再録『ねっとわーく京都』2012年10月号、大川小学校の悲劇はなぜ起こったのか〜東日本大震災1周年の東北3県を訪ねて(その5)、石巻市の場合〜(広原盛明の聞知見考、第21回)

全国死者・行方不明者数の2割が集中
 『石巻市震災復興基本計画』(2011年12月策定)には「最大の被災都市から世界の復興モデル都市石巻を目指して」というサブタイトルがつけられている。「最大の被災都市」というネーミングはウソでも誇張でもない。『石巻市の復興状況について』(石巻市、2012年5月)からも、その戦慄すべき被災状況(そして遅々として進まない復興状況)を確認することができる。
 東日本大震災阪神・淡路大震災をはるかに上回る超広域災害だ。100人以上の死傷者数が出た被災地域は、太平洋沿岸の青森・岩手・宮城・福島・茨城・栃木・千葉・東京の8都県に及び、これらを含めた全国の被害状況は、死者15868人、行方不明2848人、震災関連死1632人(復興庁調べ)、負傷者6109人、建物全半壊(全半焼)393458戸という膨大な数に上る。だが、被害の大半は岩手・宮城・福島の3県に集中しており、死者・行方不明者のほぼ全てと建物全半壊の9割がこの3県で占められている。(警察庁緊急災害警備本部2012年8月8日現在、復興庁2012年5月31日現在)
 なかでも宮城県石巻市の被害状況は突出している。死者3236人、行方不明491人、震災関連死213人、建物全半壊33378戸という途方もない数字は県規模のものであり、石巻市1市だけで(原発災害という側面を除けば)犠牲者数は福島県の1.5倍、建物全半壊戸数は岩手県の1.4倍に達する。実に全国の死者・行方不明者数(関連死を含む)のほぼ2割、建物全半壊戸数の1割弱が、人口わずか16.7万人の石巻市に集中しているのである。(『石巻市の復興状況について』、2012年5月末現在、同ホームページ、2012年7月末現在) 
これを人口1万人当たりの被害発生率で比較すると、震災前の3県人口は571万人(2010年国調)だから、人口1万人当たりの犠牲者数は36人、全半壊戸数は616戸になる。これに対して石巻市の人口1万人当たりの犠牲者数は236人、全半壊戸数は1999戸となり、犠牲者数は3県平均の6.6倍、全半壊戸数は3.2倍という空前の被害発生率になる。

全校児童の7割を失う
石巻市の惨状をなによりも象徴するのが、周辺地域(旧河北町)で起こった“大川小学校の悲劇”だろう。全校児童108人のうち7割に当たる74人が津波にのまれて死亡・行方不明になり、教職員13人のうち10人が死亡・行方不明になった大惨事のことである。被災現場にはいまなお多くの人びとが日々訪れ、校庭に設けられた小さな慰霊塔の前では花束を手向けて冥福を祈る姿が絶えない。だがあたり一帯は沈痛な空気に包まれていて、訪れる人々は譬えようのない悲しみに襲われる。と同時にどうしてこのような大惨事が惹き起こされたのか、激しい憤りを抑えることができなくなる。
 これと比較して岩手県釜石市では、東日本大震災による死者・行方不明者は千人を超えたものの、被災時に学校の手から離れていた5人を除いて小中学生2921人の99.8%が無事だった。学校にいた児童生徒はいうに及ばず、下校中の子どもたちも自分で判断して高台に避難し難を逃れた。子どもたちの命を救ったのは、市当局と市教委・学校がこの数年来熱心に取り組んできた防災教育の賜物だった。99.8%の児童生徒生存率は“釜石の奇跡”と言われるが、釜石市石巻市を分けたのは一体何だったのか。
宮城県教育委員会によれば、県全体で地震津波の犠牲となった児童は186人(2012年2月29日現在)、うち大川小学校1校だけで県全体の4割を占める。しかしなぜこれだけの大惨事が引き起こされたのか、その原因や背景についてはいまだ解明されず、学校側からも市教育員会からも保護者や遺族に対して納得のいく説明がなされていない。今後新しい事実が出てくるかもしれないので不用意な憶測は慎まなければならないが、これまでの報道記事によれば、各紙とも共通して以下のような「ミスの連鎖」が悲劇を招いた原因だと指摘している。
