれば、「当社が関東軍経理部から昭和11年4月28日に請け負った「公主嶺ヒ工事」は、関東軍からの初の工事であった。工事の内容は軍事工事のためいっさいが秘密とされたが、施工にあたった建築係助手の高橋正実によると公主嶺の飛行場格納庫と宿舎の建設工事で、工期5カ月という急を要するものであったという。この工事の暗号名「ヒ」は飛行場の「ヒ」であった。翌12年4月17日には同じく関東軍経理部から「公主嶺リイコ工事」、7月12日に「公主嶺セノ四工事」を相次いで受注した。暗号の意味は不明だが、これも飛行場関係の建築工事であったという」との記述がある。また『間組年譜』(1936年)にも、「昭和一一年五月、関東軍経理部の特命により××××××に於ける(ヒ)號工事請負。(現在施工中)」と記されている。しかし関東軍関係の工事であっても場所が異なり、また「経理部」の特命とあるから731部隊の工事ではない。

 そこで731部隊の大工事を「落札したらしい」とされる松村組についてはどうか。『松村組100年史』(1996年)によると、松村組と関東軍の関係は満州国建設当時(1932年)から相当深いものがあったらしく、新京の関東軍司令部宿舎83棟(1932〜33年)、新京自動車隊(1933年)、公主嶺高射砲隊兵舎、新京自動車隊兵舎、関東軍興安大路宿舎、新京衛戍病院(1934年)と関東軍関係工事を軒並み受注し、満州松村組(1940年)も設立されている。当時の松村組の勢威は、「関東軍の厚い信用を背に満州の工事は大きく発展した。とくに満州東部の牡丹江からソ満国境への一帯には次々と大規模な兵舎工事を受注して、当社のホームグラウンドの観があった。工事受注高も進出後2、3年は年間100万円弱であったのが、昭和11年には200万円を突破、同13年には400万円という躍進ぶり、(略)この勢いはさらに続き昭和14年には、満州房産会社の工事も加えて年間1000万円にまで達した。(略)工事地域も北は大黒河、南は錦西、東は平陽、芬陽、西はハイラル満州全体に広がった」とうものであった。

 しかしこれらの中で731部隊関係の工事が見つからないのは、特に秘匿されたか、それとも社史の執筆者が嘆くごとく、「このような急テンポの成長発展の跡を裏付ける記録や資料がこの時代には大きく欠落しているのである。工事の大部分が軍事関係のものであり、厳重な軍事機密として扱われたことが最大の理由であろう。工事の名称も、トタエ工事、トシ工事といった暗号で呼ばれ、なかにはそれさえ秘匿して○○工事とされていたものもある。工事記録もおそらく軍の管理のもとに置かれたか、あるいは処分されたと思われる。だから、工事にかかわった人たちの記憶や個人的な覚書しかない。それも戦後の戦争否定の風潮のなかでは、各人の胸にしまい込まれることが多かったであろう。戦争中の行状については、なるべく聞くまい、語るまいとする雰囲気が戦後とくに強くあったし、それは今に至るまで続いている。そのようにして時は流れ、当時の人たちは他界される方もあり、記録も記憶も薄れていったのである。勢い、この時期の社史は散逸を免れた資料だけを頼る飛び石のような記述にならざるを得ない」という事情があったためであろう。

そこで次は、森村氏が「第七三一部隊の施設は、当時新京(現在の長春)にあった関東軍司令部が直接監督し、工務関係部署の念入りな設計と日本特殊工業、大林組ほか軍の御用業者の手による施工で完成したもの」と断定している方の検討に移ろう。森村氏はこの一文の根拠を示していないので直接本人に尋ねる他ないが、現時点では731部隊の施設工事に携わったのは「大林組ほか軍の御用業者」というあたりがかなり有力であるように思われる(日本特殊工業は研究機器の会社)。以下、『大林組百年史、資料編』(1993年)などを参考にしてその理由を述べよう。

(1)戦前の建設会社は、現在のような「ゼネコン」すなわち設計から施工まで全ての建設工事を行う総合建設業ではなく、建設工事だけを請け負う文字通りの施工請負業であった。とりわけ官公庁が施主となる公共工事の場合は、官公庁の営繕部(設計部)が極めて充実していたこともあり、森村氏が「関東軍司令部が直接監督し、工務関係部署が念入りに設計をした」という趣旨の記述には肯けるものが多い。731部隊が秘密組織であればあるほど、関東軍司令部営繕部署が設計管理に直接関与した可能性は大きいと思われる。

(2)戦前の大林組は、1936(昭和11)年から1940(昭和15)年の平均年間工事施工高が上位10社中断トツの第1位であり1億1800万円に達していた(松村組は上位10社の中にも入っていない)。また1931(昭和6)年の満州進出以来、関東軍司令部庁舎(1933年)、満州国国務院庁舎、満州中央銀行(1934年)など満州を代表する建築を受注し、この他、満州国宮廷宮殿、新京の関東局庁舎、奉天の満鉄総合事務所、関東軍夜戦航空廠、関東軍公主嶺航空隊本部・兵舎などの主だった工事も手掛けている。いわば日本を代表する建設会社であり、かつ関東軍司令部庁舎の施工を請け負った大林組が、関東軍司令部営繕部署と特別の関係にあったとしてもおかしくない。

(3)それにこれは別資料であるが、平房生まれであり、七三一部隊の強制占拠によって村を追われた関成和氏(ハルビン市図書館長、「ハルビン日報」副編集長、ハルビン市地方史研究所主任などを歴任し、『悪魔の飽食』の訳者でもある歴史家)の著書、『七三一部隊がやってきた村』(こうち書房、2000年)のなかに、平房特別軍事地域の中核基地である731部隊およびそれに隣接する8372部隊(航空部隊)の地図が掲載されている。そして8372部隊基地と平房駅との間の労務者小屋や商店などが混在する一角に「大林組倉庫」と「藤田組」の建物が小さく記載されているのである。察するにこれら2棟の建物は、平房軍事特別地域の建設に携わった「大林組ほか軍の御用業者」の工事用建物の一部ではないのか。ちなみに「藤田組」とは、年間平均工事高第10位の「広島藤田組」のことであろう。

(4)このことは、青木富貴子の著書、『731、石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』、新潮文庫、2005年)によっても裏付けられる。青木氏は、「一九三九(昭和14)年五月は、七棟と八棟の内部工事が完了した時期だった。研究所や飛行場を建設する大工事は、大林組が請け負い、現地中国人を使って完成させていた。しかし、七棟と八棟の内部工事や研究機材の搬入、設置は秘密を要するため、大林組も現地中国人も外され、「加茂」から送られた労働者だけに任された。工事は厳重な秘密のもとに行われ、その詳細は長く不明だった。さらに石井四郎は、彼の親戚の日雇い大工の鈴木茂を呼び寄せ、各種の建築業務に従事させ、「莫大な利益を得させた」とある。鈴木は事業を拡張し、土木請負会社「鈴木組」を設立、自らその組長になって工事全般を取り仕切った」と述べている。

(5)つまり731部隊の建設は、関東軍司令部直轄のもとに全体が設計管理され、「大林組ほか軍の御用業者」が共同受注(ジョイント受注)したか、あるいは大林組が元請け、その他業者が下請けという形で受注したかのどちらかであろう。そして「丸太」のための監獄や生体実験室など秘密を要する7・8棟の内部工事は、石井部隊長の身内の「鈴木組」や地元出身者の「千葉班」に委ねられたのであろう。
 
 こうして一応の筋道をたどってきたのであるが、肝心なのは施工業者のところに731部隊関係の資料が残されているかということだ。だが大林組歴史館(大阪本社)にはそのような資料は存在しないという。外部の者は書庫に入れないので管理者の言うことを信じる他はないが、松村組の社史にもあったように、軍事機密中の機密であった731部隊関係の設計工事資料は、工事完了時点ですべて関東軍に返却されたと見るのが妥当であろう(工事関係者が個人的に複写していれば別だが)。なにしろ石井部隊長の身内や地元出身者ですら、「七、八棟に出入りする者は出入りの際には必ず、保機隊に身分証明書を提示し、身体検査を受けた。大工や左官の責任者はその日の仕事が終わると、内部設計図を必ず保機隊に返納し、二〇名の責任者はその日の作業人数および作業種類と場所を報告する義務があった」ほどなのである(青木、前掲書)。また命からがら満州から引き揚げてきた人たちが、発見されれば監獄行きの731部隊関係資料を持ち帰ってきたとも考えられない。

 この他、「鈴木組」についても土木施工会社の知人を通して調べてもらった。千葉県香取市には同名の土木建設会社があるので「もしや」とも思ったのだが、別会社だった。こうしてハルビン市から帰ってから約1ヶ月、731部隊関係の資料探しに集中してきたが、残念ながら施設設計図や施工図は見つからなかった。歴史の研究成果が僅かの期間で挙がるとはだれも思っていないが、今回の調査では、「資料が簡単に見つからないことがわかった」ことを“成果”にして、ひとまず作業を終えることにした。期して別の機会を俟ちたい。



【付記】

 ハルビン731部隊に関する拙ブログは掲載時から相当な時間が経過したにもかかわらず、いまだ以って多くのアクセスが絶えない。そこでまとまった論文として『15年戦争と日本の医療医学研究会誌』12巻1号(2011年12月)に発表した2編を、長文ではあるが『付記』として追加したい。2014年10月5日 広原記。

731部隊を建設した日本の建設業者
   
 広原盛明(京都府立大学名誉教授、建築・都市計画学)

