市民に背を向ける政党に果たして野党共闘を呼びかける意味があるのか、「連帯兵庫みなせん」世話人会の議論を聞いて、2016年参院選(衆参ダブル選)を迎えて(その12)

「連帯兵庫みなせん」の第1回世話人会が2月23日に須磨公園近くのコミュニティセンターで開かれた。世話人の一人である私も出席を予定していたが、京都で大流行のインフルエンザにつかまり、残念ながら会議に参加できなかった。世話人会の模様はその後詳細な会議録が送られてきてよくわかったが、電話で聞いたところによると、3時間半にわたる議論のほとんどが共産党野党共闘にどう参加させるかに費やされたのだそうだ。

それにしても、兵庫の人たちの共産党に対する善意はこの上もなく清らかで美しいという他はない。2月14日の市民と政党の討論集会であれほどの無礼極まる態度を示した共産党兵庫県委員会書記長)に対して、まだ懲りることなく野党共闘を呼びかけようというのである。私などはこれまで兵庫の共産党が市民に対して積み重ねてきた数々の背信行為を嫌というほど知っているので、「またか」とそれほど驚かなかったが、多くの人にはまだ幻想があるらしい。

私が最初に兵庫の共産党に不信感を抱いたのは、阪神・淡路大震災後の1997年10月神戸市長選の時だった。市民が未曽有の震災に直面し、苦難に喘いでいるとき、共産党も与党の一員だった笹山市政が復興都市計画決定を強行し、「創造的復興」などと称して新長田駅前再開発事業などをはじめとする数々の巨大プロジェクトを強行していた。また神戸市民が猛反対運動を繰り広げてきた不要不急の神戸空港建設を「神戸空港は希望の星」だとして、巨額の公共投資を惜しみなく集中していた。さすがに市民の批判に耐えかねたのか、共産党が1973年市長選以来24年ぶりに与党から離れて(それまでは自民から共産にいたるまで全会派が与党会派だった)1997年市長選に対立候補を擁立したのだが、このとき神戸市職労を中心とする神戸市共産党は笹山陣営の側について共産推薦候補と戦った。兵庫で「二本共産党」(兵庫共産党と神戸市共産党の二本立て)が誕生した瞬間である。

しかし党組織の分裂を恐れた兵庫共産党は神戸市共産党の行為を黙認し、幹部の処分に踏み切らなかった(踏み切れなかった)。大量の市職労関係者の脱退が兵庫共産党の組織解体につながり、専従者の給与も支払えないような事態を避けるためだというのがもっぱらの巷間の見方である。この時以来、神戸市共産党は神戸市役所一家のために働くことはあっても、神戸市民のために行動することはなくなった。そのことを赤裸々に示したのが2009年10月神戸市長選である。

神戸市政は戦後70年近くにわたって、助役上がりが市長になるという慣行の「市役所一家体制」が続いてきた。庁内の隅々にまで役人支配が行き渡り、市職労はその最も忠実な歯車として支配機構を支えてきた。その代り組合幹部は権力機構の一員として遇せられ、役員退職後は市外郭団体の理事として厚遇されるという「甘い汁」に与ってきたのである。また「影の助役」「第3助役」といわれるほどの大きな影響力を行使していることも当然視されてきた。

だが、長年にわたる「市役所一家体制」への市民の批判が高まり、笹山市政の後継政権である矢田市政が3期目に入ろうとする2009年10月市長選において、民間から市民候補が「アンチ市役所候補」として立候補した。市長選直前までは市民候補の擁立に傾いていた兵庫共産党が突然態度をひるがえしたのがこのときのことである。市民候補に難癖をつけて突如支持できないと言動を変え、他に誰も候補を見つけられないので県書記長(現委員長)自らが立候補するという離れ業に踏み切ったのである。

共産党が独自候補を立てることは、市民候補の票を分裂させて現職候補を側面支援することと同じことだ。果たして県書記長は数万票を得票して現職候補を助けた。市民候補と現職候補の差が1万票足らずの僅差であったことを考えると、神戸市共産党と兵庫共産党の連係プレーが見事に功を奏したということになる。多くの真面目な共産党支持者には信じられないような話ではあるが、選挙結果が厳然とその事実を表している以上、この一連の事態を否定することは難しい。繰り返すが、兵庫共産党の書記長が立候補しなければ、また自由投票にしていれば、今頃は間違いなく市役所一家体制に終止符が打たれ、少なくとも今よりはましな神戸市政が実現していただろうということである。

今回の参院選あるいは衆参ダブル選を控えて、兵庫共産党が頑なに野党共闘を拒むのはなぜか。いろいろな理由が考えられるが、私は彼らが市民の批判を心底恐れていることがその根底にあると思っている。過去に何回も市民の信頼を裏切り、数多くの背信行為を積み重ねてきた事実は消えることがない。それでいて一切の自己批判をすることもなく、逆にこのような体質を批判してきたもっとも良心的な活動家を排除してきた後ろめたさが、市民との共闘をためらわせるのである。(つづく)