「最小の市民負担で、最大の福祉を追求する」ことを標榜した神戸型都市経営は高度成長時代の「あだ花」だった、神戸市政における開発利益中心の都市経営の根は深く、半世紀近くにわたって一致推進した「革新勢力」の共同責任は重い、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その19)

宮崎市政のもとで神戸市政の行政哲学・行政手法として定式化され、「最小の市民負担で最大の福祉を追求する」ことを標榜した神戸型都市経営論は、自民・公明はもとより社共両党も含めた「オール与党=市役所一家体制」によって推進された。具体的には、(1)神戸市が「公共デベロッパー」(開発事業者)として「山、海へ行く」の巨大開発計画(海岸埋め立て事業+宅地造成事業)を立案し、(2)開発資金を主として起債先行(外国債を含めて)で調達し、(3)多種多様な外郭団体(ピーク時は60余り)を設立して「採算重視」の事業経営に当たらせるというものだった。

時代は地価が右肩上がりの高度成長時代だった。そのなかで都市経営における「公共性と収益性の調和」を謳った行政手法は次第に収益性に傾斜し、神戸市の行政組織は「開発利益」追及(土地を造成をして高く売る)の民間企業張りの経営体質に傾いていった。市幹部や市職員には「事業センス」「経営センス」が求められ、地方自治体が市民福祉実現のための公共組織の原点が軽視された。地方自治の本旨が忘却され、公務労働者としての自治体職員の使命と役割が「脇に置かれる」ようになった。

行政が都市経営の主体として位置付けられた結果、市民は「地方自治の主権者」ではなく単なる「行政サービスの受益者」となった。市職員が「お膳立て」をして市民がその恩恵に与るという「行政上位」「行政おまかせ」の構造が定着した。市民参加は「行政協力」と同義語になり、市政に批判的な市民は「市民参加」から排除されるようになった。神戸という大都市社会でありながら、その社会構造はいつの間にか行政(官僚)が市民を支配する前近代的な力関係の下に置かれるようになったのである。神戸市民が他都市に比べて市役所に対して極めて従順であり、異議申し立てをするようなことがなくなったのもその反映だろう。

革新政党が長年にわたって神戸市政の与党であり続けたことも、労働運動と市民運動住民運動の停滞をもたらす一大要因になった。組合幹部や政党幹部(議員)が当局と「馴れ合い」になり、組合員や市民の「なだめ役」になって不満や要求を抑えるようになると(ちょうど公明党議員や創価学会幹部が学会会員をなだめるように)、まともな運動は育たない。こうして異議申し立てするような組合員や市民は「異端分子」とみなされ、行政からも社会からも孤立させられるようになっていった。

 しかし、わが世の春を謳歌した神戸市政にも都市経営が破綻する瞬間が訪れた。それは宮崎市政から笹山市政へバトンが渡った1989年(宮崎市長はもう1期をやりたかった)、奇しくもバブル経済が崩壊して地価が暴落して開発利益を前提にした神戸型都市経営は一転して「開発不利益」を受けるようになったからだ。すでに70年代後半から港湾都市神戸の基幹産業であった重化学工業は不振に陥り、それにかわる「リーディング産業」が模索されていた。それが「生活文化産業=リーディング産業」を土台にした「ファッション産業都市構想」や「コンベンション都市構想」だった。

 だが神戸市政の勉強会でも指摘されたように、重化学工業に替わる「生活文化産業」の振興は成功しなかった。なぜなら「生活文化産業」は市民の生活に根ざした産業であり、市民の自発的意思と意欲がともなわなければ活性化しない産業分野だからだ。たとえば「ファッション産業」といっても、それは港町神戸とともに育ってきたアパレル・洋服、真珠等の装身具・アクセサリー、洋食・洋菓子、酒・リキュール、家具、コーヒーなど雑多な日常的消費商品を一括りにしたものであって、大企業の集合体としての産業分野ではない。神戸の国際性豊かな文化や歴史を土壌にして生まれてきた衣食住の各方面にわたるライフスタイルを基盤にした産業分野であるがゆえに、市役所が旗を振ってもどうなるものでもないのである。

 また「コンベンション都市構想」といっても、市役所ができるのはせいぜいコンベンションホールの建設だとか国際会議の誘致ぐらいのものであって、街に魅力がなく、市民の「おもてなし」を伴わないような都市には人はやってこない。学会や会議を開催するといっても参加者は1日中会議場にいるわけはないのであって、街に滞在して市民生活に触れ、そこでの歴史や文化を味うことができなければ無味乾燥の旅になる。都市の「おもてなし」は市民が主役でなければ不可能であり、市役所や役人が幾ら号令を掛けても「できないものはできない」のである。(つづく)