はじめに
 731部隊の全容が明らかになった決定的契機は、森村・下里によって、①「マル秘・関東軍防疫給水部本部満州七三一部隊要図」(『悪魔の飽食』、光文社、1981年)、②第七三一部隊航空班・写真班共同撮影による「建設途中及び完成した第七三一部隊全景写真」(『続・悪魔の飽食』、光文社、1982年)、③全景写真に基づいて修正補完された「保存版・関東軍防疫給水部本部施設全図」(第七三一部隊元総務部調査課兵要地誌班員・吉田太二男作図、同上)が発掘されたことである。これらの施設配置図や全景写真は、731陳列館編集の公式記録『日本関東軍731細菌部隊』(2005年)や遺跡跡地の掲示板にも掲載されており、中国側のその後の測量や発掘作業によって細部の状況が次第に明らかにされつつある。
正確な測量に基づく施設配置図は、今後の世界遺産登録に際しても最重要の基本資料となるものであるが、これらの配置図に加えて各種施設の設計図や施工図が入手できれば、もっと正確な復元が可能になる。だが当然というべきか、意外というべきか、森村・下里の著書やノートには731部隊の建設工事を請け負った日本の建設業に関する記述がそれほど多くない。他の731部隊関係の出版物も調べてみたが、建設工事や建設組織(業者)に関する内容が著者によって異なり、また同一著者の場合でも出版時期によって内容が少しずつ異なることもある。これは731部隊の建設工事自体が軍事機密として扱われ、関係資料が組織的に隠滅されるか廃棄されたためであろう。また著者たちが歴史学者、医学関係者、文筆家やジャ−ナリストなどであるため、建設工事についての知識や関心が薄いこともその一因であるように思われる。
 そこで曲がりなりにも建築学科出身の私は、まずこれら既存出版物の中から731部隊の工事を請け負ったと思われる日本の建設業者(複数)を絞り込み、次に当該建設業者の社史や工事記録などを手掛かりに設計図や施工図のありかを(その有無も含めて)探してみたいと考えた。しかしこのような作業は短期間にできるようなものではなく、また関係者・関係機関に対する直接的な面接調査などによって補足・検証されなければならない。したがって今回の作業はあくまでもその端緒的な試みであり、初歩的な第一歩にすぎないものである。

1.背陰河細菌試験所(東郷部隊)建設の背景
 回り道になるようだが、731部隊建設の背景を知るためには、まずその前身である「背陰河細菌試験所」(東郷部隊)のことを調べておくのも無駄ではないように思われる。なぜかというと、東郷部隊は731部隊の原型ともいえ、そこでの建設コンセプトが731部隊建設のマスタープランに結びついた可能性もあるからである。しかし、東郷部隊について触れたものは意外に少ない。
(1) シェルダン・H・ハリスの場合
 731部隊に関する出版物の多くは、それぞれの著者の専門的関心事を中心にして書かれているので分かりにくいが、そのなかでも比較的わかりやすく全体像を解説しているのが、シェルダン・H・ハリス著、近藤正二訳の『死の工場、隠蔽された731部隊』(原著1994年、訳書1999年、柏書房)である。本書の中には、石井部隊長が細菌戦研究施設には攻撃用「A」と防御用「B」の2種類があり、「ワクチンの製造のようなBは日本国内でもできる。しかしAは国外でしか行えない」と語っていたことが紹介されている。そのため、満州で「A施設」すなわち「背陰河細菌試験所」(東郷部隊)が生まれたとされる。なおこの部分は、731陳列館元館長韓暁をはじめ中国人研究者へのインタビューに基づいて記述されたものである。以下、必要な部分だけを抜粋する。
「石井は南崗地区と呼ばれるハルビンの産業区域に最初の研究所を設けた。(略)しかしほどなく、Aタイプすなわち大がかりな人体実験を実施するには別の用地が必要であることが明らかとなる。ハルビンは石井の壮大な計画を実施するのにはあまりにも危険かつ人目に付く場所だった。かくして新しい計画が練り上げられた。(略)それはハルビン以外の場所でなければならなかった。一九三二年の夏、石井は孤立していながらも交通の便の良いAタイプの駐屯地として理想的な場所、背陰河を見つけた。(略)背陰河の一華里(約五百メートル)四方の区画が日本軍によって無条件に接収された。彼らはここに監獄と実験研究室の複合施設を建設することを計画していた。現場での建設作業には現地の中国人農民が徴用された。建設作業は東郷部隊の監督下で行われた。(略)地元では中馬捕虜収容所と呼ばれたこの細菌戦実験基地は、高さ三メートルの土塀で囲まれ、その上部には数本の有刺鉄線と別に一本の高圧電線が張り巡らされていた。塀の四隅には二つのサーチライトつきの巨大な監視塔が設けられており、中馬捕虜収容所の周囲二五万平方メートルの区域は地元住民には立入禁止とされていた。」
「広大な面積をもつ営内には、中国人労働者が一年足らずで約一〇〇棟の煉瓦の建物を建設した。(略)ほとんどの建物は東郷部隊の隊員を収容するためのものだったが、さらにまた営区の中央部にかなり大きな建物が建設された。この建物は監獄と人体実験場の複合施設だった。(略)中馬複合施設は二つの翼棟に分かれていた。ひとつの翼棟は監獄、複数の研究室、人間と動物の死骸を処分するための焼却炉、火薬庫からなっていた。もうひとつの翼棟は事務室、兵舎、倉庫、酒保、および軍用車の駐車場からなっていた。(略)通常、ここには五〇〇名から六〇〇名の捕虜が収容されていたが、本来は一〇〇〇名の捕虜を収容できるよう造られていた。」
「中馬収容所は一九三二年の後半に複合施設がまだ完成もしないうちから稼働し始めた。背陰河は少なくとも一九三四年秋まで(あるいは一九三六年近くまで)捕虜の殺戮を続けたが、その時、捕虜の暴動が起きて営内の日常業務が途絶し、東郷部隊の作戦任務の機密保護・秘匿性が危機にさらされることになった。(略)石井は一九三五年末に背陰河の施設を放棄した。そこでの秘密を守り通すために、彼は東郷部隊の土木工兵に施設の大部分を破壊するように指示した。彼らはきわめて手際よく命令に従ったため、発破後には施設の痕跡はほんのわずかしか残らなかった。」(以上、3章、背陰河細菌工場)
ここでは、(1)東郷部隊は細菌戦研究のため、ハルビン以外の交通の便が良い孤立した地域すなわち拉賓線(拉法―ハルビン間)の小駅があるハルビン東南約100キロの寒村・背陰河に立地したこと、(2)営内面積は500メートル四方(25平方キロ)の広大な規模であったこと、(3)主な建物は、捕虜監獄・人体実験室・管理部門からなる中央棟と約100棟の兵舎からなっていたこと、(4)建設工事は、東郷部隊の工兵隊の監督のもとに中国人農民や労働者が多数徴用されて実施されたこと、(5)施設を放棄する際には、悉く施設を爆破して痕跡が残らないようにしたこと、などが記されている。

(2) 常石敬一の場合
 常石は早くから731部隊に注目した科学史研究家であり、数多くの関係著書がある。そのなかで東郷部隊に関する比較的詳しい記述がみられるのは、常石敬一、『医学者たちの組織犯罪、関東軍七三一部隊』(朝日文庫、1999年)である。以下は、関係個所の抜粋である。
 「遠藤は、作戦参謀として着任翌年の一九三三年に少なくとも二度東郷部隊を訪れている。東郷部隊に出かけた際にも、その時の出来事や印象を日記に書いている。(以下、遠藤日記)・・・石井及伊達氏に迎えられ、背陰河の細菌試験所を視察す。六百米平方の大兵営にして、一見要塞を見るが如し。一同の努力の跡歴然たり。二十数万円の経費亦止むを得ざりしか。」
 「研究補助者の一人が栗原義雄である。彼は一九三四年五月、川島三等軍医正と一緒に背陰河に渡った。(略)栗原は部隊到着までとそれ以降について次のように筆者に回想している。(以下、栗原発言)・・・背陰河の施設は、敷地が三〇〇坪程度で、荒野の中にありました。守備隊の人員は二〇人で、その他に憲兵が二人いました。正面の塀は高く、そこには銃眼がついていました。この土塀の上には電線が張ってあり電流が流されていました。(略)部隊から二〇〇メーター離れたところに背陰河駅がありました。被験者は当時すでに丸太と呼ばれていました。彼らは貨車で駅まで連れてこられ、その二〇〇メーターほどを車(トラック)で運ばれました。部隊には被験者となる人が常時一〇〇人程度収容されていました。」
 「塀の中の建物は土でできていました。大きさは間口約五間から一〇間程度のものでした。塀の前面にも幾つかの建物があったが、これは一九三四年にトンコン隊の大工が造った木造建物でした。トンコン隊というのは石井の郷里である千葉県山武郡から来ていた人たちで、部隊で被験者の監視や、大工仕事や、酒保その他各種雑役を受け持っていたグループでした。(略)被験者はローツと呼ばれた檻に二人一組で入れられていました。ローツは各実験棟内に置かれて、各棟に五〜一五置かれていました。」
「栗原一九三六年に帰国した。しかし軍医の多くとトンコン隊と呼ばれた人たちは帰国せず中国に残った。彼らのほとんどがそのまま、その年正式に発足した石井部隊に参加するため、ハルビンに向かったのだった。」(以上、第2章石井機関、東郷部隊)
ここでは、(1)遠藤日記と栗原発言の内容にはかなりのギャップがあること、(2)その違いは「600メートル平方の敷地を持つ一見要塞のような印象を与える大兵営」と「300坪程度の敷地内の複数棟の土蔵建物」といった上記2人の表現の食い違いに基づくこと、(3)しかし、遠藤日記のなかの「大兵営」や「要塞」が個々の建物よりも敷地全体を指していると解釈すれば、栗原発言とはそれほど矛盾しないこと、(4)栗原発言の具体性から考えて、建物の実態は比較的小規模なものであったこと、などを類推できる。

