阪神・淡路大震災において真野地区はまちづくりの本領を発揮した、それは災害に果敢に立ち向かったこと、そして神戸市の「復興都市計画」(土地区画整理事業)を拒否したことだ、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その16)

阪神・淡路大震災における真野地区の奮闘は、広くマスメディアを通して伝えられている。多くの被災市街地では火災を前に住民が呆然と立ちすくんでいたのに対して、真野地区では勇敢にも住民が近隣工場の消防隊と協力して消火・救出活動にあたり、類焼を(奇跡的に)食い止めた。また震災後の救援活動は、ほとんどの被災地では自治会リーダーが逸早く避難して(高齢などの理由で)避難所の運営が行政や学校、ボランティアに委ねられたのに対して、真野地区ではリーダーたちが結束して地区対策本部を立ち上げ、避難所管理と救援活動を地区対策本部が一元的に行うことを長田区役所に承認させ、市職員とともに不眠不休で働いた(たとえば1日2食、計1万食の弁当が対策本部の手を通してすべての被災者に整然と配布された)。

しかし、震災後1年の時点で私にはまだ気付いていなかったことがある。それは、震災後2ヶ月で強行決定された神戸市の復興都市計画に対して真野地区が明確に拒否したと言う事実だ(リーダーが詳しい話をしてくれなかった)。このことを知って改めて書いたのが、『現代のまちづくりと地域社会の変革』(共著、学芸出版社2002年)である。本書の巻頭論文「まちづくりの歴史とパラダイム転換」において、私は「日本最初のまちづくり」として名古屋市栄東地区、「日本最初の住民主体のまちづくり」として神戸市丸山地区、そして「日本最長のまちづくり」として神戸市真野地区を取り上げ、それらが日本近代都市計画史上いかなる意味を持つかについて理論付けを試みた。

このなかで私は、まちづくりは日本近代都市計画の対抗概念として生まれ、近代都市計画のパラダイム転換をもたらすまでに発展してきたと述べた。すなわち「日本近代都市計画=官僚の、官僚による、官僚のための都市計画」への対抗概念として「まちづくり=住民の、住民による、住民のためのまちづくり」が生まれ、それが数々の優れたまちづくり活動の実践を通して近代都市計画のパラダイム転換(支配的な考え方・通念や発想の転換)を引き起こすまでに影響力を発揮していると論じたのである。その代表的事例として取り上げたのが真野地区のまちづくりであり、そのなかでの象徴的な出来事が、阪神・淡路大震災時の神戸市復興計画に対する真野地区の態度だったのである。

一般的に言って神戸市民は、大阪市民や京都市民に比べて市役所・区役所に対しては極めて協力的だ(むしろ従順だと言っていい)。だから震災2ヵ月後に強行決定された復興都市計画に対して、被災者たちが激しい反対の声を上げたのは異例中の異例と言えた。それほど震災直後の都市計画決定は不当であり、理不尽なものと市民の目には映ったのであろう。しかし、反対の声を上げたのは発言力のあるミドルクラスの居住地の場合が多く、最も被害の大きかった長田区などの下町ではほとんど声が上がらなかった。町工場や商店が焼失して仕事場を失った零細企業の人たちには、都市計画といった遠い将来のことよりもその日を暮らすことが大問題であり、「それどころではなかった」のである。

今回の震災20年記念事業で復興事業の「逆シンボル」となった新長田駅南再開発計画の場合は、神戸市は「悪いようにしません」「任せてください」と切り出し、被災者のほうは「よろしくお願いします」と応じて、さしたる反対もないままにあの「巨艦計画」が驚くべきスピードで進んでいった。下町の人たちは、「市役所が悪いことをする」「市民を騙す」などとは露ほども思わず、信じ切って市の言うままに従ったのである。

しかし、同じ下町でありながら真野地区の場合は違った。20年を超えるまちづくり活動の経験と知恵が働き、復興都市計画のいかさまと胡散臭さを瞬間嗅ぎ取ったのであろう。震災3日後に訪れた都市計画局の民間再開発課(前)係長に対して、真野地区は以下のような理由を挙げて、地区全体の大規模な震災復興土地区画整理事業計画をはっきりと拒否した。

「地区の面的整備については震災前から話はありました。震災後も行政の方が来られました。しかし、真野の住人としては少し前にそういう経験もしたことから(戦災復興土地区画整理事業のこと)、それはお断りしたいと決めたんです。とうのも、真野は零細企業・自営業が多い地区で、日銭が入らないと生活できないところなんです。その点、震災後もすぐにみかん箱の上に魚や野菜を並べて商売することもできたのですが、区画整理に入ってしまうとかえってまちづくりは遅れてしまったのではないかと思います」

ここには「復旧よりも復興」それも「創造的復興」を標榜して、震災を機に大規模な復興都市計画(再開発事業、土地区画整理事業)を強行しようとする神戸市に対する明確な批判視点が流れている。被災者・被災地にとっては何よりも「生活再建=復旧」が最優先事項であり、それを邪魔するような都市計画は受けないとする本来の復興思想が見事に貫かれている。おそらく他の被災地でも神戸市から事前の相談があれば、地区住民は迷うことなく「復興都市計画」を拒否したであろう。しかし拒否されれば「元の木阿弥」になることを恐れた神戸市は、事前に相談することもなくいきなり復興都市計画案を発表した(それから蜂の巣を突いたような大騒ぎになった)。

でも真野地区の場合は長年の付き合いもあり、地区の頭越しに神戸市が土地区画整理計画をいきなり発表するわけにはいかなかったのだろう。そんなことをすれば、地区住民は実力行使をしても計画決定を覆し、また例え計画決定したところで土地区画整理事業には一指も触れられないことを担当者がよく知っていたからだ。私は阪神・淡路大震災における真野地区の救援活動を高く評価するとともに、それ以上、神戸市の復興都市計画をまちづくり視点からはっきりと拒否した真野地区の態度を高く評価したいと思う。(つづく)