番外編、市役所一家体制の基盤となった労使協調路線、身辺雑話(5)、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その128)

 市議会でヤミ専従問題を追及された市行財政局長は、その温床に「阪神・淡路大震災以降の労使協調路線があり、震災後、労使協調で財政危機を乗り越えてきた。その中で組合活動をしやすいようにと配慮があった。なれ合いと言っても過言ではない」と釈明している。この釈明によれば、神戸市の労使協調路線は阪神・淡路大震災後の危機管理の一環として生まれたような印象を与える。だが、これは事実に反すると言わなければならない。神戸市の労使協調路線は、宮崎市長が2期目の市長選(1973年)において再選を確実にするため、宮崎氏が心ならずも神戸空港建設を断念して突如「革新市政」を標榜した時から始まっているのである(宮崎氏はこの方針転換をその後、「生涯の誤り」「一生の悔恨」と繰り返し嘆いた)。

 宮崎市政が「革新市政」かどうかは別にして、宮崎氏の変心をなじる保守候補との一騎打ちとなった1973年市長選では、市職労は「好機到来」とばかり市長選に取り組んだ。そして宮崎市政3期目以降は、市職労が接着剤となって社会、民主、共産の野党間を取り持ち、自民から共産までの全会派が与党入りする文字通りの「オール与党体制」ができ上がるのである。自民など保守会派は宮崎氏がもともと保守系であることを百も承知で「相乗り」を決め、社会・民主・共産など野党各派は政策協定もしないで市長与党(事実上の翼賛政党)となった。このオール与党体制(保守会派との調整も含めて)を取り仕切ったのが「影の助役」と呼ばれた某本部役員であり、この時から市職労が労働団体としてではなく宮崎市政を裏で支える「治組織」変貌したのだといえよう。

オール与党体制という「馴れ合い」の政治体制を維持するためには、政党間の複雑な利害関係を裏で調整する「影の政治組織」が必要となる。通常この種の組織は政党によって担われるのであるが、宮崎市政の場合は、市長の命を受けた(あるいは忖度した)市職労本部役員が有力メンバーとして活躍するようになった。政治工作には「ヒト」と「カネ」が要る。市職労本部役員(複数)の「ヤミ専従」が労使慣行となったのは、そのために必要な人員を確保するためであり、市職労のなかにつくられた「工作要員」を育成するためであった。

この体制が頂点に達したのが、宮崎市政の後継を争って2人の助役が死闘を繰り広げた1989年市長選である。笹山助役(市職労土木支部長)ともう一人の助役が立候補し、市職労は「身内候補」のために死力を尽くして戦った。以降、笹山市政と市職労は「労使協調」の域を超えて「労使一体化」することになった。笹山市長の言うことが市職労の運動方針になり、本部役員はすべて笹山市政のエージェント(代理執行人)と化したのである。

このことが最も激しくあらわれたのが、阪神・淡路大震災直後の都市計画強行決定であり、「神戸空港建設は止めない。神戸空港は希望の星だ」との笹山市長発言だった。被災者が冬の避難所(学校など)で震えている時に、笹山市政は市民の声を無視し、僅か3カ月でつくった即席プランを「震災復興計画」など称して決定した。都市計画審議会会場には多くの市民が詰めかけて抗議したが、その時「元支部長を守れ!」とばかり、人間の壁をつくって市民の前に立ちはだかったのが市職労都市計画支部の組合員たちだったのである。

そればかりではない。都市計画局職員は震災発生後数時間にして発令された市総務局長命令にしたがい、被災者の救出救命をそっちのけにして「復興都市計画」作成のための市街地調査(焼け跡調査)に駆り出されていた。「助けてくれ」「水をくれ」と叫ぶ被災者を尻目に、職員たちは2日間自転車で焼け跡を駆け回り、地図に焼け跡を記録し続けたのである。そして、このことを批判した私の論文や著書に対して、真っ先に「抗議表明」したのも市職労本部役員や都市計画支部役員だった。都市計画支部長は私に直接「抗議文」を届け、執行委員長は5年後に出版した著書の中で私を名指しで非難した(『神戸市都市経営は間違っていたのか、市職員にも言い分がある』、神戸新聞総合出版センター、2011年)。

震災後の1997年市長選においては、市民生活の復旧復興を蔑ろにして巨大なインフラ計画を推進する笹山市政の是非が焦点となった。「神戸空港建設反対」を旗印に立候補した市民候補(医師)に対して、市職労は市民側に立つどころか組織を挙げて笹山候補のために戦った。こうして、市職労は「市長の下僕」となり「市民の敵」になった。ヤミ専従体制がさらに拡充され、もはや神戸市政の「骨格」といえるまでに構造化された。冒頭の行財政局長の釈明の中にある「阪神・淡路大震災後の労使協調路線」とは、このことを指すと解釈すべきなのである。

神戸市の知人から寄せられた情報によれば、10月5日午後3時頃の久元市長のフェイスブックには、以下のようなメッセージが掲載されているという。
「今日の新聞各紙が報じていますように、神戸市職員労働組合ヤミ専従問題で
違法に神戸市が上乗せして支払った退職手当の総額は、12名の元組合役員に対して、約5000万円に上ることが判明しました。また、違法な上乗せの取り扱いについて職員部給与課と組合役員が確認していたことを示す文書も見つかりました。文書の日付は1997年5月6日で、それ以前から労使が癒着して組合役員に退職手当を上乗せしていたことが窺えます。行財政局には、市民のみなさんから抗議の電話がたくさんかかっているようです。あらためてこのような事態を招いていることにお詫びを申し上げます。市民のみなさんの怒りはよく理解できます。しかし、現在の行財政局の職員は闇に包まれていた事実を明らかにし、労使関係を正常な姿にしたいという強い使命感のもとに作業にあたっていることもご理解いただきますよう、お願い申し上げます。いずれにいたしましても、第三者委員会により実態の解明を進めてできるだけ早く全貌を明らかにしていきたいと考えています」

 文中にある1997年5月といえば、市長選を目前にした時期のことであり、市職労は当然のことながら「臨戦態勢」にあったことがうかがわれる。このような情勢の中で、市民の反対に抗して笹山市長が市長選に勝利するには市職労の全面支援が必要であり、そのためにはヤミ専従の本部役員たちに対して退職金を上積みすることも厭わない、むしろそれは「市長選ボーナス」として不可欠の対応だったのではないかと推察される。そしてこのことは、それ以前の市長選においても繰り返されていた労使慣行であり、労使協調路線維持のための必要欠くべからざる措置であった。(つづく)