(3) 東郷部隊と731部隊の連続性
以上からわかることは、東郷部隊の実態に迫るうえでの最大の問題点は、ハリスと常石の記述内容にはかなりの食い違いがあるということである。これは、それぞれの情報源となった韓と遠藤・栗原の証言の違いにもとづくものであろうが、とりわけ建物の構造や規模に関する食い違いが大きく、たとえば煉瓦造と土造・木造の違い、捕虜収容規模の1000人と100人の差、あるいは2つの翼棟をもつ大きな中央棟と10〜30人程度の捕虜を収容する小規模分散型の監獄棟など建築形態の違いもある。
いずれの証言が正しいかを判断する根拠が目下の私にはないので詳細は不明であるが、ひとつの判断材料としては、東郷部隊の当時の設立経費が20数万円(遠藤日記)だったことが参考になる。
常石が同書で明らかにしているように、同じ頃の1933(昭和8)年秋に新設された陸軍軍医学校の防疫研究棟(鉄筋コンクリート造2階建、地下室付、延床面積1795平方メートル、近衛騎兵連隊用地跡)の工事費は総額20万円であった。1933年当時、中国人の人夫賃は日本人の1/3〜1/4程度だったので(松村高夫他、『満鉄労働史の研究』、日本経済評論社、2002年、第5章、土木建築)、満州での工事費が日本に比べて格安だったとしても、20数万円程度の予算で大規模な中央棟(研究機器・設備も含めて)と煉瓦造兵舎100棟を建設するのはやはり不可能である。
またもうひとつの資料としては、1932(昭和7)年に関東軍司令部宿舎の新築工事(新京西部、敷地66平方キロ、煉瓦造83棟)の建設を請け負った松村組の工事費が1棟約1万円、総工費82万7000円だったことも参考になる(『松村組100年史』、1996年、第4章、海外の軍需伸びる、満州事変と松村組)。同じ宿舎・兵舎といっても司令部と前線部隊とでは建設単価が異なることは十分あり得るが、それにしても仮に中央棟の工事費を研究機器の整備を含めて10万円程度だとすると、残りの10万円程度の予算で煉瓦造兵舎100棟を建設できるとは到底考えられない。東郷部隊の兵舎単価が通常よりは割安だったとしても、建設棟数はせいぜい10数棟前後の小規模なものだったのではないかと推測される。
しかも1932(昭和7)年から1933(昭和8)年の頃は、満州全土にわたる建設ブームで建設工事関係の職人や苦力が払底しており、関東軍といえども容易に建設業者を確保できない状況にあった。まして東郷部隊のような秘密工事の場合は外部発注される可能性が低く、関東軍工兵隊あるいは東郷部隊の隊員が総出で農民徴用工を使って工事を進めたと考える方が自然であろう。そして、秘密を要する人体実験室や監獄などの内部工事(大工・左官工事、雑役など)に関しては、石井の郷里出身者からなる「トンコン隊」が手伝ったものと思われる。
とはいえここで重要なことは、施設規模の違いよりも「韓は(捕虜の)脱走事件が平房の本部建設の原因だとしているが、平房の本部建設はむしろ既定の方針であっただろう。東郷部隊は本格的な研究機関である石井部隊建設のための予備的な施設という位置づけだったと思われる」との常石の指摘である。この指摘が正しいとすれば、東郷部隊の建設で培ったノウハウが731部隊建設に活かされたことは容易に推測できるし、またこれと関連して東郷部隊の建設に従事した「トンコン隊」が、背陰河からの撤退後も引き続き731部隊建設にかかわり、平房本部のロ号棟建設に従事したことも理解できる。東郷部隊と731部隊の建設工事(とくに秘密箇所)は、石井の郷里の「トンコン隊」によって引き継がれていったのである。

2.当時の日本建設業の進出状況
次に、731部隊の建設工事を請け負ったと思われる建設業者を絞り込むための予備作業として、1932(昭和7)年の満州国の「建国」を契機にして満州に一斉に進出した日本の建設業の当時の活動状況を概観しておきたい。これは満州の「建国」を契機として首都新京の建設工事が急ピッチで進められ、そのうえ満州各地に展開する関東軍の施設建設と満鉄路線の鉄道敷設工事が加わって、満州全土で建設工事が一斉に開始されるようになったからである。

(1)点と線の建設工事
広大な大陸での植民地建設にとって、道路・橋梁・鉄道・トンネル・港湾・ダム・水力発電所・飛行場などインフラ施設、および各種建築の建設工事は欠くことができない。具体的には、①政府、軍・警察、国策会社などによる植民地支配のための行政施設(庁舎・官舎・病院・学校など)、②鉄道・港湾施設(鉄道・庁舎・駅舎・機関庫・操車場・倉庫・宿舎・埠頭など)、③軍事施設(軍事基地・庁舎・兵舎・兵器庫・軍需工場など)、④産業施設(本社・支店・工場・資材倉庫・社宅など)の建設が不可欠である。これらは全て膨大な土木建築工事を必要とする。
これを建設工事費の推移で見ると、「建国」前の1930(昭和5)年度の満州全体の土木建築工事費総額は1483万円であったが、それが「建国」を機に1932(昭和7)年度には5757万円(4倍増)、1934年(昭和9)年度には1億5463万円(10倍増)へと僅か4年間で桁違いの急成長を見せている。なかでも大連・奉天・新京などの主要都市および鞍山・撫順・安東などの主要工業地域には建設工事が集中し、これに全土の鉄道新設工事費を加えると、満州全体の建設工事費の1/2から3/4がこれら主要地域と鉄道インフラの建設に重点投資されていることになる。(越沢明、『満州国の都市計画』、日本経済評論社、1988年、5章、国都建設計画事業1933〜37年)
ちなみに1932(昭和7)年度の主要地域および鉄道新設における建設工事費2887万円の工事主体別の内訳は、満鉄1557万円(鉄道新設工事費1300万円、土木建築工事費257万円、全体に占める比率53.9%)、関東庁81万円(土木建築工事費、以下同じ、2.8%)、軍部275万円(9.5%)、満州国164万円(5.7%)、民間811万円(28.1%)となり、官公庁関連工事とりわけ満鉄関係工事の占める割合が大きい。(土木工業協会・電力建設業協会編、『日本土木建設業史』、技報堂、1971年、第3編、第8節、満州への進出)
この時期の関東庁や満州国政府の建設工事はまだ主要地域に限定されており、民間工事もそれ以外の地域では考えられないので、残りの満州全体の土木建築工事費(5757万円−2887万円=2870万円)のほとんどが満鉄と軍部によるものだといえる。この場合も満鉄が中心で軍部の工事費はそれに付随する程度のものであり、満鉄主導で満州全体の建設工事が進められたと言っても間違いではない。なぜなら、満州における日本の支配地域は満鉄の鉄道付属地に沿って展開される「点と線」の支配であり、「点」は満鉄駅を中心にした周辺市街地およびこれを守備する関東軍の陣地と兵舎からなり、「線」は満鉄路線そのものによって構成されていたからである。

(2)戦争と共に成長してきた建設業
日本の建設業の海外進出は、日露戦争(1904〜05年)以前から朝鮮半島における鉄道・兵舎・宮殿・銀行など朝鮮支配のために必要な一連の建設工事を嚆矢として始まり、満鉄の設立(1906年)および韓国併合条約(1910年)以降は、満鉄の路線拡大と日本軍の軍備増強に依拠して一挙に大陸全土で展開されるようになった。「どうも、わが業界は戦争のたびごとに大きくなっていくようですね」という戸田組社長の言葉にもあるように、日本の建設業は文字通り日本軍の勢力拡大に呼応して海外へ進出し、軍との密接な協力関係のもとに発展してきたのである。(東京建設業協会編、『建設業の五十年』、槙書店、1953年、第1章、座談会) 
建設業と軍の密接な関係については、東京建設業協会は次のようにも描いている。「(大林組は)明治二七年(1894年)には日戦争開戦の機運濃厚となるや、京城釜山間の京釜鉄道本線の工事を命ぜられてこれを完成し、京義線の方も途中の63箇の駅を完成している。もちろん日露戦争中も工事を継続して見事に難工事を成し遂げたのである。これで大林組はその名を天下にとどろかしたのであるが、その後も軍備拡張の波に乗って至る所に師団や連隊の兵舎を建てている。そんなことが機縁になってか、二代目社長大林義雄氏の令室は後の陸軍参謀長元帥上原勇策の令嬢である。なお日露戦争当時は、清水組は朝鮮で建築を、鹿島組は鉄道その他の土木を施工して、日韓併合以前に朝鮮における主要工事を手がけている。日露戦争後の軍備拡張のためには、このほか安藤組、鴻池組錢高組、松村組、藤田組などが活躍している。」(土持保・太田通、『建設業物語』、彰国社、1957年)。ここで名前が出てくる建設業者は、その後の満州において主要工事を軒並み独占する大手・準大手業者である。
また満州における建設業の活動状況に関しては、別の建設産業史のなかに以下のような記述がある。少し長い引用になるが、満州への建設業の進出経過がよくわかるので必要個所を抜き出してみよう。
満州国が成立すると、満州国政府による建国事業は膨大な工事需要を生み出したため、従来朝鮮に置いた支店や営業所をベースに満州工事を請け負った建設企業や新旧の業者はこぞって満州に進出し、そこに支店・営業所を構えた。満州では満鉄が満州国が入手した中国鉄道の経営を引き受けるとともに、関東軍の対ソ戦略に基づいて東満・北満のソ満国境へ向かって敷設する新線工事を請け負い、建設業者を糾合した。業者は満鉄と工事契約を結び大量の中国人苦力(クーリー)を雇用し、関東軍の陣頭指揮にしたがって工事を進めた。」
「昭和一二年(1937年)には、日本の戦時経済を補完する満州国の「産業開発五カ年計画」が実施され、満州の工事は多面化した。一五年(1940年)になると、満州各地へ進出した建設企業は満州政府の為替管理や経済統制による現地法人化を受け入れ、実質的には内地本店の支店・営業所に変わりはないものの支店・営業所名を廃し、株式会社満州竹中工務店、株式会社満州清水組、満州大倉土木株式会社、株式会社満州西松組のように一様に満州国法人に改組した。」
「建設業界は満州に膨大な工事量と破格の収益を夢見るとともに、「土木報国」のスローガンを唱和し、土木にたずさわるものは「準兵士」の信念を抱き、前線の技術兵として過酷な工事現場に踏みとどまった。(略)だが、満州で待ち受けていた工事は、作戦上の必要から生じる軍工事も満州国の社会的経済的基盤や産業施設の建設工事も多くは速成工事であり突貫工事だった。とくに圧倒的に多かった軍工事は工事品質は二の次になり、前線の急場の必要に追いまくられ人材を浪費し消耗させた。」
「それは激しい企業競争を技術と工事品質を第一義に考えて生き抜き、この頃ようやく国内に社会的なプレステイジを築き上げた建設業者を満足させるものではなかった。昭和一八、一九年(1943年、1944年)になると内地本社のなかには、満州工事が採算割れをきたしたのに愕然とし工事の継続をためらうものも現れた。だが、建設と戦争に多忙な現地から手を引くことは簡単にできるはずもなかった。」(以上、玉城素、『土木』、産業の昭和社会史12、日本経済評論社、1993年、5章、戦時下の内外土木事業、外地工事の実態)
ここには満州における建設工事の性格と実態がよくあらわれている。満州の建設工事は実質的には満鉄をスポンサーとし、関東軍の指揮と警備のもとに進められた軍事工事そのものであって、明治以来の「富国強兵型」の建設工事を引き継ぎ、極限化したものであったということである。それは、建設業が海外進出したといっても、実質的には軍に従属する軍事工事の担い手として進出したものであり、したがって活動範囲はいわゆる日本軍の勢力圏内に留まっていた。この時期の建設業の海外進出は、「結局は国策の波に乗った他力本願的なものにすぎなかった」とされるのはそのためである。(日本建築学会編、『近代日本建築学発達史』、丸善、1972年、7章、建設産業、大陸への発展と戦時体制の道)