(1)市教委は地震津波の場合は「高台に避難すること」と一般的な通達を出していただけで、学校側は具体的な避難場所・経路の検討もせず、準備もしていなかった。(もちろん避難訓練もしていない)
(2)津波災害に対する危機意識の薄さから避難行動の開始が決定的に遅れ、教諭らは地震発生から避難行動を起こすまで40分間も児童を校庭に待機させて時間を空費した。(校長は年休で不在だった)
(3)教諭らが避難先の議論を重ねているうちに防災無線などを通して避難指示が出され、全員がパニック状態に陥って避難先の判断を誤った。教諭らは校庭から5分程度で登れる学校の裏山に児童が登れないと判断して避難させず、逆に津波が遡上してくる北上川堤防付近の数メートルの高台に向かって歩き始め、約10分後に津波に襲われた。(指示に従わずに裏山に逃げた子どもは助かった) 
起こるべくして起こった人災
各紙は主として悲劇の原因について報じているが、私はむしろ悲劇が生まれた背景に注目したい。1市6町(石巻市河北町雄勝町河南町桃生町・北上町・牡鹿町)の平成大合併によって2005年に誕生した石巻市は、美辞麗句に溢れた「新市まちづくり計画」(2004年)とは裏腹に、合併後は10年間で職員数を1696人から1136人へ1/3削減するという大幅な人員リストラを進めてきた。その結果、720平方キロ(大阪市域の3倍強)にも及ぶ広大な市域を従来の2/3の職員でカバーしなければならず、また合併前の町役場は全て支所化されて職員数が半分以下に減らされるなど、行政サービスの低下と自治能力の劣化は目を覆うものがあった。
教育行政に関して言えば、旧6町では小学校が3〜5校、中学校が1〜2校というのが平均的な姿であり、また町役場と学校の位置関係が一定範囲のなかにあったので日常的な連絡も密だった。しかし、合併後の教育行政は市教育委員会に一括されて全ての指示が市役所本庁から出されるようになり、市教委と学校現場との距離感が著しく遠くなった。また市教委側としても管轄する学校数が一挙に増加し、しかもそれが720平方キロの広範囲に分散しているとあってきめ細かなサポートが困難になった。ちなみに旧石巻市の学校数は小学校19校、中学校11校であったが、合併後は小学校43校、中学校21校に倍増した。
東日本大震災は広域合併で伸びきった行政ネットワークを寸断し、とりわけ周辺地域では壊滅的被害を与えた。周辺6町の行政支所は孤立し、小中学校間の連絡も途絶え、市役所からの指示・連絡もなく、支所や学校は各々独自の判断を迫られた。だが合併によって首長と議会を失った出先機関教育委員会との連絡が取れない学校には、危機対応能力と権限に限界があったというべきであろう。広域合併で市役所本庁と各支所との連携が疎になり、市教委と学校現場との距離が遠くなれば、非常時の災害を避けることはいきおい困難になる。大川小学校の悲劇は偶然が重なったとはいえ、起こるべくして起こった構造的災害すなわち人災なのである。
だがこのような悲劇を招いた原因や背景を究明しようとする姿勢が市長・市当局や市教委に極めて乏しいことも、広域合併のもたらしたもうひとつの深刻な弊害だと言わなければならない。旧石巻市による事実上の吸収合併となった広域合併は、その後中心地域への各種行政機能の集中が加速され、周辺地域からは「こんなはずではなかった」とする強い不満が湧きあがっていた。このような「周辺地域の切り捨て」というべき状況の下で起こった大川小学校の悲劇は、1学校問題に止まらず合併の是非を問う政治問題に発展する可能性があった。市当局や市教委が保護者や遺族の度重なる追及にもかかわらず、言を左右にして問題の究明を避けようとしたのはこのためである。

惨事から1年近く、はじめて謝罪
