731部隊宿舎区域が全国重点文物保護単位から外れたことは残念だった、宿舎区域の「動態保存」は世界文化遺産登録の新たな可能性を秘めていることを喚起したい、731部隊訪問記PARTⅡ(その3)

前回訪問時に陳列館関係者から聞いた話では、世界文化遺産登録への準備作業は1990年代後半から始まり、2000年からは731部隊敷地の民家143戸と企業12社を移転させて本格的な発掘調査が行われ、2002年末には中国都市計画設計研究院の専門家らが遺跡保存整備計画を作成する段階にまで到達したという。計画の趣旨は731部隊跡地を「世界戦争遺跡公園」(仮称)として再建するというものである。

当時の計画概要は、(1)部隊跡地に散在する26カ所の遺跡を「重点保護区」(遺跡本体を構造的に保存する区域)と「一般保護区」(遺跡周辺を整備する区域)に分ける、(2)破壊されている施設は構造的に補強して安全性を確保し、可能な限り原型保存する。また増改築された部分は撤去・復元する、(3)重点保護区においても、住宅、店舗、工場、倉庫、事務所、学校宿舎などとして現在使用されている施設、とりわけ「部隊員家族宿舎」などは居住者にそのまま使用を認める、という柔軟なものであった。

731研究センターの調査によれば、本部施設と道路を隔てた1.7ヘクタールの宿舎区域には34棟の建物(住戸数は不明)が現存し、ハルビン航空工業集団の社員住宅団地として今も現役で使用されている。731部隊の宿舎区域は、もとは「東郷宿舎」「東郷村」と呼ばれ、部隊の将校、士官、兵およびその家族が住んでいた。楊彦君(前掲、128〜130頁)は次のように云う。
「宿舎区域建物群は、隊員家族宿舎、独身官舎、官舎、そして給水・給湯・暖房等の付属設備からなっていた。さらに学校、病院、運動場、商店街、娯楽、料理店、女郎屋、『東郷神社』等の施設も設けてあった。(略)宿舎区域の現存旧跡と給水・暖房・電気施設についての初歩的調査によれば、731部隊が部隊施設を建設する前からすでに給水・暖房・電気施設の配備を重んじていたと判明した。さらに、731部隊の軍事付属施設の全体規模、基本構造及び全体配置が明らかになった。宿舎区域は範囲が広く、規模が大きく、施設が完備していた。それは、731部隊は規模が大きく、経費が十分で、人員が多い特殊部隊で会ったことを示している。それと同時に、731部隊はいわゆる『軍医』『細菌専門家』『実験手』等の手先に精神的な慰めと軍国主義教育を与えることにより、残忍を極める人体実験の現実を偽り、一般人と変わらない生活の仮の姿を作り出そうとしていた側面を反映している」

この指摘は731部隊基地の特徴を把握するうえで極めて重要だ。拙稿でも指摘したように、荒野の中に忽然と建設された731部隊基地は、部隊の陣容が大規模なこともあって「ニュータウン」のような諸施設を完備した生活基盤を整えることなしには到底機能しなかったからである。この点については、森村誠一も同様の指摘をしている(『新版・悪魔の飽食』、角川文庫、1983年、206頁)。
「第七三一部隊にあったコンクリート三階建て(一部二階建て)の官舎の群れ(独身宿舎を含む)を、隊では『東郷村』と呼んでいた。ハルビン市南方二十キロのだだっ広い広野のただ中にあった部隊である。軍機防衛のために隊員とその家族は、とかく不便な生活を送っていた。軍用バスに乗り小一時間もすれば、楡と馬糞のにおいが同居するにぎやかで美しいハルビンの町並みに出るが、生活の本拠はあくまで東郷村にあった。部隊の性格上、娑婆から隔絶された閉鎖村になることはやむを得ない。しかし三千人近い兵員が細菌と「丸太」を相手に何年も閉鎖村で生活するには、文化的行事や娯楽やスポーツも必要であった」

と同時に、ここでは両者(楊、森村)とも見落としているが、731部隊の立地条件がハルビン市から僅か20キロしか離れていない点も重要なポイントである。なぜなら、これほどの規模の「ニュータウン」であってもハルビン市のような大都市とのネットワークがなければ、「軍医」「細菌専門家」「実験手」などの医学関係者およびその家族の高度な教育・文化的生活ニーズを持続的に満たすことは難しかったと思われるからである。医学関係者とその家族の生活が長期にわたる以上、ハルビン市という大都市が存在しなければ、731部隊の存続も危うかったといわなければならない。1932年に満州事変調査のため国際連盟から派遣されたリットン調査団の一員、ドイツ代表の国会議員ハインリッヒ・シュネーは、当時のハルビン市の印象を次のように描いている(ハインリッヒ・シュネー、金森誠也訳、『〈満州国〉見聞記、リットン調査団同行記』、講談社学術文庫、2002年、134〜136頁)。
「北満の平原を列車で横切ってこのハルビン市に着くと、まるでヨーロッパの都市に来たような気がした。全ての建物は洋風建築、白い顔、すみきった眼、ブロンドから黒まで様々な髪の色をした男女でいっぱいだった。ここには八万人のロシア人がおり、その他の欧州人もその中にまじっていた。四千五百人の日本人がいたが、市民の全体像を変えるまでにいたらなかった。(略)ハルビン市に人が集まったのはそんなに昔のことではない。三十年前にはこの地方には小漁村しかなかったが、それがいまやハルビンという大都会に変貌したのだ。市街は、無数の小舟、ジャンク、汽船、モーターボートの往来で賑わう松花江に臨んでいた」

731部隊基地は荒野の中の「ニュータウン」ではあったが、宿舎区域を通してハルビンという大都会に結びついていた――というのが、私の仮説である。この視点からすれば、宿舎区域が中国政府の全国重点文物保護単位から外れたことは残念でならない。確かに遺跡跡地を復元して公園的に保存するばかりではなく、すでに一般市街地化している宿舎区域を日常生活のまま〝動態保存(保全)″すなわち「使用保護」するのは難しいことかもしれない。しかし、731部隊基地の本質を文化遺産として伝えようとすれば、そこに住み着いた人たちの現状を否定することなく保存整備計画に取り込み、むしろそのことの特徴を活かした世界遺産登録を目指したほうがよかったのではないか。

現在、世界遺産に登録されている多くの文化遺産・自然遺産・複合遺産は、その顕著な普遍的価値を「現状保存」することが基本になっている。そしてその価値が損なわれたときは「危機遺産」に指定され、損傷が限度を超えると登録が抹消される仕組みになっている。しかし、731部隊遺跡の場合は(徹底的に)破壊された遺跡跡地を保存・修復・再生させることが基本である以上、宿舎区域の動態保存は新しい世界遺産を生み出す可能性を秘めていると私は考えている。(つづく)