(3)満州に進出した建設業者
当時の国内外にわたる建設業界の状況が「昭和初期の不況とその後の発展において、多くの中小業者がその力を弱めた一方、産業・軍事の中心部に近く位置していた大業者の地位が強固なものになる」と総括されているように、満州時代は戦争を通じて大手・準大手建設業者に工事が集中し、業界の寡占化が進んだ時代であった。(古川修、『日本の建設業』、岩波新書、1963年、2、最近の建設事業の拡大)
これを年間工事高でみると、1936(昭和11)年から1940(昭和15)年にかけての戦時5年間の上位10社の年平均工事施工高は、①大林組1億1800万円、②清水組9371万円、③大倉土木6274万円、④竹中工務店4834万円、⑤間組4300万円、⑥西松組3471万円、⑦鹿島組2804万円、⑧鴻池組1956万円、⑨錢高組1955万円、⑩広島藤田組1787万円というもので、上位10社で全国平均年間工事高約25億円のほぼ2割を占めていた。(同上)
これら大手建設業者は勿論のこと、これに引き続く準大手業者のほとんどが自ら進んであるいは日本軍に命じられて満州に一斉に進出した。ハルビンでも1930年代後半から大連・奉天・新京に次ぐ主要都市として建設工事が盛んに行われるようになり、1936(昭和11)年当時の満州における日本の主な建設業者数は、大手・準大手業者から中小業者までを含めて107、うちハルビンに支店・営業所を持つのは49業者(45.8%)に達していた。(土木工業協会・電力建設業協会編、『日本土木建設業史年表』、1968年)
満州に進出した多数の建設業者のなかから731部隊に関係したとされる業者を見つけ出すのは容易でないが、既存出版物のなかで一応名前が挙がっているのは、大手・準大手業者では大倉組、清水組、五十嵐組、松村組、間組大林組、「トンコン隊」関係では千葉の鈴木組、そして731部隊工兵隊である。このなかから731部隊の建設工事を請け負ったと名指しされている松村組、大林組、鈴木組の3社、および直接工事をしたとされる731部隊工兵隊の妥当性をまず検討し、次に社史で関東軍との関係を比較的詳しく記述している間組鴻池組の可能性についても言及したい。

3.731部隊建設に関する諸説
731部隊建設を請け負った建設業あるいは建設組織に関しては、最近に至るも論者によって説が分かれている。ここではまず731部隊の施設概要を説明し、次に関係出版物の中に挙げられている建設組織・建設業が該当するかどうか、その可能性を検討する。
(1)731部隊の立地条件と施設概要
 森村は、731部隊がなぜ平房区を選んだかという立地条件について、現地視察を踏まえて以下のような理由を挙げている。(森村誠一、『悪魔の飽食、第三部』、角川書店、1985年、第四章、悪夢の証言)
 ①細菌戦基地として、その秘密を管理しやすい土地であること。
 ②付近の人口が疎薄であり、万一細菌が外部に漏出しても被害を最小限に食い止められる地勢。
 ③しかもかつ大都市に近く、細菌製造に必要な人材・資材、技術的設備、労働力の確保が容易な土地。
 ④特別軍事地域設定のための十分な土地があること。その地形が平坦であり、谷、山、沼、岩等の自然の障害物がないこと。
 ⑤中国・ソ連の国境に近く、ソ連南下の抑止力となり得る戦略的地点。
 ⑥細菌戦の主要兵器たるペストの研究がしやすい風土。
 ⑦実験材料(ネズミやマルタ)を確保しやすい土地。
 ⑧開発した細菌兵器を容易に実戦に用いられる地域。
また、基地の建設過程と施設概要については次のように説明している。(森村誠一、『〈悪魔の飽食〉ノート』、晩聲社、1982年、ノートⅢ)
「第七三一部隊の本拠は、戦前の満州国(現在の中国東北部ハルビン市南方約二〇キロ地点にあった平房という町に置かれていた。関東軍の手によって平房に悪魔の細菌戦秘密研究所建設が開始されたのは、一九三八年六月三〇日のことである。当時、浜江省平房と呼ばれていた町に隣接して、関東軍の特別軍事地域が設定された。立ち入り禁止になった約六キロ四方の広大な特別軍事地域に、大がかりな軍事施設――飛行場、約三〇〇〇人の起居する宿舎群、発電所、鉄道引込線、教育学校施設、常時二〇〇人近くを収容する監獄、大小多数の研究室と教練用馬場、大講堂、運動場と神社、地下燃料格納庫――の建設が約一年間をかけて行われた。周囲に高圧電線を張りめぐらせた土塀と空堀に囲まれたこの大軍事施設にハルビン市浜江駅付近から第七三一部隊が移駐したのは一九三九年である。」
 森村は731部隊が細菌戦のための軍事基地との観点から、特に⑤⑥⑦⑧の立地条件が重要だと指摘している。しかしこれだけであれば、平房区と背陰河の立地条件がほぼ異ならないことから、私はやはり③のもつ意味、すなわち平房区とハルビンとの位置関係(距離20キロ)が大きかったと思う。というのは、家族・子どもを含めて3000人という大集団が平房区で生活するには、731部隊基地だけでは不可能だったからであり、近傍のハルビンという大都市の持つ有形無形の便益が必要不可欠だったからである。
たとえば、日本の京都・東京などの大都市から研究者・技師やその家族を多数呼び寄せるためには、小学校・中学校・女学校をはじめとする教育施設の整備が不可欠であったし、また休日のショッピングやレクリエーションなどの都市的文化生活の機会も欠かせなかった。これらの生活条件を満たすことは、「荒野の寒村」(背陰河)はもとより 「荒野のなかのニュータウン」(平房区)でも不可能であり、平房区から通勤・通学圏内にある大都市ハルビンの存在があってはじめて可能になったのである。
 またこれは言わずもがなのことであるが、石井部隊長がハルビンの旧ロシア人豪邸に住み、731基地にお抱え運転手付きの自動車で通っていたこともこのことを実証している。放蕩生活で名高い石井にとって料亭や遊郭のない日常生活は考えられず、ハルビンその他の大都市での遊興生活は彼にとっては欠くことのできない人生の一部であったからである。
 加えて、④の平坦にして十分な土地を確保できることは、飛行場建設のためにも欠くことのできない重要な立地条件だったと思われる。これは731部隊に専用飛行場が設けられていたことでもわかるように、中国や満州各地での細菌戦を実施するうえで731部隊には航空隊の存在が不可欠であったし、また731部隊幹部が東京陸軍省や軍医学校などと頻繁に往来するうえでも飛行場は必須の施設であったからである。
同時に、後述するように731部隊に隣接して関東軍第8372航空部隊が設けられたことも、③④の立地条件が極めて重要であったことを示している。8372航空部隊は731部隊を警護するとともにハルビン防衛の役割を担っていたため、ハルビン近傍に立地しなければならないことは自明の理であった。このため関東軍司令部は、「平房付近特別軍事地域設定の件」に関する通牒において、石井部隊庁舎を特別軍事営造物として指定して秘密を保持するとともに、8372航空部隊の飛行隊の障害となる近傍の二層以上の建物を禁止し、特別軍事地域上空の飛行禁止を定めたのである。 