話を大川小学校に戻そう。市教委が保護者や遺族に対して説明会(非公開)を開いたのは、災害から1カ月近くも経過した4月9日のことだ。それまで校長は遺族に弔問もせず、行方不明の児童の捜索にも当初は加わらなかった(校長は3月17日までなぜか学校に復帰せず、所在も不明だった)。また説明会では重大な結果についての学校側の謝罪はなく、避難の経緯や防災マニュアルの説明がされただけだった。多くの遺族がこの説明に納得せず、さらなる説明を求めて「要望書」を市教委に提出し、6月4日に2回目の説明会(非公開)が開かれることになった。(河北新報2011年11月26日)。
この日の説明会には亀山市長、教育長、校長が出席し、市教委は裏山に逃れて助かった男性教諭や無事だった児童への聞き取り調査の結果を基に地震から津波到達までの経緯を説明した。だが保護者の怒号を浴びながらも、市教委や学校側が責任を認めて謝罪する言葉はついに最後まで聞かれなかった。同席した亀山市長は、「もし自分の子どもが亡くなったら、思いを償っていくという自分自身に問うということしかない。これが自然災害における宿命だと思っております」と他人事のように述べ、遺族から強い批判を浴びた(同上)。つまり亀山市長は「自然災害は宿命であり、学校や行政に責任はない」と言いたかったのであろう。
それから7カ月半、度重なる保護者や遺族の要請によってようやく3回目の説明会が年明けの1月22日に開催されることになった。市教委側は当初「非公開」にこだわったが、遺族が署名簿をつけて報道機関への公開を要求するなかで説明会が初めて報道陣に公開された。市長は出席しなかったものの、教育長が学校の防災体制の確認を怠っていたとして、「犠牲の背景には学校や教育委員会に防災上の不備があり、人災の面も否定できない」と婉曲的表現ながらも、災害から1年近くも経過した時点でようやく公式の場で責任を認めて謝罪した。
説明会は被災当日不在だった校長も同席したが、「3月17日まで学校に復帰しなかったことは職務放棄ではないか」と保護者から激しく詰問され、「職務上の怠慢があったと言われても仕方がない。本当に申し訳ない」と謝罪した。このことに関連して保護者が教育長に対し、「様々な校長の問題点が明らかにされたにもかかわらず、いまなお校長の座にいるのはなぜなのか。なぜ校長として残っているのか。教委として校長を学校のトップにいつまで置いておくのか」と説明を求めたが、教育長は「市教委としては校長の服務監督権はあります。その部分でどのような内容があったのかと確認し、任命権者の宮城県教育委員会が処分等の権限を持っていますので、そちらに判断を委ねることになっておりますが、その当時は、市のほうではそこのところを考えて、県教委にはその部分を行っていないということでございます」と回答し、市教委が被災当時の校長の対応の問題点を1年近くも調査・確認せず、県教委には(公式に)報告すら上げていないことを認めた。(朝日電子版、2012年1月30日)
 その後、亀山市長は3月19日の市議会答弁において、昨年6月に開かれた保護者説明会で多数の児童が犠牲になったことを「自然災害における宿命だと思っている」と発言したことに関して、「自然災害のやむを得ない事情があったとして『宿命』という言葉を使ったが、言葉が足りなかったところがあると思う。それで遺族が傷ついたなら率直におわびしたい」と述べ、「自然災害は宿命」との発言を一部訂正した(読売、3月21日)。また保護者から責任を追及された校長は3月末で「一身上の都合」で退職し、その責任はついに明らかにされないまま幕引された。

原因は果たして究明できるか
一方、保護者が求めてきた「第三者検証機関」の設置がやっと2012年度6月補正予算案に計上され、石巻市議会は6月22日の本会議で設置に当たって付帯決議案を全会一致で可決した。付帯決議は、「(検証をめぐり)遺族は市教委や市へ不信感を募らせており、究明に向けて前進するためには、遺族と教委の話し合いの継続が重要」とするもので、①予算は遺族の合意を得てから執行する、②機関設置後も市と遺族との話し合いを続ける、③不明者の捜索に努める、というものだ。(産経、6月23日)
