旧日本軍細菌戦731部隊遺跡(黒竜江省ハルビン市平房区)は見違えるほど系統的に整備されていた、世界文化遺産登録に向けた新たな遺跡研究の展開が求められる、731部隊訪問記PARTⅡ(その1)

 拙ブログでも予告したように、ここ暫くは「2016年参院選(衆参ダブル選)を迎えて」シリーズをいったん中断して、今回訪問した中国黒竜江省ハルビン市平房区の旧日本軍細菌戦731部隊(以下、731部隊という)遺跡について記すことにしたい。

前回の訪中は2011年9月の「15年戦争と日本の医学医療研究会」が企画した第9次訪中調査団に同行したもので、731部隊遺跡の現地視察と陳列館関係者との意見交換が主たる目的だった。その時に金成民731部隊遺跡陳列館館長から731部隊遺跡を世界文化遺産に登録したいとの構想が示され、その可能性や条件について大いに議論が盛り上がったことを記憶している。なおこの時の記録に関しては、拙ブログ「中国東北部ハルビン731部隊訪問記」(2011年9月22日〜10月18日)を参照されたい。

父が満鉄技師だった関係で戦前のハルビン市生まれの私は、ロシア帝国が極東の拠点として建設した「東洋のモスクワ」とも「東洋のウィーン」とも云われる瀟洒ハルビンの街には多大の関心を抱いていたが、731部隊の本拠地であるハルビン市郊外の平房区に関してはほとんど知識がなかった。帰国後、上記研究会から訪中記録の提出を求められたものの単なる印象記では責任を果たせないと思い、そこで大急ぎで2編の論考を書いて研究会会誌に投稿した。「731部隊を建設した日本の建設業者」および「中国東北部ハルビン731部隊遺跡訪問記〜731部隊遺跡の世界遺産登録をめぐって〜」である(『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』、第12巻第1号、2011年12月)。

 幸いにも前者の論考が日本で出版された『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊〜医学者・医師たちの良心をかけた究明〜』(文理閣、2015年8月)の中に収録され、さらに同時期に「反ファシズム勝利70周年」を記念して中国で刊行された『七三一問題国際研究中心文集(上下)』(中国和平出版社、2015年7月)にも第四編の「国外研究」の1編として翻訳されて収録された。中国語の題名は「七三一部隊細菌戦研究基地的建設者」である。

 この間、中国では731部隊遺跡の整備をめぐって劇的ともいえる展開があった。2014年は日清戦争勃発120周年、2015年は世界反ファシズム戦争と中国抗日戦争勝利70周年にあたる歴史的な年である。この歴史的節目に731部隊遺跡陳列館は、ハルビン市が国家援助を得て731部隊に関する展示館を拡張建設し、史跡を「戦争史跡公園」として整備する建設計画を発表した。同陳列館によれば、拡張計画はすでに国の担当部門の承認済で2014年中に着工し、元の陳列館の隣に大規模な新館を建設する計画となっている。全展示物は新館と隣接する旧館に収蔵され、旧館は文化財として保護の対象となる。また、敷地内には遺跡文化公園も建設予定であり、731部隊に関する史跡は面積が25万平方メートルで、細菌戦に関する史跡としては世界の戦争史上最大規模という(新華社電、2014年2月28日)。

 今回、実際にこの目で見た731部隊遺跡は、5年前とは見違えるほど建築、敷地共に整備されていた。731部隊遺跡は1982年から中国政府の管理下に組み入れられたことを契機にして、2006年には全国重点文物保護施設に選定され、2012年には中国世界文化遺産候補名簿に登録されるなどこれまで着々と条件整備が進められてきたが、2014年からの国家プロジェクトによる大々的な整備計画によって陳列館の拡張はもとより、遺跡敷地全体の整備が飛躍的に進んだのである。戦後混乱期に敷地内で操業していた工場の域外移転が進み、住宅群も整理されて敷地の全容が明らかになり、731部隊の大規模な施設群が一望のもとに見渡せるようになった。

 新設拡張された陳列館は、地下深く掘り込まれた2層構造の大規模建築(延床面積は不詳)で、斜坑のような体裁のモノトーン(黒一色)の屋根で覆われた鋭角的なデザインが特徴だ。屋根からは3本の煙突状のタワーが突出しており、731部隊が撤退逃走時に全ての犯罪試料を焼却したボイラー室の3本の煙突を象徴するものだという。陳列館自体が731部隊の黒い罪状を告発しているような強烈な印象を受ける建築デザインであり、中国の数ある記念館の中でも十指に入る優れた建築物と言えるだろう。また展示内容も従来の人体実験に関する映像や器材などを中心とする直接的な展示から、この間の歴史研究の成果を踏まえて証拠資料や背景説明にも十分なスペースが割かれるなど、客観的な思考を促す内容へと質量ともにレベルアップしている。

 しかしながら私が最も衝撃を受けたのは、731部隊遺跡の中心エリアの細菌実験室や特設監獄(マルタ小屋)などがあった「四方楼」(日本名は「ロ号棟」)の発掘現場だった。731部隊が撮影した航空写真でもひと際目立つ中央部のこの巨大建築物は、縦170メートル、横140メートル、高さ15〜20メートル(3階建)の規模を有していて、当時は「丸ビルの数倍もあるような巨大建物」と形容されていた。作家の森村誠一が元731部隊隊員の話を引用して、「3階建てであったにも関わらず、建物の全体の高さは現在の5階建て住宅公団団地ぐらいはあった。ロ号棟の外壁は、コンクリートの上に乳白色のタイルを張り詰めたもので、ハルビン市内からバスで接近すると広大な平野の中に土壁で囲まれ、忽然と白亜の建物がそびえている感じを与えた」と述べているのも頷ける(楊彦君「『満州七三一部隊』旧趾調査報告」、『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊』、112〜115頁)。

 ロ号棟の発掘現場は、風雨による崩壊を防止するため発掘現場全体が屋根で覆われており、かつ近くからの現場見学を容易にするため宙に浮かせた通路が設けられるなど、考古学の経験が存分に活かされている。西安市郊外の秦始皇帝兵馬俑発掘現場とまではいかないが、それに近い配慮が随所に施されているのを見ると、731部隊遺跡の発掘に賭ける関係者の熱意が伝わってくる。私はこれまで配置図や写真などでロ号棟を一応知っているつもりでいたが、発掘現場の光景はその生半可な理解を悉く覆すものだった。廃墟になったロ号棟の全容が発掘によって可視化された「リアルな存在」として浮かび上がり、見学者に対して新たな印象と知見を与える歴史遺跡として復活したのである。

 最近亡くなられた考古学者、坪井清足氏の言葉に「歴史は掘るものだ」という有名な一節があるが、私もまた731部隊遺跡の研究には発掘現場の成果が不可欠であることをまざまざと学んだのである。(つづく)