アーキエイドの雄勝中心部復興計画は“空想計画”の域を出ない、復興まちづくりにとっての建築デザイン的発想は「百害あって一利なし」だ、平成大合併がもたらした石巻市の悲劇(番外編15)、(震災1周年の東北地方を訪ねて、その66)

津波浸水地域として「災害危険区域」に指定され、住宅再建が禁止される予定の雄勝地区中心部は、震災以前は618世帯1668人の住民が暮らしていた。石巻市に合併されるまでは旧雄勝町の中心地区であり、役場、学校、郵便局、病院、伝統産業会館、商店街などが集まっていた。それが石巻市雄勝支所による高台移転計画の強要によって8割を超す住民・被災者が故郷を去らなければならなくなり、残るは津波災害から免れた一部地区の住民32世帯85人および高台移転に同意した68世帯172人、合わせて100世帯(16.2%)、257人(15.4%)だけになったのである。

ところが、このような“被災者追い出し計画”ともいうべき復興計画をあたかも理想的計画であるかのように描くグループがいる。雄勝未来会議が示した雄勝中心部跡地の土地利用計画・『雄勝中心部ゾーニング図』がそれである。この中心部復興計画は、津波浸水地域のほぼ全域が“スポーツゾーン”、“親水公園”、“海の駅”で占められていて、スポーツ・観光開発計画が「地域再生」の鍵であるかのような印象を受ける。

このゾーニング計画をつくった「アーキエイド」(東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク)のホームページには、雄勝チームによる「雄勝中心部計画」が以下のような自画自賛の言葉で埋め尽くされている。少し長くなるが、「アーキエイド」の基本スタンスと建築系大学研究室や建築デザイナー特有の発想がよくあらわれているので再録しよう。

「多様な雄勝の資源を起点とした再生実現のために。母体は東北大学4年生の設計課題としてスタジオマスターのヨコミゾマコト東京芸大)とそれを支援した東北大の堀口徹、菅原麻衣子らによって展開されたプロジェクト。牡鹿半島支援のプレリサーチとしての位置づけも持ち、フィールドサーベィの方法、野帳のとりまとめかた、学生の浜への入り方などの基本メソッドはすべてここで開発されている。」

「既存の中心街(伊勢畑、上下雄勝)が津波で壊滅し、現地の復興が難しいことから当初は内陸での再生が検討されていたが、雄勝チームの精緻な分析から半島の中ほどで交通の拠点でもある大浜に教育拠点を集約することで、半島としての自立性を高めながら、居住機能は味噌作など牡鹿平野の奥に配置することで、多核展開が可能であることが見えてきたためその方向で住民合意がなされている。」

「現在は、初期のスタディを発展させる形でヨコミゾマコトらに佐藤光彦、山中新太郎らの日大チームが加わり、ひとつひとつの浜の状況の調査と防集の調整などが行われている。森田秀之ら農業6次化の専門家とも連携して雄勝の多様な文化資産を復興に生かしていくための事業計画を同時に展開している。なお、本計画は東北大学設計スタジオ、建築家ヨコミゾマコトとの共同事業である。」

このホームページを読むと、雄勝中心部計画は、(1)アーキエイド雄勝チームの「精緻な分析」によって「住民合意」を得た、(2)牡鹿半島の「自立性」を高めるための「多核展開=多様な雄勝の資源を起点とした再生実現」を目的とする、(3)建築家ヨコミゾマコト東京芸大)をスタジオマスターとする各大学チームの共同プロジェクトであり、(4)かつ東北大学建築学科学生4年生の「設計課題」でもあるというものだ。

ここで自画自賛されている雄勝チームの「精緻な分析」やそれにもとづく「住民合意」がどのような具体的事実を指すかについては、私は知らない。しかし、それが当局主導の(アーキエイドも加担した)「高台移転住民意向調査」や「高台移転住民説明会」のことを指しているとすれば、それは「とんでもない思い違い」か「大いなる誤解」だといわなければならないだろう。そこには、社会調査や地域計画の「イロハ」も知らない建築デザイナーの無知と浅慮が恥ずかしげもなく曝け出されていて、(最近の)建築教育の欠陥を目の当たりに見る思いがする。

建築デザイナーが都市計画や地域計画にかかわるようになったのは、それほど古いことではない。主として戦後、それも高度経済成長時代以降の話だ。丹下健三氏の有名な『東京計画1960』を嚆矢として、スター建築家たちが次から次へと都市計画の分野に進出するようになり、建築ジャーナリズムはもとよりマスメディアの世界でも大きな話題になった。時代は高度成長政策にもとづく国土開発ブーム・都市開発ブームの頃であり、建築家がイメージ・デザインを描けば、ゼネコンやデベロッパーが即座に飛びついて事業化に動く時代だったのである。

だが、いまは時代が違う。人口減少・少子高齢化にともなう“都市衰退・地域衰退”の現象が露わになり、日本全土にわたって深刻かつ急速な過疎化・空洞化が進行している。このような時代においては、建築デザイナーが絵を描けば「建築の力」によって地域再生するような事態は起こり得ない。イメージ・デザインやイメージ・プランイングはまちづくりの「ひとつのツール」に過ぎないのであって、その限界を認識できない建築デザイナーが“昔の夢”を追いかけているだけのことなのだ。

空想的計画はあくまでも「図上の計画」にすぎない。アトリエやスタジオで自由に絵を描いているうちはよいが、それを震災復興計画に実現しようなどという「とんでもない空想」を抱くと、その瞬間から被災した当該地域は「とんでもない結果」に直面することになる。次回は、その典型的事例をヨコミゾマコト建築設計事務所が描いた雄勝地区中心部の「海の駅」プランで検証しよう。(つづく)