なぜ、雄勝地区の復興まちづくりは進まないのか(一)、被災者を引き裂く“高台移転・職住分離・多重防御3点セット復興計画”、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(10)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その44)

もうひとつの特集記事「震災と過疎 石巻雄勝町の今(下)」(河北新報、2012年03月18日)は、見出しが「進まぬ計画」「合併影響、人手が不足」「高台移転、溝埋まらず」とあるように、高台移転を前提とする市当局の復興計画が被災者の激しい分裂を招き、思うように進まない状況を伝えている。少し引用が長くなるが、震災後1年間の復興まちづくりをめぐる市当局と被災住民の対立状況が時系列に整理されているので、関係部分を抜粋してみよう。

「「こんな計画、賛成できるか」「真面目に議論する気ねえだろ」。昨年11月下旬、石巻市雄勝総合支所の集会室は怒号に包まれた。市が復興計画策定に向けて開いた住民懇談会。津波で流された旧雄勝町中心部の住宅地を町北部の原地区に移す市の素案に対し、出席した一部住民が強く反発した。旧町中心部は震災前、全体の半数以上の800世帯が暮らしていた。地域唯一の商店街もあった。地元を離れることに抵抗感が強かった。」

「住民は言う。「中心部がなくなれば、雄勝が消滅するのと同じ。住民の声が反映されていない計画なんて賛同できない」。懇談会は反対派の理解を得られないまま散会した。それ以降、旧町中心部の復興計画作りはほとんど進展していない。」

「市雄勝総合支所は昨年5月、地区会長らに呼び掛け、公募を含む36人で「復興まちづくり協議会」を発足。建築家ら専門家を招き、高台移転の方針で復興計画のたたき台を作ってきた。震災で大きな被害を受けた合併前の牡鹿、雄勝、北上の旧3町で最も速い動きだった。7月には亀山紘市長に高台移転促進を求める要望書を提出。市担当課内では「雄勝は復興のトップランナー」との評価さえあった。順風に見えた計画が一転、11月の懇談会で暗礁に乗り上げた。」

「2005年の市町村合併の影響が背景にあるとの指摘がある。総合支所職員は合併以降、削減が進み、合併前の約3分の1の36人。土地利用はわずか2人が担当する。「言い訳はしたくないが、意見集約に力を割けるほどのマンパワーはなかった」。相沢清也支所長(58)は打ち明ける。婚約者が町出身というつながりから協議会の公募委員になった正田雄祐さん(33)=横浜市=は「協議会メンバーは選挙で選ばれた人ではない。住民を束ねられる町長がいれば結果は違ったかもしれない」とリーダーの不在を指摘する。」

「高台移転反対の動きは年が明けても続く。地区中心部の一部住民は1月、「雄勝地区を考える会」を結成。土地のかさ上げと防潮堤整備で震災前に近い地域での再建を提案、市に計画変更を訴える。かさ上げして区画整理を行った場合、高台移転と比べ費用が大きく膨らむ上、事業完了までに10年程度を要する。時間がかかれば住民は散ってしまう恐れが大きく、市に計画を変更する考えはない。」

「住民の会が想定する新たな町中心部は、津波で20メートル以上浸水した場所だ。同支所は「膨大な時間と費用を掛けて、命の危険がある場所に町を再生することはあり得ない」と説明する。一部住民と行政の議論がかみ合わないまま、宙に浮く雄勝町の復興計画。震災前の4300人から1300人にまで減った人口がさらに減る恐れが現実味を帯びる。」

 この特集記事を私なりに背景説明すると、概ね以下のような経緯で市当局の復興計画が進められ、そして頓挫したことがわかる。まず第1ステージは、市当局・雄勝支所が地区会長らに呼び掛けて「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」を発足させ、亀山市長に「高台移転促進を求める要望書」を提出させた2011年5月から7月までの2ヶ月間だ。

4回前の日記でも書いたように、宮城県特命チームが震災後わずか1週間余りで沿岸部被災7市7町の「高台移転・職住分離・多重防御3点セット復興計画」をつくり、その方針にしたがって石巻市が「石巻市震災復興基本方針」、「石巻の都市基盤整備に向けて」を発表したのが4月末だった。そして5月からは、「3点セット復興計画」があたかも被災者の願望に沿うものであるかのようなデータづくりのために、「まちづくり(都市基盤整備)アンケート」も始まった。

同時に、市当局にとっては「3点セット復興計画」を受け入れてくれる“モデル地区”をつくることも必要だった。市全体を「世界の復興モデル都市」に変身させるためには、率先してその先頭に立つトップランナーが求められたのだ。そしてモデル地区で華々しい「デモストレーション・プロジェクト」を立ち上げ、そこでの「サクセス・ストーリー」(成功物語)を梃子に「3点セット復興計画」を全市に一気に広げようとする作戦だったのだろう。

雄勝地区が復興まちづくりの“モデル地区”に選ばれたのは、「壊滅的」ともいうべき被害状況の空前の深刻さのゆえだったと思われる。震災前の2011年2月現在、約1660世帯・人口約4300人の雄勝地区は、20集落のうち15集落が壊滅的な被害を受け、全壊1231世帯、大規模半壊・半壊115世帯、死亡・行方不明236人、8割以上の世帯が被災するという壊滅状態に陥った。残った住民も市内外の親戚宅などに身を寄せるなどして、いま現在、地区に住み続けているのは震災前の3割、約1300人しかいないという。

それにもうひとつ、私が単なる“願望アンケート調査”にすぎないと指摘した「まちづくり(都市基盤整備)アンケート」において、雄勝地区の回収数はわずか273人(世帯数の16%、人口の6%)であったが、自宅を失った回答者216人のうち138人・64%が「市内の他の地域、市外へ移転したい」(『石巻の都市基盤復興に対する市民アンケート結果』)と回答していることもひとつの判断材料として利用されたのではないか。

こうして、壊滅した被災市街地にあまねく「建築制限または禁止区域」を指定して「3点セット復興計画」を策定し、可及的速やかに雄勝地区を復興するという方針が庁内でまとまり、それを実行すべく「雄勝地区復興まちづくり協議会」が組織された。だが問題は、それが「県→市→地区」と上から下りてきた上意下達の一方的な方針であり、「3点セット復興計画」以外の選択肢は事実上認められない“官製”の復興まちづくり計画であったために、計画内容が明らかになるにつれて住民の不安や不満が一気に爆発した。

高台移転・職住分離・多重防御の「3点セット復興計画」は、被災者を引き裂き、復興まちづくりへの世論を分裂させることによって、かえって復興を遅らせ、被災地を荒廃化させる最大の元凶と化したのである。次回は、「第2ステージ」の展開を分析したい。(つづく)