住民とともに作り上げた『丸山レポート』(京都大学西山研究室編、1970年12月)が「まちづくり運動」の必然性を社会に認知させる契機になった、「まちづくり運動」は学会でも行政でも市民権を獲得した、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その5)

 1967年夏に神戸市役所を訪れてから暫くして、私たちはいよいよ本格的に丸山地区のまちづくりに取り組むことになった。69年1月には予備作業として地区全体の骨格を考える「パイロットプラン」を作って住民の討議に付し、69年7月からは神戸市の委託を受けてアンケート調査を行い、地区住民のまちづくり意向や参加意識を確かめた。その結果が70年12月にまとめて公表した『丸山レポート―神戸丸山地区におけるまちづくり運動の調査研究』である。同レポートは『神戸市政調査、NО16』(神戸市企画局)に掲載され、骨子は建築学会学術講演会でも発表された。「まちづくり運動」は漸くにして社会に認知され、学会や行政においても市民権を得たのである。

 折りしも、国の方では国民生活審議会でコミュニティ問題小委員会の討議が進んでいた。69年11月には『コミュニティ―生活の場における人間性の回復』の答申が公表され、「生活の場において、市民としての自主性と責任を自覚した個人及び家庭を構成主体として、地域性と各種の共通目標を持った、開放的でしかも構成員相互に信頼性のある集団」が新しいコミュニティ組織だと規定された。そこでは「コミュニティは住民間の問題や要求を統合するための一つの場としての機能を持つ。コミュニティは住民から生ずる各種の不満と要求の間の利害を構成員の合意に基づき合理的に調整する。このような対話による民主的な方法が、コミュニティの構成員に安心感と信頼感を与えることになり、住民自身も市民社会の一員としての自覚を高めることになる」との趣旨が強調されていた。

この答申は翌年、自治省の「モデル・コミュニティ事業」として即刻政策化され、丸山地区は神戸市の推薦にもとづき70年8月、全国40地区のトップを切って「モデル・コミュニティ地区」に指定された。神戸市では「モデル・コミュニティ研究会」(私もその一員)が組織され、コミュニティセンターの建設、コミュニティ公債の発行をはじめとして事業計画の検討が始まった。国のコミュニティ問題小委員会のメンバーも丸山地区には一度ならず訪れ、地区のリーダーや私たちと意見を交わした。1970年は神戸市にとっても丸山地区にとっても文字通り「コミュニティ元年」となり、丸山地区のまちづくり運動は、コミュニティ形成に資する住民の自主的な活動として広く社会に認知されることになったのである。

思えば、1966年2月の『住みよい神戸を考える会』の発足以来、丸山地区を舞台にして展開されてきた「まちづくりとコミュニティ」のドラマは劇的な効果を挙げたといえる。そこでの活動模様は、『会』の一員である神戸新聞の紙面を通して神戸市内はもとより兵庫県下にあまねく伝えられ、開発一辺倒の高度成長政策が招いた「負の側面」が浮き彫りになった。『会』の事務局を担当した神戸新聞社会部の記者たちもエネルギッシュな取材を重ね、影響力のある記事を書いた(当時の記者とはいまも親交がある)。こうして乱開発されたスプロール地域での住民生活の困難さと日々の苦闘が連日伝えられ、多くの市民の間に共感が広がっていった。原口市長時代が終わり、新しい時代の到来を求める空気が日に日に強まっていったのである。

時代は全国的にも大きく変わりつつあった。1970年は公害国会と公害メーデーの年であった。国会では67年に制定された公害対策基本法の改正が行われ、いわゆる経済調和条項が削除されて公害問題に取り組む国の基本姿勢が明確にされた。労働組合や市民団体などが「青空と緑を取り返し、国民の命とくらしを守ろう」とのスローガンのもとに全国初の公害メーデーを組織し、100万人近い人びとが参加した。また翌71年からは4大公害裁判(新潟水俣病、富山イタイイタイ病四日市喘息、熊本水俣病)の判決が次々と出され、企業の公害責任(公害犯罪)が厳しく断罪された。

政治情勢も激変しつつあった。71年統一地方選挙とりわけ大都市部では深刻化する公害・交通・住宅・福祉などの都市問題が中心的争点になり、中央直結か地方重視かが鋭く問われた。前者の立場の保守勢力と後者の立場の革新勢力が真正面から激突し、東京では社共統一候補の美濃部知事が大差で再選され、大阪では黒田知事が初当選して全国的に「革新自治体ブーム」が起こった。東海道ベルト地帯を中心とする大都市自治体は、軒並み革新ブームの嵐に見舞われることになったのである。

1969年11月に初当選した宮崎市長にとって、このような情勢変化が無関係であるはずがない。「まちづくりとコミュニティ」を重点課題に掲げた宮崎市長は、原口市長時代の土木行政・開発行政の色彩を払拭すべく精力的に行動し、そして見事にイメージ・チェンジに成功した。助役時代、自分自身も共同代表の1人だった『住みよい神戸を考える会』の活動が効果的に作用し、革新的でソフトな「宮崎カラー」を広めることに役立ったからである。

私は「まちづくりとコミュニティ」を掲げてスタートした宮崎市政が、後に自民党から共産党に至るまでの「オール与党体制」の原点になったのではないかと考えている。この「オール与党体制」はその後さらに全国にも類のない「市役所共同体」(市役所一家体制)に発展していくのであるが、それほど「まちづくりとコミュニティ」は政策転換を印象付ける大きなテーマだった。だが、原口市政の後継政権である宮崎市政の本質が変わったわけではない。「まちづくりとコミュニティ」という衣を被った「ソフトな開発行政」が次の神戸市政の新たな特色として打ち出されるようになるのである。(つづく)