(2)常石敬一731部隊工兵隊説
 東郷部隊との連続性を重視する常石は、731部隊の建設工事を受け持ったのは工兵隊との説を採っている。以下はその主な記述部分である。
 「本部の巨大なビルをはじめ、平房の全建物を建設したのは工兵隊であろうが、彼らにはどんな説明をしたのであろうか。自分たちが建設中の施設がどんなものであるかは、誰でも知りたいところである。もし平房が本部建設以前から生体実験場であったという推測が正しければ、工兵隊の兵隊たちは、被験者である外国人の集団の存在に気付いたはずである。その場合、その地は外国人専用の刑務所であるという説明を受けたであろう。(略)少なくとも細菌戦研究のための、そして生体実験のための本部の建設である、と教えるわけにはいかない。平房の本部建設に当たった工兵隊に、監獄を建設しているのだと思わせたのではあるまいかという推測は、その本部の構造から成り立つ推測である。「丸ビルの三倍」あるといわれた本部は、外から見れば四角の巨大なビルである。しかし外側から見えない中心部、あるいは中庭に相当するところに生体実験の被験者を収容する監獄があった。」
 「平房の本部の建設は一九三九年からである。すなわち新本部はそこで生体実験を行うこと、被験者を収容することを最初から予定して作られている。そのため監獄の造りは非常に頑丈で、ソ連参戦の日、一九四五年八月九日に部隊はそれの破壊を決定したが、通常のダイナマイトでは壊れなかった。結局トラックで大量の五〇キロ爆弾を運び込み、それでやっと破壊し、証拠の隠滅が行われた。これらの作業は、監獄の存在を秘密にしておくため、部隊敷地内の工兵隊にも頼まず、その存在を知っている部隊員だけに行わせた。(略)石井部隊本部の本館その他の建物は、近くにいた部隊の工兵隊によって、跡形もなく破壊されたという。」(常石敬一、『消えた細菌戦部隊』、海鳴社、1981年、Ⅲ.平房―生体実験の地)
 常石はその後、1990年代以降の著書においては工兵隊説に若干の修正を加えている。それは工兵隊が平房の全建物の工事をやったということではなく、監獄などの特定部分は石井が千葉の郷里から連れてきた「トンコン隊」が工事を受け持ったとの修正である。これは常石が実際の建設工事に参加した萩原英夫という証言者と出会い、千葉県出身の鈴木組が監獄工事を担当していたという動かしがたい証言が得たためであろう。以下は、その関係個所である。
 「監房について、中帰連の会員で元憲兵の萩原英夫は、千葉での七三一部隊展に寄せた手紙に次のように書いている。彼は憲兵になる前、七三一部隊の本部建物を建築した鈴木組の一員として本部の建設工事に加わった。(以下、萩原証言)七・八棟は同じ設計、同じ構造で、入口、奥は廊下をはさんで四室に仕切られており、奥の四室はタイル張りで、生体解剖その他の実験に使われたと思います。滅菌室が取り付けられた部屋もありました。一・二階とも真ん中の約二五平方メートルぐらいは、何の設備もしていない空き室でした。この空き室に人体実験に使ういわゆる「丸太」を監禁する監禁室を造るのが、私たちの重要な仕事でした。」(常石敬一、『七三一部隊生物兵器犯罪の真実』、講談社現代新書、1995年、第五章、朝鮮戦争
 「第一陣が到着した頃(1938年春)、平房の建築群はまだ建設途上であったが、本館の外装はほぼできあがっていた。しかし内部は未完成で研究することができなかった。また被験者を入れる監獄も、石井が千葉の自分の郷里から連れてきた人たちによって建設が進行中といったところだった。」(常石敬一、『医学者たちの組織犯罪、関東軍七三一部隊』、朝日文庫、1999年、第2章、石井機関、背陰河から平房へ移転)
 だが、常石の工兵隊説には修正部分を考慮してもなお相当な無理がある。それは、工兵隊は主として戦争遂行に必要な陣地の構築や道路・橋・鉄道・通信施設など応急的な野戦工事を現場で行う工事部隊であって、恒久的な建物の建築工事を行う組織ではないからである。したがって「丸ビルの三倍」もの規模があり、かつ工事費が110万円(常石、同上)の本格的な731本部建物の建築を一介の工兵隊が行うことなど全く考えられないし、またそれに必要な技術も装備も有していない。しかも731部隊の建設工事は、森村・下里の「施設全図」でもわかるように、6平方キロに及ぶ広大な敷地に80棟近い各種建物を僅か2〜3年で完成させる短期集中工事であり、これだけ大規模な建設工事を単独の工事組織(工兵隊)が行うこともまた不可能だといわなければならない。
 ちなみに、工事費110万円級の建築工事が当時どれぐらいの工事であったかというと、それは日本を代表する超大手の建設業者が総力を挙げて取り組まなければならないほどの大工事であった。大林組が当時満州で施工していた数多くの建物のなかで、「新興満州国の首都新京を代表する建築物」だと誇る関東軍司令部庁舎(1934年竣工)の工事費が100万円、満州国国務院庁舎(1938年竣工)の工事費が150万円であった。(『大林組百年史』、1993年、第4章、激動する国情のなかで、大陸への進出)

(3)松村高夫の鈴木組説
 石井の郷里である千葉出身の「トンコン隊」が東郷部隊時代から建設工事の雑役や建設後の施設管理に当たっていたことは、常石の著書ですでに明らかにされている。そのなかから「鈴木組」という建設業があらわれ、鈴木組が「部隊建設を一手に請け負った」とするのが歴史家である松村高夫の鈴木組説である。以下はその記述部分である。(松村高夫、「本書の研究視角」、関成和、『七三一部隊がやってきた村――平房の社会史』、こうち書房、2000年)
 「三五年の夏には平房にある黄家窩堡という村に関東軍の一部が進駐した。この地に七三一部隊の根拠地を建設するための測量が始まったのである。(略)
三六年秋には部隊建設のための工事がこの黄家窩堡の西北部と劉家窩堡に接する耕地で着工され、工事は次第に南東の方向に伸びて行き、三七年には部隊の専用鉄道引込線が敷かれ平房駅と結ばれた。一九三七年七月七日、日中戦争が勃発すると七三一部隊の建設はいっそう促進された。翌三八年六月には「平房付近特別軍事地域設定ノ件」(関東軍参謀本部訓令第一五三九号)が布告されると、黄家窩堡の農民は平房警察駐在所から一か月以内に立ち退くよう命令され、(略)さらに七三一部隊本部の西、北、東の三方面の二〜五キロに位置する三村も立ち退きを命じられ、「無人区」とされた。(略)こうして囲い込まれた土地に、七三一部隊の本部官舎、各種実験室、監獄、専用飛行場、少年隊舎、隊員家族宿舎(東郷村)などが建設された。日本特殊工業が部隊の研究機材を、鈴木組が部隊建設を一手に請け負った。三八年一月第一次建設班二〇名が、同年四月には四〇名が到着したが、いずれも秘密保持のため石井四郎部隊長の郷里近くの千葉県山武郡香取郡の出身者であった。七三一部隊の中心にはロ字棟と呼ばれる約一〇〇メートル四方、三階建ての巨大ビルが建てられ、一九四〇年に完成した。」
 文中からわかることは、731部隊建設に従事した鈴木組の建設班は第1次と第2次を合わせても僅か60名にすぎなかったという事実である。この陣容はいわば「トンコン隊」の延長程度の小規模な組織であって、せいぜい下請業者の規模でしかない。また後述するように、鈴木組リーダーの鈴木茂は、石井の親戚であったとはいえ、その前身は「日雇い大工」にすぎなかった。また建設班として平房区に送り込まれた千葉出身の人びとは、「貧しい小作人の次男、三男はもちろんのこと、十五歳の少年から、大工、左官屋、タイル職人、運転手、中華料理店のコックに至るまで、地元の働き手が根こそぎ動員された」のであって、組織的な建設集団ではなかった。(青木富貴子、『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―』、新潮文庫、2008年、プロローグ、深い闇)
 「日雇い大工」と雑役集団が100メートル四方の巨大な鉄筋コンクリート造の3階建ビルを建築する専門技術を持っていたなどとは到底考えられない以上、松村の鈴木組説は明らかに誤解だと言う他はない。しかしここで重要なことは、千葉出身の「トンコン隊」が鈴木組として再編され、ロ号棟の内部工事に従事していた事実が確認されたことであり、そのことによって731部隊全体の建設工事を請け負っていた建設業者(工兵隊ではない)の存在が浮かび上がったことである。

4.731部隊建設工事をめぐる情報の妥当性
 常石の工兵隊説および松村の鈴木組説にはいずれも難点があることを指摘したが、これら諸説の判断材料となった731部隊工事にまつわる落札情報や関係者の証言の妥当性についても整理しておきたい。