だが気がかりなのは、市教委が第三者機関の設置目的を「防災教育の指針づくり」とし、各学校が作成する「避難マニュアル」の参考にするとの意向を表明していることだ(河北新報、6月5日)。このような一般的な設置目的であれば、大川小学校は「事例」として取り上げられるだけで、大川小学校の悲劇の原因は究明できないことになる。また市教委が民間コンサルタント会社に第三者機関の設置や運営を外部委託することも見識を疑われる。第三者機関のメンバーもコンサル会社が決めるとなれば、「第三者機関」といえるかどうかも怪しくなる。これだと市当局・市教委の責任が曖昧になり、コンサル会社の意向によって調査・検証結果が左右されないとも限らない。
三者機関による調査・検証を求めてきた遺族の一人は、「調査委には遺族側の代表や遺族が信頼できる人も入れるべきだ。市教委の資料にはずさんな点が多く、遺族側が持っている情報も踏まえてきちんと調べてほしい」と求めている(同上)。だがこれが実現できるかどうかは、大津市の「いじめ問題」に関する第三者検証委員会設置の経緯にもみられるように、遺族側の努力や世論の後押しがあってはじめて可能になることを銘記すべきだろう。これからもその行方を注視していきたい。 

石巻市はなぜ“最大の被災都市”になったのか
それでは石巻市はなぜ“最大の被災都市”になったのか。これについては、マグニチュード9を超える大地震とそれによる大津波が主たる原因であることは論を俟たない。しかし震災は単なる自然現象ではなく「社会現象」である以上、同じ大津波に遭遇しながら(地域条件に相違はあったにしても)、地域によってなぜこれほどまでに被害状況に大きな差が出るのかが究明されなければ、防災対策も復興対策も立てようがない。またそうでなければ、亀山市長が言うように「災害は(甘受すべき)宿命」ということになって、政治責任も行政責任もどこかへ吹っ飛んでしまう。
私が“大川小学校の悲劇”と“釜石の奇跡”を取り上げたのは、この点に関しての両市の差異があまりにも大きく、またそこから引き出すべき教訓があまりにも多いと考えたからだ。結論的に言えば、石巻市が最大の被災都市になったのは、東日本大震災以前の約10年間にわたって展開された平成大合併の深刻な後遺症の影響があまりにも大きく、それが震災への事前事後対応における“機能不全”と言う形であらわれたからではないか。
このことを象徴するのが、石巻市復興計画の「最大の被災都市から世界の復興モデル都市石巻を目指して」というサブタイトルだ。最大の被災都市は否定しようのない現実だが、そこからなぜ「世界の復興モデル都市」を目指すのか、その意図や発想がまったく理解できない。「世界の復興モデル都市」の中身に関して言えば、震災後の最初の公文書である『石巻市震災復興基本方針』(2011年4月27日)を読んだ瞬間、その内容の荒唐無稽さに唖然とした。そこには「本市が目指すのは単に復旧・再生だけではありません。既存の資源を活かしつつ、新ネルギー、環境、観光などを新たな柱とする産業創出や減災のまちづくりの展開など快適で暮らしやすい「新しい石巻市」を創造していきます」と、まるで災害がなかったような能天気な宣言が並んでいたのである。
 加えて、基本方針発表に続いて市建設部から発表された『石巻の都市基盤整備に向けて』(4月29日)にも驚いた。この文書は『新都市構想』という題目でイラスト風の簡単な「復興イメージ図」(ポンチ絵)を付けただけのものにすぎず、思わず「マジかよ!」と言いたくなるほどの代物だ。そして、そのなかの「新しいまちづくりにあたっての挑戦」には、なんと「太陽光・風力・波力発電などの自然エネルギーの活用」、「新交通システム(LRT・高性能路面電車)の導入」が堂々と掲げられていたのである。
