野党共闘の表と裏、日本中に恥さらす衆院京都3区補選、勝っても負けても民進党候補は手痛いダメージを受けるだろう、2016年参院選(衆参ダブル選)を迎えて(その21)

 夏の参院選(衆参ダブル選)の前哨戦になる衆院補選が4月12日午前、北海道5区と京都3区で告示された。各紙夕刊は同日、自民候補と野党統一候補の文字通りの一騎打ち対決になった北海道5区に一斉に焦点を当て、その勝敗の行方は参院選(衆参ダブル選)のみならず安倍政権の命運にも多大の影響を及ぼすだろうと伝えた。衆院北海道5区補選はいわば野党共闘の「表の顔」であり、今後の政局を左右する「要の一石」としての戦略的意義を持つ国政選挙になったのである。

 これに対して京都3区補選はどうか。そこには恥も外聞もない民進党の党利党略選挙が渦巻いているだけだ。5野党合意に反し、大会決議までして野党共闘に背を向けた民進党京都府連の代表が候補者となり、それでいながら選挙の第一声では「平和を守る」「立憲主義を守る」と叫ぶのだから恐れ入る。それでいて民進党岡田代表京都新聞のインタビューで、「民進党としての初の国政選挙で泉氏を擁立する。何を訴える」と聞かれ、「政治に対する信用を取り戻す選挙だ。投票率が大事で、総選挙並みに近づくよう訴えを強めたい」と語った(京都新聞2016年4月10日)。

 政治に対する信用とは何か。それは国民に対する政党としての公約を誠実に守り、言動一致の姿勢を示すことだ。今回の衆院補選に関して云えば、(1)安保法制の廃止と集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回を共通の目標とする、(2)安倍政権の打倒をめざす、(3)国政選挙で現与党およびその補完勢力を少数に追い込む、(4)国会における対応や国政選挙などあらゆる場面でできる限りの協力を行う、との5野党合意を誠実に実行することだろう。

 ところが「野党4党は国政選挙を含めた協力で合意したが、京都3区補選ではなぜ共産党と共闘しないのか」との質問に対しては、岡田代表は「安倍政権を利することをしないための合意だが、内容は『できる限りの協力』だ。選挙対応はいきさつもあり、各都道府県連の判断に委ねている。京都は参院選で共産とも議席を争う。府連の対応を尊重する」と答えた(京都新聞、同上)。

 しかし、これは明らかに詭弁だろう。「できる限りの協力」という言葉は前向きの言葉であって、後ろ向きの言葉ではない。「いずれの選挙でも共産党と共闘しない」との民進党旧民主党京都府連の大会決議は、野党共闘を頭から否定するもので一片の協力姿勢も含んでいない。いわば、野党共闘を全面否定する京都府連の態度を「できる限りの協力」の範囲だと云うのでは、「政治に対する信用を取り戻す選挙」にはならないだろう。

事実、告示日当日の夕刊各紙を見ても、「参院選占う2補選告示、衆院北海道5区 与野党対決、京都3区は6人届け出」「自民・共産不在 選択は、京都3区 保守層・無党派層を意識」(朝日新聞)、「民意反映どこまで、衆院2補選告示、自民不在 今日の陣」(毎日新聞)、「有権者『争点は何?』、京都3区補選告示、候補者ら第一声」「不祥事原因『情けない』、『地に足着いた議論を』、有権者冷ややか」(日経新聞)などなど、今回の衆院京都3区補選に対してはあいまいな見出しが多い。各社ともどう書いていいのかわからないらしく、北海道5区については多くの紙面を割くが、京都3区に対しては申し訳程度の付けたり記事に終わっているのである。

これは京都市民にとっては実に恥ずかしいことだ。不名誉極まることだと云ってもいい。私自身も京都3区の有権者の1人であるだけに、全国に顔向けができないほどの「引け目」を感じている。そこには野党共闘の「裏の顔」ともいうべき醜い党利党略があるだけで、安倍政権を打倒しようという「大義」のヒトカケラも見られない。こんな選挙なんて行きたくもないし、見向きもしたくないというのが有権者の本音ではないか。