(1)松村組の落札情報と萩原証言
 まず有力な情報として挙げられるのは、準大手建設業である松村組が731部隊建設工事を「落札したらしい」とする情報についてである。この情報は、森村の『悪魔の飽食、第三部』(1985年)の中に既存文献からの情報として引用されているもので、出典は雑誌『真相』四〇号の「内地に生きている細菌部隊、関東軍七三一部隊を裁く」(人民社、1950年4月1日)である。当誌はすでに廃刊されているが、記事は『雑誌真相復刻版』第二巻(三一書房、1981年)の中に収録されている。関係する箇所は以下の通りである。
 「昭和一三年末、第七三一部隊満州国賓江省双城縣平房の地点に大工事の入札を行った。石井部隊長は、乙津一彦憲兵曹長に新京に各支店を持つ大倉組、清水組、五十嵐組、松村組、間組その他、殺到する大小業者の動きを厳しく取り締まらせた。このとき、乙津曹長は各業者の見積もり現場まで一人ずつの憲兵を派して業者相互の動きを断ち切り、「ダンゴ入札」を完封した。「たしか松村組が落札したと思うが、石井部隊長はうまくいったと大喜びで自分にも金一封をくれたから、案外あの大工事も安くあがったらしい。」(現帝国興信所第一調査課勤務、乙津一彦氏談)」
 この情報をありのままに読めば、証言者の身元も明らかであり、話の内容もリアルであって、憲兵隊が「ダンゴ入札」(談合)を封じたあたりは「十分ありうる話」のように感じられる。だが憲兵が入札事務に関与できない以上、「たしか松村組が落札したと思う」という乙津発言が事実であるかどうかを確認できる術がないし、森村もそれ以上言及していない。ただ、このような情報があったと紹介しているにすぎない。
 ところが、松村組の名前は別の中国側の資料にも出てくる。それは『日本帝国主義侵華檔案館資料選編』第5巻、『細菌戦与毒気戦』(中央檔案館・中国第二歴史檔案館・吉林省社会科学院合編、中華書局、1989年)の「第1部、日軍細菌部隊及其罪行」の文中においてである。この文献資料は日本でも直ちに翻訳され、『証言、人体実験―731部隊とその周辺―』(江田憲治他編訳、同文館、1991年)として出版された
 このなかに収録されている第七三一部隊の本部工事やそれに至る経過についての萩原英夫自筆供述書(1953年4月15日)はきわめて具体的かつ詳細なものであり、しかも終戦からそれほど時間が経過していない時点での供述なので、証言としては非常に価値が高いと考えられる。また付属資料として、①千葉建設班の名簿(住所、氏名、年齢、職業など)、②石井部隊平面図、③石井部隊建物平面図、④第七、第八棟(生体実験所)内部構造が添付されていることも証言価値を一層高めている。萩原の供述は常石や青木の底本ともなっており、いわば731部隊建設工事に関する原典ともいえる供述書である。供述した関係個所は、以下の通りである。
 「①直接参加した犯罪行為:石井部隊の生体実験所の内部設備、研究機材の輸送及び設置、②時間:一九三七年一月から一九三九年一月まで、③場所:ハルピン平房、④指示者:石井部隊長、軍医大佐(当時)石井四郎、⑤作業指示者:石井部隊建築班建築技術員・工藤某、請負者の鈴木組責任者・鈴木茂、⑥実施者:萩原英夫ら約六〇人。」
 「五常(背陰河)に研究所が設置されたとき(一九三四年頃)、石井の郷里、千葉県山武郡千代田村加茂の人びと(約二〇人)が石井に動員されて満州に渡り、石井部隊の職工として各種の業務活動に加わって多額の財産を手にした。(略)石井は自分の親戚の鈴木茂(当時臨時雇いの大工)を五常に呼びよせ、各種の建築業務に従事させ、鈴木も大きな利益をあげた。のちに鈴木は企業を徐々に拡大し、土木建築請負の鈴木組を設立してその組長になった。彼は石井部隊の建築工事を請け負うほか、別の企業へも投資していた。」
 「一九三八年、われわれ一行二〇人は満州に到着した。募集当初の契約では、みな石井部隊の職工と規定されていたが、ハルピンに到着すると二〇人全員が一人の例外もなく鈴木組に引き取られることになった。作業現場の平房に送られてからは、仕事の手配、賃金の支給などもすべて鈴木組を通して行われた。」
 「当時の部隊は外部工事が基本的に完了し、滅菌器そのほかの研究器材がプラットホームに山のように積み上げられ、内部設備の据え付けにかかっている段階だった。外部工事は松村組が請け負ったらしい。内部の機密業務、たとえば研究器材の運搬、解梱、据え付け、とくに七、八棟(生体実験所)の各種内部建設や器材の設置などは、以下に労働力が安くても中国人を雇うわけにはいかなかった。石井がわれわれ同郷者を募集したのが、何よりも秘密の漏洩をふせぐためだったことはいうまでもない。」
 「工事現場に着いた時、建設班の工藤技術員から次のような石井部隊長の命令が伝えられた。「七、八両棟の内部工事は、今年(一九三八年)中に必ず完了させること。業務については部隊のいかなる者ともこれを話してはならない。話した者があれば厳罰に処す」。(略)第七、八両棟に出入りする者に対しては、出入りのたびにいちいち保機班(機密保持のためにつくられた機構)によって身分証明書が検査され、身体検査が行われた。また大工と左官の責任者は、毎日必ず内部設計図を保機班に返すことになっていた。母方のおじの青柳はわれわれ二〇人の責任者で、当日現場に来た人数、作業の種類および場所を保機班に報告しなければならなかった。」
 「平房の陸軍宿舎内の設備は、関東軍陸軍宿舎のなかでももっとも完備したものであったという(実際には私もみたことがない)。日本特殊工業株式会社は石井部隊の研究器材を生産して莫大な利益をあげたし、石井の親戚の鈴木茂は一文無しの臨時雇いの大工だったが、石井に呼ばれて満州に渡り、一九三九年までわずか四、五年で十数万円の財産を築き上げている。」
 萩原の供述は、(1)石井部隊には建築技術員がいて建設現場の工事管理をしていたこと、(2)七、八棟の内部工事の請負業者は鈴木組であり、責任者は組長の鈴木茂であったこと、(3)七、八棟の内部工事はとくに保機班によって厳重に管理され、出入りの際の作業員の身体検査、責任者による作業工程や人数の報告、設計図の返還などが毎日行われたこと、(4)七、八棟の外部工事は「松村組が請け負ったらしい」こと、(5)平房の陸軍宿舎内の設備は関東軍陸軍宿舎のなかでももっとも完備したものであったらしいこと、(6)日本特殊工業や鈴木組は莫大な利益を上げていたことなど、731部隊の建設工事に実際に携わらなければわからない内部事情を詳しく説明している。
萩原は1956年に釈放され、その後は中帰連の一員として数々の証言活動を行っており、同様の証言は西野留美子が代表を務める七三一研究会/証言集編集委員会編の『細菌戦部隊』(晩聲社、1996年)においても確認できる。1995年当時の聴き取りによるこの証言は、「志摩田実」という仮名によるものであるが、証言者の経歴や証言内容からみて萩原の証言と考えて間違いないと思われる。ただし松村組に関する部分は、「外部工事を請け負ったのは松村組でした」となっており、40年前の供述が「らしい」との推測であったのに対して、ここでは「でした」との表現に変わっているがその理由は説明されていない。

(2)松村組の可能性をめぐって
 萩原証言は貴重なものであるが、こと松村組に関する証言に関しては彼自身の事実確認によるものではなく、周辺からの伝聞情報(おそらくは工事管理者や鈴木組責任者などを通して)にもとづく推測であることに注意しなければならない。731部隊の全体工事からすれば、萩原はその中の一部の建物の内部工事に雑役夫として従事していたにすぎないのであって、外部工事ひいては全体工事の建設業者を特定できる立場にはなかったからである。したがって萩原証言は貴重ではあるが、こと松村組に関しては伝聞情報として理解しておく方が無難である。
 そこで松村組社史の関係箇所を調べてみると、概ね以下のような当時の会社の輪郭が浮かび上がってくる。松村組と関東軍の関係は、満州国建設当時(1932年)から相当深いものがあったらしく、松村組は新京の関東軍司令部宿舎83棟(1932〜33年)を皮切りに新京自動車隊(1933年)、公主嶺高射砲隊兵舎、新京自動車隊兵舎、関東軍興安大路宿舎、新京衛戍病院(以上1934年)など軍関係工事を連続受注している。そして株式会社満州松村組(1940年)を設立した当時の松村組の勢威は、「関東軍の厚い信用を背に満州の工事は大きく発展した。とくに満州東部の牡丹江からソ満国境への一帯には次々と大規模な兵舎工事を受注して、当社のホームグラウンドの観があった。工事受注高も進出後2、3年は年間100万円弱であったのが、昭和11年には200万円を突破、同13年には400万円という躍進ぶり、(略)この勢いはさらに続き昭和14年には、満州房産会社(住宅会社)の工事も加えて年間1000万円にまで達した。(略)工事地域も北は大黒河、南は錦西、東は平陽、芬陽、西はハイラル満州全体に広がった」というものであった。(『松村組100年史』、1996年、第4章、海外の軍需伸びる、満州事変と松村組)
 だが、これら松村組の関東軍工事に関する社史の中に731部隊工事の名を一切見つけることはできない。その理由としては、①そもそも松村組が731部隊の工事を請け負っていなかった、②社史を編纂する段階で731部隊関係工事はとくに秘匿された、③当時の資料が戦中戦後の混乱に紛れて紛失した、などいろんなケースが考えられる。しかしありうる話としては、④軍による軍事工事秘匿の命令通達によって、建設工事が終わった段階で関係資料が軍に返却もしくは破棄された可能性が大きいと思われる。
 その根拠としては、1943(昭和18)年頃に各社に対して出された「戦時建設工事の秘密確保についての軍通達」の存在がある。内容は以下のようなものである。(『清水組社報』、1943(昭和18)年10月号、土木工業協会・電力建設業協会編、『日本土木建設業史年表』、1968年、昭和資料編に所収)
 「1.工事名、工事場所、竣工期日、其の他の内容に関し社外に漏らさざるは勿論、社員間と雖も秘密を守ること。」
 「2.工事の場所並びに電車、汽車、汽船等の乗物内に於て工事に関する談話を為し、又は図面仕様書等を展開せざること。」
 「3.図面、仕様書其他工事関係書類は厳重保管を為し、亡失又は遺失せざる様特に注意のこと。」
 「4.前項書類不要の場合は、焼却又は原型を止めざる様裁断する等万全の処置を講ずること。」
 「5.図面仕様書等の発行に際しては、相手方に右の趣旨を注意徹底せしむること。」
 「6.諸職方、使用人に対しても以上の趣旨を注意徹底せしむること。」
 「7.右各項の外、防諜上必要と認めたる事項は厳重取締励行のこと。」

 この結果、社史の執筆者が嘆くごとく、「このような急テンポの成長発展の跡を裏付ける記録や資料がこの時代には大きく欠落しているのである。工事の大部分が軍事関係のものであり、厳重な軍事機密として扱われたことが最大の理由であろう。工事の名称も、トタエ工事、トシ工事といった暗号で呼ばれ、なかにはそれさえ秘匿して○○工事とされていたものもある。工事記録もおそらく軍の管理のもとに置かれたか、あるいは処分されたと思われる。だから、工事にかかわった人たちの記憶や個人的な覚書しかない。それも戦後の戦争否定の風潮のなかでは、各人の胸にしまい込まれることが多かったであろう。戦争中の行状については、なるべく聞くまい、語るまいとする雰囲気が戦後とくに強くあったし、それは今に至るまで続いている。そのようにして時は流れ、当時の人たちは他界される方もあり、記録も記憶も薄れていったのである。勢い、この時期の社史は散逸を免れた資料だけを頼る飛び石のような記述にならざるを得ない」ということになったのであろう。(松村組、前掲書) 

