ソフトでスマートな開発行政が宮崎市政で全開することになった、「輝ける神戸」が全盛時代を迎えて神戸は飛躍的に成長し、人口は順調に増え続けた、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その6)

1960年代後半は原口市政の末期に顕在化した公害など一連の都市問題にどう対処するかが神戸の最大の課題であったが、宮崎市政はこの難局を巧みに乗り切った。そして「輝ける神戸」は、70年代から80年代前半にかけて全盛期を迎えたのである。その変化を一言で言い表すとすれば、開発行政の「ハードからソフトへ」、「ストレートからスマートへ」の転換とでも言えようか。原口市長時代の剥き出しの土木開発行政は、宮崎市長時代になると洗練されたイベント付開発行政に姿を変え、神戸は日本の近代的大都市のトップランナーとして走り続けることになるのである。

宮崎市政は環境行政の充実からスタートした。まず企業との公害防止協定の締結が始まり、次いでグリーン(緑化)作戦による都市公園の整備、生活環境基準(シビルミニマム)の制定と生活環境の改善、下水道の普及、景観保護条例や風致地区条例の制定による景観行政の展開など、一連の環境行政が矢継ぎ早に打ち出された。その結果、神戸の空や海は目に見えてきれいになり、学校の校庭で児童生徒が光化学スモッグで倒れるようなこともなくなった。また、小学校の教室や校庭がコミュニティの核として地域に開放される(学校公園)など、公共施設の市民施設化もスタートした。宮崎市政は1期目から市民ニーズに応え、あるいは市民ニーズを先取りする形で猛ダッシュを始めたのである。

しかし「公共デベロッパー」を自認する宮崎市政は、その一方で任期中の5期20年間に大型開発プロジェクトを次々と計画してスタートさせ、またそれに合わせて数々の巨大イベントを開催することにも辣腕を振るった。ビッグプロジェクトの代表的なものは、ポートアイランド開発(1966〜1980年)、六甲アイランド開発(1972〜1990年)、西神ニュータウン開発(1972〜1993年)、ハーバーランド開発(1985〜1992年)などがあり、ビッグ・イベントとしてはポートピア博覧会(1981年)、ユニバーシアード神戸大会(1985年)、アーバンリゾートフェア神戸(1993年)などがある。

神戸市の開発事業の特徴は、これまで神戸の地理的条件からくる開発工事の形態がもっぱら注目され、「山、海へ行く」(山を削って海を埋める)というキャッチフレーズがつとに有名だった。しかし原口時代は港湾整備や工業地帯造成など「重化学工業」のインフラ整備に開発目的の重点が置かれたのに対して、宮崎時代のそれが「生活文化産業」の振興に目標が切り替わっていたことには案外気付かれていない。極端なことをいえば、重化学工業のインフラ整備の場合は工場用地と港湾およびそれに接続する道路、鉄道を整備すればよいが(工事自体は大規模であるが)、生活文化産業となると単にハコモノをつくれば「それで終わり」ということにはならない。つまり開発の「形」は同じでも「中身」は全く異なるのであり、したがって原口市政と宮崎市政は開発のコンセプトも手法も大きく異なるのである。

たとえば、ポートアイランドは単に港湾機能を持つだけの人工島ではなく、神戸市が言うところの「海の文化都市」「海上文化都市」をつくろうとすれば、ファッション産業やコンベンション産業など新しい都市型産業の基盤整備や住宅・ホテル・病院・学校など総合的な郁市機能が必要になってくる。そこに人が住み、働き、憩えるための条件が整備されなければならないのであって、ただハコモノだけをつくればよいというものではない。そこで企画されたのが「空前の大成功」といわれた神戸ポートアイランド博覧会の開催である。

1981年3月から半年間にわたって開かれた神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア`81)は地方自治体が開催する博覧会としては最大規模のものとなり、展示館や出展には外国からも数多くの参加があるなど、国際港湾都市神戸の特長が遺憾なく発揮される大イベントとなった。入場者数も1610万人と小さな万博並みの規模に達し、経済波及効果は2兆円に上った。それだけではなく博覧会の大成功によって神戸のイメージアップが図られ、神戸が重化学工業都市から産業構造転換を図り、生活文化産業を機軸とするファッション都市、コンベンション都市へ発展成長を遂げていくうえで重大なステップになると評価され、かつ期待されていた。

 1965年神戸市マスタープランで想定された30年後の計画人口は180〜200万人、スタート時の65年人口は122万人、90年人口は147万人で少し伸びは遅いが、それでもお隣の大阪市人口が65年の316万人から90年の261万人にまで17%も減少していることを思えば、神戸市の発展は前途洋洋たるものがあると確信されていた。この調子でいけば、21世紀の遠くない将来には大阪に変わって西日本の覇者になることも夢ではないと思われていた時代だった。(つづく)