“産業廃棄物対策室”が雄勝地区の復興まちづくりを担う違和感と矛盾、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(番外編3)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その54)

震災前、雄勝地区(合併前の旧雄勝町)には1637世帯・4300人が住んでいた。うち7割の1150世帯・3千人が被災したが、旧町内に建設された仮設住宅は僅か500人分だけで、残り2500人は町外の仮設住宅、市内外の民間賃貸住宅や親戚の家などに広く離散せざるを得なかった。そしてこのことが、雄勝地区の復興まちづくりを進めていくうえで最大のネックとなったのである。

阪神・淡路大震災の教訓のひとつは、被災者が仮設住宅や復興住宅に入居する場合、従前のコミュニティを出来るだけ維持しながら生活再建を進めるのが好ましいということだった。公正という理由だけで機械的抽選によって仮設住宅に入居させられた被災者とりわけ高齢者は、見知らぬ人々の間に投げ込まれて良好な隣人関係をつくれず、孤立(死)するケースが続出したからだ。

だが雄勝地区の場合、それにも増して深刻だったのは、被災者の離散状況が相互のコミュニケーションの断絶を招き、雄勝地区に復帰するためのモチベーションが著しく損なわれたことだった。被災者のなかでも仕事が水産業関係でなく、務め先が雄勝地区外にある若い世代の場合は、日常生活に便利な石巻市中心市街地や隣町平坦地の仮設住宅に入居すると、そのまま親元を離れて別居生活を選択することになりやすい。

そうであればなおさら、雄勝支所は何にも増して被災者間のコミュニケーションの維持に努力すべきであった。支所からの行政上の連絡はもとより、被災者間の交流を助ける情報手段の提供や交流広場の設置、交流イベントの開催など出来ることはいくらでもあった。だが被災者が離散して部落会(地区会)ですら一度も開かれない状況の下で、支所は個人情報の保護を楯にとって被災者の移転先住所ひとつさえ提供しなかった。「ふるさと情報」から隔離された被災者が復興まちづくりへの情熱を失っていくのは当然といえば当然のことだったのである。

通常の自治体であれば、災害を契機とするこのような若者世代の域外流出は復興まちづくりにとっての危険信号であり、被災地のさらなる少子高齢化の進行が地域衰退・滅亡への道であることはよく知っている。だから、行政はたえず離散した被災者と連絡を取り、被災地の現状や復興に関する情報を提供して被災者がふるさとへ復帰するための努力を続けている。フクシマの原発周辺地域の市町村は役場さえ域外に追われながらも、被災者と役場、被災者と被災者のコミュニケーションを維持するために血のにじむような努力を続けていることはよく知られていることだ。

だが、石巻市は「通常の自治体」ではなかった(ない)。私がこのブログシリーズに「平成大合併がもたらした石巻市の悲劇」というタイトルをつけたのは、2005年の1市6町の広域合併によって石巻市はその後発展の道をたどるどころか、人口指標ひとつを取って見ても周辺地域(旧6町)はもとより中心地域(旧石巻市)までが着実に衰退の道を歩んでいるからだ。周辺6町を実質的に吸収合併した石巻市政には、石巻市中心市街地をいかに復興するかという関心はあっても、周辺地域を個性豊かな郷土に育てるという意識はまったくみられない。いわば村井県政が復興原則として掲げる「単なる復旧よりも抜本的再構築」すなわち新自由主義的な地域再編原理の「選択と集中」を忠実に実行しているだけに過ぎない。

美しい言葉に惑わされて(騙されて)石巻市の“周辺地域”となった旧町は、自治体としての機能を奪われ、役場はすべて市役所本庁の支所となって職員数は激減した。雄勝地区の場合は110名余の職員が約1/3の30数名にまで縮小され、雄勝支所に取り残された職員は「残余事務」をこなすだけの要員になった。彼らの“モラール”(士気、労働意欲)が地に落ちたことはいうまでもないが、自治体職員としての“ふるさとを守り郷土を育てる”という使命感までも失ったのは致命的だった。

言葉尻を捉えるのではないが、私は雄勝地区の復興まちづくりを担当する事務局が「産業廃棄物対策室」に置かれていることに言葉を失った。復興まちづくりの一環に産業廃棄物対策があるのは間違いないが、復興まちづくりの本質は“ふるさとを守り郷土を育てる”ことにあるのであって、それが産業廃棄物対策と同一視されることなど住民感情として到底許し難い。美しい言葉が好きな建築家やデザイナーがそんなことに気付かないわけがないと思うが、彼らはそんな「産業廃棄物対策室」のもとでいまでも黙って働いているのだろうか。

とはいえ、震災後わずか2カ月余りで立ち上げられた「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」の業務を担ったのも産業廃棄物対策室だった。以降、室長をはじめ対策室職員は、高台移転計画の具体化に向けて“猛威”を発揮することになる。だが美しい言葉で彩られた設立趣旨とまちづくり協議会の現実のギャップは凄まじいまでに大きく、それが“復興ファッシズム”ともいうべき流れにつながっていくのである。(つづく)