雄勝地区(中心部)高台移転計画は被災者の激しい批判を浴びた、だが計画は平然と進められている、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(番外編10)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その61)

2011年11月に入ると、『石巻市震災復興計画(素案)』が公表され、市民との意見交換会が各地区で始まった。だが、雄勝地区の心臓部ともいうべき中心部では様子が違った。行政側の高台移転計画がはじめて地元で説明されたとき、被災者から猛烈な反発の声が上がった。地元紙はこの時の様子を次のように伝えている。(河北新報、2012年3月18日)

「市雄勝総合支所は昨年5月、地区会長らに呼び掛け、公募を含む36人で「復興まちづくり協議会」を発足。建築家ら専門家を招き、高台移転の方針で復興計画のたたき台を作ってきた。震災で大きな被害を受けた合併前の牡鹿、雄勝、北上の旧3町で最も速い動きだった。7月には亀山紘市長に高台移転促進を求める要望書を提出。市担当課内では「雄勝は復興のトップランナー」との評価さえあった。順風に見えた計画が一転、11月の懇談会で暗礁に乗り上げた。」

「昨年11月下旬、石巻市雄勝総合支所の集会室は怒号に包まれた。市が復興計画策定に向けて開いた住民懇談会。津波で流された旧雄勝町中心部の住宅地を町北部の原地区に移す市の素案に対し、出席した一部住民が強く反発した。旧町中心部は震災前、全体の半数以上の800世帯が暮らしていた。地域唯一の商店街もあった。地元を離れることに抵抗感が強かった。住民は言う。「中心部がなくなれば、雄勝が消滅するのと同じ。住民の声が反映されていない計画なんて賛同できない」。懇談会は反対派の理解を得られないまま散会した。それ以降、旧町中心部の復興計画作りはほとんど進展していない。」

集会参加者のブログ・『石巻市雄勝町の復旧復興を考える』(まごのて救援隊)によれば、当日紛糾する会場において、亀山市長は「雄勝エリアの素案は雄勝総合支所からあがってきているもの。本庁は住民との話し合いのもとに方針が出されたと理解していた。今回、いろんな意見が出たので改めて総合支所と検討していきたい」と計画案の再検討を約束せざるを得なかった。また支所長も「支所の計画の練り方はまちづくり協議会との積み重ねで出したものだが、今日はこういう(建築規制反対、かさ上げで住みたい)話が圧倒的に多かったということで、もう一回調整しながらとりまとめという方向で進めていきたい」と同調した。

このような市長及び支所長の公の場での発言からすれば、雄勝地区中心部の高台移転計画は再検討されて当然であり、だからこそ地元紙も「住民懇談会以降、高台移転計画が暗礁に乗り上げた」と書いたのであろう。だが市長や支所長が実質的に市政を掌握できていない庁内状況を反映してか(市長・支所長のガバナンス能力が著しく低く、いまや彼らは官僚機構の「お飾り」的存在に過ぎないと見なされている)、計画説明会での被災者の反対や異論などはお構いなく、高台移転計画は県土木部と市基盤整備課との協議によって(市長の頭越しに)平然と進められて行くのである。

説明会から1カ月余り、市長や支所長の「計画再検討」の言明にもかかわらず、雄勝地区中心部では地元住民や被災者との再検討の場が設けられることもなければ、再検討のための調査が行われることもなかった。そして2012年1月、市当局から予定通り「第1回復興交付金事業計画」が復興庁に提出され、国交省平成23年度事業のなかに本庁地区(石巻)、牡鹿地区、雄勝地区、北上地区の4地区(旧市町)防集事業計画策定費の申請が盛り込まれた。

続いて2012年4月に提出された「第2回復興交付金事業計画」(国交省平成24年度事業)においては、本庁地区(市街地)、河北地区の2地区防集事業計画策定費が追加され、同時に石巻地区4、牡鹿地区9、雄勝地区10、北上地区7の計30部落(浜)の集団移転事業費が申請された。また2012年6月の「第3回復興交付金事業計画」(国交省平成25年度事業)においては、石巻地区2、牡鹿地区7、雄勝地区7、北上地区6の計22部落(浜)の集団移転事業費(継続分を含めて)が申請された。

ここで注目すべきは、雄勝地区中心部の取り扱いだろう。復興交付金事業計画の提出寸前に被災者からの激しい反対意見が出たこともあって、雄勝地区全体の高台移転計画策定費は申請しているにもかかわらず、中心部を構成する部落(浜)の移転事業費については申請が一応留保された。しかし、第1回申請書の添付図面には中心部の移転候補地は削除されたものの、2カ月後の第2回申請書の添付図面ではなんとそれが復活しているのである。

当然のことながら、移転地区の事業費は移転候補地が確定しなければ申請できない。事業計画が確定していない移転候補地の図面添付など通常の書類作成上ではあり得ないからだ。もしこのようなやり方が罷り通るとすれば、県や国の役人の目は“節穴だらけ”か、それとも被災者や住民の反対にもかかわらず、当該地区を必ず移転候補地にするとの“密約”が関係当局の間であったかのどちらかだろう。果たせるかな、直近の2012年8月に開催された「雄勝地区中心部等復興計画(案)」に関する説明会においては、再び山中の移転候補地が復活していた。(つづく)