 こんなことを拙ブログで書いたら、大勢のコメント諸氏から「その態度は間違っている」との指摘を受けた。大所高所の立場に立って民進党候補に投票した方がよいというのである。だが、民進党と云ってもその中身はピンからキリまであるのであって、一枚板ではない。その中の最悪の部分が京都の民進党なのだ。したがって、前原氏らが牛耳る京都の民進党候補を応援することは「民進党保守系」をますます増長させることになるし、かえって本物の野党共闘を遠ざけることになる。野党共闘を無視しても民進党は十分にやっていけるとの口実を与えるだけだ。

 共産党がそれにもかかわらず京都3区で候補擁立をしなかったのは、来る衆院選民進党との野党共闘を期待したからだろう。京都3区で譲歩すれば、民進党衆院小選挙区野党共闘に踏み切るかもしれないとの淡い「期待」の下に自主投票の決定を下したものと思われる。これが共産党の云う「衆院補選の特殊事情」の意味であり、「訳の分からない選挙」の中身ではないか。だが、この決定は二重の意味で正しくなかった。

第1は、京都市民に多大の「割り切れなさ」と失望感を与えたことだ。野党共闘は「ギブ・アンド・テイク」が原則なのに、共産党が一方的に降りたことは「理不尽極まりない」「訳が分からない」との強い印象を有権者に与えた。第2は、共産党の「期待」に反して、民進党が頑なまでに衆院選での野党共闘を拒んでいることだ。岡田代表は「いま全国で200弱の衆院選候補者数を250程度まで増やしたい」と明言しているし(京都新聞、同上)、長妻代表代行は4月11日の記者会見で「与野党一騎打ちの構造に持っていけば結果は大きく異なる」と衆院選での候補者調整に理解を示しつつ、連立政権は「基本的な政策の隔たりからみて、できない」と明言した(毎日新聞2016年4月12日)。民進党は2009年衆院選のように、そして今回の京都3区補選のように、共産党が候補者を自主的に(一方的に)取り下げることを期待している(だけ)なのである。

民進党の頑なな態度の前に 共産党は4月10、11両日の第5回中央委員会総会で、次期衆院選小選挙区で「野党共闘を追求しつつ、候補者擁立を積極的に推進する」方針に転換した。志位委員長は4月11日の会見で「小選挙区で候補者を積極的に擁立することが、結果として選挙協力にもプラスに働く」と述べ、民進党にも譲歩を促した(毎日新聞、同上)。つまり京都3区では候補者擁立を見送ることが野党共闘を前進させることだと判断していたのに、今度は「衆院選小選挙区で候補者を積極的に擁立することが結果として選挙協力にもプラスに働く」と逆の決定をしたのである。

 京都新聞4月12日社説は、今回の衆院ダブル補選について「各党の思惑が入り乱れ、このままでは有権者に分かりにくい選挙になろう。各立候補予定者は与党の票目当てで右顧左眄(うこさべん)することなく、野党としての自らの政策を正面から問いかけるべきだ。特に安倍晋三首相が参院選の争点に掲げる憲法改正、世論の強い批判の中で成立した安全保障法制、消費税増税社会保障への考えは明確に示さねばならない。候補を出さない自民、共産もあらゆる機会を通して有権者に説明責任を果たす必要がある」と主張している。

 この社説は各党の痛い所を衝いている。告示日以降、保守票欲しさに露骨に自民党との関係を誇示する候補者は見苦しい限りだし、またあいまいな言辞で自民党にすり寄る候補者も無節操そのもののように目に映る。一方、候補擁立を見送った自民、共産は「自主投票」は決めたものの、その意味について明確な説明をしていない。とりわけ共産党は、衆院小選挙区で積極的な候補者擁立に転じた方針との関係で、今回の「自主投票」の意味を丁寧に説明しなければならないだろう。

 京都新聞社説は、「京都の二大政党が候補を立てない中、投票率の低下を危ぶむ声が強い。3区の有権者は、せっかくの機会をあきらめや冷笑で流すことなく、貴重な一票で自らの意思を示してほしい」と呼びかけるが、3区の有権者はあきらめも冷笑もしていない。「訳の分からない」選挙に戸惑っているだけで、選挙戦が続けば「野党共闘の裏」の実態が明らかになり、有権者は「冷笑」ではなく「冷静」な判断を下すだろう。そのとき、勝っても負けても民進党候補は手痛いダメージを受けるというのが私の観測だ。(つづく)