 全国最大の犠牲者を出し、被災者が避難所にひしめき合い、行方不明者の捜索が必死で続けられているこの時期に、このような空想と現実の区別もつかず、非常時と平常時の違いもわからないような「復興基本方針」が出てくるのはいったいなぜなのか。私はその背景に、宮城県石巻市が平成大合併を推進するたびに描いてきた“空想的合併計画”(絵空事)の弊害がいまなお震災復興方針においても尾を引いていることを実感する。また村井知事の影響とはいえ、それを上回る“災害便乗的発想”(ショックドクトリン計画)が平気で打ち出されるところに、底知れない市政の歪みと退廃を感じる。

平成大合併が被災地域を滅ぼす
振り返ってみれば、この10年間の石巻市の歴史は宮城県主導の平成大合併に振り回されてきたと言っても過言ではない。もともと宮城県の地域構造は、仙台都市圏への一極集中という点で際立っている。戦後高度成長が始まる前の1955年、仙台都市圏はすでに県人口の39%(67万人)を占めていたが、その後の30年間で倍近い伸びを見せ、1985年には56%(121万人)に達した。2012年現在、さらに64%(149万人)と拡大を続けており、県人口のおよそ2/3が仙台都市圏に集中し、「その他地域」は一貫してシェアを減らしているというわけだ。
 この傾向にさらに輪をかけたのが平成大合併だった。当時、「改革派知事」と持て囃された浅野知事は強力な道州制推進論者であり、県内71市町村(10市59町2村)を10市(1政令市、5特例市、4中心都市)に再編し、仙台市を東北州の州都に昇格させるという「浅野構想」を実現しようとしていた。(『宮城県市町村合併推進構想』、2006年、2008年改訂)
なかでも石巻地域の広域合併は、旧石巻市が「特例市昇格」によって仙台市に次ぐ「県内第2都市」になるという目標(ニンジン)をぶら下げられた広域合併だった。人口20万人を要件とする「特例市」をつくるためには、それに足るだけの人口を持った市町村を合併させなければならない。県石巻事務所は管轄下の1市9町(23.1万人)を広域合併させる計画をつくり、関係市町村に強力に働きかけた。だが単なる人口の数合わせであり、旧石巻市への事実上の吸収合併である広域合併は難航に難航を重ねた。結局、合併特例法期限の2005年4月に合併にこぎつけたのは1市6町(17.5万人)となり、20万人要件を大きく下回って特例市は実現しなかった。
合併から5年後、石巻市人口は17.5万人からさらに16.1万人へと1割近く減少し、周辺6町はもとより中心市においても人口減少を食い止めることができなかった。中心地域に周辺地域から人口を集めて「県内第2の都市」を活性化させるという石巻市広域合併構想は完全に破綻したのである。にもかかわらず、災害後も石巻市は荒唐無稽な「世界の復興モデル都市」を掲げて空理空論の世界に走る一方、復興対策に関しては「高台移転・職住分離・多重防御」の3点セット事業を県土木部の指示に従って機械的に適用することに終始している。だが「災害危険区域=建築制限区域」をかけたままの区画整理事業や高台移転事業が長引けば長引くほど、被災地の住宅再建は進まず人口流出は加速する。また流出先の生活が定着すればするほど「ふるさとに戻りたい」という人々の願いも日々薄れていく。被災地に住み続けながら復興する方策なくして石巻市の真の復興は難しいし、平成大合併の幻想から抜け出さない限り被災市町村の未来はない。
 大川小学校は4月9日、間借り先の飯野川第一小学校で新入生の女子児童4人を迎える入学式を開いた。式典では在校生18人が「みんなで力を合わせて、明るく元気な大川小学校をつくっていきましょう」と呼びかけたという。石巻市は大川小学校の校舎を安全な所に移転して新設する方針と聞くが、大川小学校の存続を心から願って結びとしたい。

●補注:石巻市および教育委員会は遺族の信頼を完全に失い、第三者検証委員会は文部科学省の手で行われることになった。自治体としての使命を投げ捨てた石巻市は、住民によって不信任された。