(3)大林組に関する情報
 松村組に関する情報が伝聞形であるのに対して、大林組の場合は、森村誠一731部隊の建設工事を請け負ったのは「大林組ほか軍の御用業者」と断定している。森村は文中でその根拠を挙げているわけではないのでここでは判断材料の是非を検討することはできないが、森村は「第七三一部隊の施設は、当時新京(現在の長春)にあった関東軍司令部が直接監督し、工務関係部署の念入りな設計と日本特殊工業、大林組ほか軍の御用業者の手による施工で完成したものである。」と明確に記述しているのだから、よほどの確証があるのだろう。(森村誠一、『新版・悪魔の飽食』、角川書店、1983年)
 青木富貴子も森村の記述に依拠しているのか、同様に「大林組」が請け負ったことを前提に「篠塚ら少年隊第一回後期の少年たち二九名が平房に到着した一九三九(昭和14)年五月は、七棟と八棟の内部工事が完了した時期だった。研究所など大きな建物や飛行場を建設する大工事は大林組が請け負い、現地中国人を使って完成させていた。しかし七棟と八棟の内部工事や研究機材の搬入、設置は秘密を要するため、大林組も現地中国人も外され、「加茂」から送られてきた労働者だけに任された。工事は厳重な秘密のもとに行われ、その詳細は長く不明だった」と書いている。(青木富貴子、『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―』、新潮文庫、2008年、第三章、平房の少年隊)
 またシェルダン・H・ハリスは大林組とは断定していないが、アメリカ公文書館GHQ文書のなかの731部隊幹部・内藤良一に関する調書(1947年4月3日陳述、文書番号29510)にもとづき、次のように記述している。(『死の工場』、5章、平房版地獄編、前掲書)
 「石井は時には鷹揚で思いやりのある指揮官になることもある。彼は、部隊員たちが楽しく快適な気分であってほしいと望み、そうした目標を達成するために気前よく金を使った。たとえ石井が平房の死の工場を建設する独占権を日本の建設会社一社に与え、また東京の日本特殊工業株式会社に「部隊に必要なあらゆる設備」の供給を認めて、彼が許可したあらゆる水増し送り状についてリベートを受け取っていたにせよである。」
 「平房を日本の科学者、労働者、武装衛兵にとって耐えうるものにするために、石井は思慮深くもこの模範的な死の工場の敷地に、日本人居住者のための22棟の最新式官舎、図書室と酒保の完備した1000席の大講堂、水泳プール、庭園、小さな酒保や隊員食堂、浴場、魚や野菜を保存するための倉庫、運動場、日本人スタッフ用売春宿などからなる都市内都市を設けた。最新の医療機器と医薬品を揃えた4棟のバンガローが日本軍の医療ニーズに応えていた。大きな神社は、スタッフとその家族の精神的な支えとなっていた。また初等・中等併合学校は、軍属・軍人の子女に伝統的な日本式教育を提供していた。」
 ハリスが内籐の陳述を文中で正確に再現していることを前提にして考えると、内藤が731部隊幹部の一員でありかつ高いレベルの情報を持っていながらなぜか建設業者の名前を特定せず、「平房の死の工場を建設する独占権を日本の建設会社一社に与えた」としか陳述していないことが気になる。内籐が建設会社の名前を知らなかったとは到底思われないので、彼が意識的に名前を明かさなかった理由はいったいどのような意図によるものであろうか。
 そのヒントは、彼が上記の一節に続いて、石井が日本特殊工業から巨額のリベートを受け取っていた事実を「送り状の水増し」という方法も含めて具体的に陳述していることのなかに見出せる。内籐はわざと建設会社の名を伏せることによって、石井が建設業者からも同様に巨額のリベートを受け取っていたこと、それも日本特殊工業をはるかに上回る桁違いの裏金を提供させていたことをGHQに匂わせたのではないだろうか。なぜなら建設工事の「一社独占」体制は、秘密を保持しながら石井が建設会社から裏金を捻出させるための不可欠の要件だったからである。
 なおこの場合の「一社独占」とは、必ずしも全工事を一社が請け負うという意味ではなく、一社が建設工事の総元締め・元請けとして施主から工事を独占的に請け追いって金銭授受の会計責任を負い、工事そのものは各種下請業者に分散して差配するという仕組みである。
 そういえば、このことは萩原証言のなかにあった「日本特殊工業株式会社は石井部隊の研究器材を生産して莫大な利益をあげたし、石井の親戚の鈴木茂は一文無しの臨時雇いの大工だったが、石井に呼ばれて満州に渡り一九三九年までわずか四、五年で十数万円の財産を築き上げている」との内容にも符合する。鈴木茂は日本特殊工業と同じく、石井と結託してあらゆる工事代金を「水増し」して数年の間に莫大な蓄財に成功したのであろう。鈴木が当時満州でどれだけ羽振りを利かせていたかは、「台湾、樺太、朝鮮、南洋、関東州、満州支那、海外に其住所を有する凡ゆる階級に渡る知名人士を網羅せる」人事録のなかに、高級官吏や軍幹部、銀行・大企業経営者などと並んで彼の名前や経歴が収録されていることでもわかるというものである。
 人事録を再録すると、來満時期については多少のずれはあるが、「鈴木茂、鈴木組(株)社長、哈爾濱市道裡買賣街五三、電七五九〇、【閲歴】千葉縣人、明治三一年九月一九日同縣香取郡多古町に生る、東京に斯業習得、昭和十一年來満、現地にて獨立創業す」となっている。(『第一四版、大衆人事録、外地、満・支、海外篇』、東京秘密探偵社、1943(昭和18)年、『昭和人名辞典、第4巻』、日本図書センター、1987年復刻)

5.結論
そろそろ結論に進まなければならない。結論を先に言うと、各社の社史のなかから731部隊工事を請け負った建設業者を特定することはできず、また設計図その他資料の有無を確かめることもできなかった。しかし731部隊関係文献の消去法的検討によって、少なくとも工兵隊説や鈴木組説の問題点は指摘することができたと思う。そこで最後に残った可能性として、森村のいう「大林組ほか軍の御用業者」の妥当性を検討して本稿の終わりとしたい。

(1)有力な大林組
 私が森村の大林組説を有力だと考える理由は、以下の3点である。第1は、731部隊の建設工事に関して、「関東軍司令部が直接監督し、工務関係部署の念入りな設計と日本特殊工業、大林組ほか軍の御用業者の手による施工で完成したもの」とあるように、森村が建設工事における設計部門と監督管理の役割を正しく指摘している点である。第2は、そのことと関連して当時の日本陸軍関東軍司令部と大林組が当時緊密な関係があったという事実の存在である。第3は、731部隊に関する既存文献のなかから大林組の関与を示す「小さな発見」があったことである。
 まず第1の点については、戦前の建設業者は現在のような「ゼネコン」すなわち設計から施工までの全ての建設工事を行う総合建設業ではなく、建設工事だけを請け負う文字通りの「施工請負業者」であった。とりわけ官公庁や軍隊が施主(建築主)となる大工事の場合は、施主の営繕(設計)部署が自ら設計するか、あるいは設計を専門とする大学教授あるいは設計事務所に依頼するかのどちらかが通常の姿であって、施工業者に設計を委ねることはきわめて稀だったのである。
 しかし、当時の関東軍司令部や発足したばかりの満州国政府はこのような設計部署が整っておらず、実際の設計業務は満鉄から派遣された設計技術者が満鉄社員の身分のまま政府職員としての仕事をこなしていた。この間の事情を植民地建築の専門家である西澤泰彦は次のように語っている。(西澤泰彦、『日本の植民地建築―帝国に築かれたネットワーク―』、河出書房新社、2009年、第5節、満州国政府の建築組織、より詳しくは、西澤泰彦、「「満州国」の建設事業」、山本有造編、『「満州国」の研究』、緑蔭書房、1995年を参照)
 「この時期、政府庁舎や職員宿舎の新築設計をおこなっていたのは、満鉄本社工事課に所属し、満鉄社員の身分のまま満州国に派遣された相賀兼介であった。満鉄は1932年3月から8月にかけて、相賀など161人を社員の身分を保持したまま満州国政府職員として派遣した。(略)彼が新京に着いて最初に訪れたのは満州国政府の機関や要人宅ではなく関東軍司令部であり、関東軍参謀から首都新京の都市建設を統括する組織となる国都建設局の建築主任になるよう指示された。このような相賀の動きを見ると、満鉄が満州国政府に社員を派遣したのは満州国の要請ではなく実質的には関東軍司令部の要請であったと考えられる。(略)1932年から1939年にかけて国都建設局技術処建築課長、需要処営繕課長、営繕需品局営繕処設計課長を務めた相賀兼介は、実質的に満州国の建築組織の責任者としてその活動を主導した。(略)建築組織の技術者数は、1932年末には需要処営繕科と国都建設局建築科を合わせても17人であったが、1939年末には260人に膨れ上がった。」
 当時、関東軍司令部の建設関連部署には経理部工務課があったが、工務課の役割は主として建設現場(戦地)での工事管理であり設計機能は備わっていなかった。したがって森村の言う「関東軍司令部の直接監督」と「工務関係部署の念入りな設計」の意味は、関東軍の要請(命令)にもとづき満鉄から満州国政府に派遣されていた設計技術者たちが731部隊の諸施設を「念入りに設計」し、工事現場の管理は関東軍司令部経理部工務課(あるいはその委託を受けた政府設計組織)が直接に当たったということであろう。このことは731部隊が秘密組織であっただけに、関東軍司令部が工事管理に直接関与した可能性を示唆するものでもあろう。
 
(2)関東軍大林組の緊密な関係
 第2の点については、数ある建設業のなかでも大林組と軍の関係がとくに深かったことである。建設業界では、創業年次が江戸時代まで遡る清水組(1804年)と鹿島組(1840年)の両社は、「建築の清水」「土木の鹿島」といわれるほどの卓越した地位を占め、それにくらべて1892(明治25)年創業の大林組はむしろ後発の新興勢力であった。
しかし日清・日露戦争を通して日本陸軍の大拡張が行われるようになると、大林組は海外工事はもとより国内での軍関係工事を軒並み受注して急成長を遂げ、日露戦争後は「大林組に至っては豊橋・岡山の2箇師団、岐阜・篠山・津・奈良・徳島の5箇連隊の工事を一手に請け負って、同業者から苦情を持ち込まれるぐらいに手をひろげて施工した」といわれるまでになった。(『近代日本建築学発達史』、前掲書)
 また大林組は1931(昭和6)年に満州に進出して以来、並みいる同業者を尻目に関東軍司令部庁舎(1933年)、満州国国務院庁舎、満州中央銀行(1934年)など満州を代表する建築を次々と受注し、その後も満州国宮廷宮殿、新京の関東局庁舎、奉天の満鉄総合事務所、関東軍夜戦航空廠、関東軍公主嶺航空隊本部・兵舎などの主要工事も手掛けている(『大林組百年史』、前掲書)。その結果、1936(昭和11)年から1940(昭和15)年にかけての年間平均工事高ランクでみると、大林組は1億1800万円で清水組・鹿島組を抜いてトップに躍り出ることになった。(古川修、前掲書)
 これ以降はあくまでも私の個人的推測であるが、大林組と陸軍・関東軍との緊密な関係は大林家と陸軍最高幹部との縁戚関係によるものが大きいと思われる。1940(昭和15)年、株式会社満州大林組社長に就任した大林義雄は創業者の三代目後継者であり、その妻は「日本工兵の父」といわれ、工兵組織の近代化に貢献した上原勇作(1856〜1933年)の娘であった。上原は陸軍大臣教育総監参謀総長の「陸軍三長官」を全て歴任した陸軍切っての実力者であり、かつフランス陸軍に留学した軍事土木の専門家でもあった。そのことが軍工事と関係の深い大林家との縁戚につながり、延いては関東軍司令部庁舎をはじめとする満州国を代表する建築の受注につながったことは想像に難くない。(今村均、『私記・一軍人六十年の哀歓』、芙蓉書房、1970年)
 またもう一つの推測材料としては、上原の陸軍大臣時代にその副官を務めた今村均(1886〜1968年)が、731部隊の建設工事が具体化する1936(昭和11)年から1937(昭和12)年にかけて参謀副長として関東軍に在籍していたことも有力な傍証となる。当時、上原はすでに死亡していたが、副官であった今村が上原の娘の嫁ぎ先である大林家のために尽力し、結果として731部隊工事が大林組の受注につながったとしても何ら不思議ではない。(今村均、『今村均回顧録、正・続』、芙蓉書房出版、新版1993年)

(3)8372部隊地図における「小さな発見」
 第3の点は、関成和の著書『七三一部隊がやってきた村』(前掲書)のなかに掲載されている地図のことである。関はもともと平房生まれで、731部隊の強制占拠によって村を追われた住民であり、ハルビン市図書館長、ハルビン日報副編集長、ハルビン市地方史研究所主任などを歴任するかたわら、一貫して731部隊の追跡に精魂を傾けてきた歴史家である。また『悪魔の飽食』の中国語版の訳者でもある。
 同書には平房特別軍事地域の一角に位置し、731部隊に隣接する8372部隊(航空部隊)の地図が掲載されている。そして8372部隊の地図には基地と平房駅との間に労務者小屋や商店などが混在する地区があり、そのなかに「大林組倉庫」と「藤田組」の建物が小さく記載されているのが確認される。察するにこれら2棟の建物は、平房軍事特別地域の建設に携わった「大林組ほか軍の御用業者」の残存する工事用建物の一部ではないだろうか。ちなみに「藤田組」とは、731部隊の入札に参加した「広島藤田組」のことかもしれない。
 これまで731部隊関係地図といえば、森村・下里が発掘した「保存版・関東軍防疫給水部本部施設全図」が定番とされてきた(ただし、中国側の施設図では、東郷小学校の位置は東郷神社の横に修正されている)。そして平房軍事特別地域のなかに位置しながら、731部隊に隣接する8372航空部隊には目が向けられてこなかった。関は同書のなかで平房軍事特別地域を「十七号軍事基地」「甲地域」[乙地域]に3区分し、「十七号軍事基地」と「甲地域」内に建設された建物は、帰属、用途、性質によって以下の4つの建築群に分けられるとする。
 「◆部隊本部・実験施設建築群、関東軍七三一部隊の総務部・診療部(第一棟)、細菌実験・製造施設(ロ号棟)、被実験者を監禁する牢獄(第七、八棟)、細菌培養室、毒ガス室、動物飼育室、憲兵室、焼却炉、ボイラー、航空指揮棟などの建物があり、建築物の総面積は約八万平方メートルあった。」
 「◆東郷村建築群、七三一部隊の生活区であり、多くが三階建ての建物であった。軍属用宿舎、単身用宿舎、高等官宿舎、神社、小学校、病院、プール及び日本人専用の郵便局、食堂、倶楽部、商店などの建物があり、合わせて二二棟で総面積は七万平方メートルあった。」
 「◆関東軍八三七二部隊建築群、同航空部隊の施設と生活区。総面積約五平方キロ(うち飛行場二平方キロ)に及び、周囲を鉄条網が取り囲んだ。飛行場、兵営、食堂、格納庫、ガソリン庫、鋳物工場、機械修理工場、ボイラー、高射砲隊、試験場、軍属宿舎、高等官宿舎、神社、病院、小学校など三〇棟余りがあり、建物の総面積は八万平方メートルであった。」
 「◆その他の建築群、多くが土製の藁屋根で、煉瓦作りは少数だった。鉄道駅の東西方向に分布し、西側には配給店、食堂、商店、洗濯屋、警察署、憲兵隊、平房分区事務所、郵政所など、東側には二〇棟余りの土壁に板を打ち付けた労務者小屋と、土と藁屋根の小屋があった。建物の総面積は約一万平方メートルであった。」
つまり731部隊関係の建物が部隊本部と東郷村を含めて約15万平方メートルであったのに対して、8372部隊と周辺地域の建物は約8万平方メートルと半分強の規模であり、しかも両基地が隣接して平房軍事地区別地域を構成しているという立地条件にあったのである。このことは建設時期が同じ時期であったかどうかは別にして、両基地の建設工事を請け負った建設業者の間にも何らかの関係があったと考えるのが自然であり、場合によっては同一業者であった可能性も大いにありうるといえる。その意味で「大林組倉庫」と「藤田組」の建物を確認できる8372部隊地図は、731部隊建設工事が「大林組ほか軍の御用業者」によって行われたことをうかがわせる貴重な資料だと言わなければならないだろう。
 また8372部隊地図で松村組の建物を発見することはできなかったが、松村組も藤田組と同じく大林組のもとで下請業者として731部隊工事に参加した「軍の御用業者」の一員であったかもしれない。731部隊工事のような複雑で大規模かつ短期間で完成させなければならない工事の場合は、元請け業者のもとに多数の業者が下請けとして参加するのが普通だからである。

(4)藤田組その他
 付記として、最後に藤田組(現・フジタ)についても若干触れておきたい。藤田組社史、『フジタ80年のあゆみ―建設業の革新を目指して―』(1994年)は、戦時体制下での事業についての記述のなかで、「軍関係の工事は、たとえば「トセ工事」とか「サ工事」といった記号で表記されるものが次第に多くなり、実際にどのような工事であったかは担当者以外にはほとんどわからない」とこぼしながらも、工事年表には驚くほど詳細な軍関係の海外工事名が請負金額と共に記載されている。これは他社の社史には見られない特徴であり、731部隊との関係を類推するうえで今後の一助になるとも考えられるので、以下に関係部分を抜き出しておく。
 ①1932(昭和7)年、関東軍哈爾濱馬家溝兵隊兵舎模様替えその他工事、36万円(6月着工、12月完成)
 ②1933(昭和8)年、関東軍哈爾濱文廟歩兵隊兵舎新築工事、88万9千円(5月着工、11月完成)
 ③1934(昭和9)年、関東軍哈爾濱鉄道隊本部新築工事、83万4千円(3月着工、10月完成)
 ④1934(昭和9)年、関東軍哈爾濱兵器庫新築工事、37万1千円(7月着工、翌年3月完成)
 ⑤1935(昭和10)年、関東軍哈爾濱鉄道本隊組立工場新築工事、49万3千円(4月着工、10月完成)
 ⑥1935(昭和10)年、関東軍哈爾濱兵器支廰機材庫新築、糧秣庫新築工事、28万5千円(4月着工、10月完成)
 ⑦1936(昭和11)年、関東軍牡丹江棲稜歩兵隊新築工事、240万円(4月着工、10月完成)
 ⑧1936(昭和11)年、関東軍哈爾濱「テ」工事、11万円
 ⑨1937(昭和12)年、関東軍孫呉キ、タ、コ、ム、隔離工事、74万円9千円(4月着工、10月完成)
 ⑩1937(昭和12)年、関東軍宝清キイ、キ、セ、キキ、キタ、ケン、シウ、カ、ヤ、工事、169万円9千円(9月着工)
 ⑪1938(昭和13)年、関東軍○八○ト八ノチ外十二廉工事、267万円6千円(4月着工)

 この工事記録からわかることは、藤田組はハルビン関東軍関係の建設工事を連続して受注しており、また請負金額も相当高額な工事が多いということである。これは一括工事としての請負金額が大きいのか、それとも分散して受注した工事の合計額がこの金額になるのかわからないが、いずれにしても1938(昭和13)年の関東軍関係工事は268万円近い大工事であり、これが731部隊工事といかなる関