731部隊検証の新たな展開(7)、100部隊の実験室、細菌兵器の開発について、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その137)

 もう1つの付図コピーは、三友が配属された二部一科(細菌、試験研究)の実験室がある「二部庁舎」(1941年当時)の平面図である。しかし、平面図といっても部屋の名称、番号、位置関係などが記されているだけで、間口や奥行きは記されていないので個々の部屋の大きさや庁舎全体の面積はわからない。それでも、二部庁舎23号室(一科科長の実験室)で働いていた筆者の文章からは、実験室の組織や仕事の内容が一定程度わかるので、以下、関係個所を抜粋してみよう(長文の場合は要旨)。

【細菌実験室について】
 「当時、一科の科長は井田清技師で、科には5つの実験室があったが、私は科長の実験室23号で勤務することになった。当時の二部庁舎は付図(Ⅱ)のようなもので、半地下式の構造をしていた建物の地階は、ほとんど使用されず空室同然のままであった」(44〜45頁)
 「科長の井田技師は、100部隊の中でも特異な存在であった。昭和18年、100部隊に細菌兵器の開発が指令されるまで、細菌謀略に対する実験・研究を企画・指導していた中心人物がこの人だったのである。井田技師は北海道大学で応用化学を修めた後、ヨーロッパ、主としてドイツに留学していたが、その時代に細菌戦について関心を抱いたようである。帰国後伝染病研究所に勤務し、結核の研究等を行っていたが、100部隊が創設された翌年、高級廠員並河中佐によって研究員として迎えられた」(45頁)
 「井田技師がどのような任務を帯びて、何処で何をしていたか、部隊の中でも知っている人は少ない。昭和20年、平桜中尉が関東軍司令部で高橋獣医部長に対し、ハイラル派遣隊の活動報告を行った際、部隊長若松少将と共に立ち会っていることからして、部隊の中枢にあって細菌戦の準備に参画していたことが窺えるが、こうした傍ら、軍司令部の第二部を始め、特務機関、憲兵隊、731部隊、516部隊、陸軍中野学校等との連絡に携わっていた」(45頁、516部隊:チチハル化学兵器・毒ガスの実戦研究を行っていた部隊)
 「私が23号室に配属になった当時、実験室には松井技手、技術員1期生の吉松雇員がいた。(略)部屋には他に、作業員と女子軍属がいて全部で7名であった。他の実験室もほぼ同様な人員構成だったので、一科の総員は約40名と言うことになる」(48頁)

【細菌兵器の開発について】
 「(関東軍特別演習によって)100部隊の中では、第一部では内地から輸送されてくる軍馬の検疫に忙殺されていたし、第三部では予防液や免疫血清の製造で毎晩遅くまで残業が続き、第二部からも防疫班要員が大勢各地へ派遣されていった。そうした中でも、二部の各科では残ったもので研究業績が続けられていたが、私たちの一科は全く違った状況になっていた。将校・技師・技手・古参技術員は全員新編成の野戦防疫廠に動員されていったので、研究業務ができなくなり、実験室は資料や薬品を整理したうえ封印してしまい、閉鎖状態になってしまった」(52頁)
 「秋風の立つ頃になって、営庭の兵隊はそれぞれの駐屯地へ進駐し、100部隊もやがて元の状態に戻った。一科にも他の部・科から人員が補給され、業務が再開された。『関特演』後、部隊の人員は増員され、100部隊は700〜800名、牡丹江支廠も100名近くになっている。23号室はそのまま井田技師の実験室として残されたが、肝心の井田技師はこの頃から思い出したように顔を見せるだけになり、何処へ行っているのか、部隊内でも余り姿を見かけなくなってしまった」(53頁)
「昭和18年に入って戦局は悪化し、この間、関東軍からは正規の師団だけでも20個師団にも及ぶ精鋭が逐次南方戦線へ抽出されていった。そこで大本営参謀本部は、弱体化した関東軍に対して北方防衛力強化のため、新兵器の開発を指令した。100部隊における業務も新兵器の開発指令に対応し、従来の防疫業務に加え、積極的に細菌戦の準備をすすめることになり、これを担当する部署として第六科が新しく作られた。それまでほとんど使用されていなかった二部庁舎の地階が改造され、細菌兵器製造工場へと変貌していった」(68、69頁、要旨)
 「昭和19年の4月に、陸軍獣医学校から山口少佐が六科の科長として着任し、一科の勤務員を中心とした50名近い人員を以て正式に新しい科が発足した。今迄にも増して、科の業務は極秘事項として秘匿されることになり、六科の技術員は孟家屯の技術員宿舎を出て、部隊近くの清光寮合同宿舎に移された」(70〜71頁)
 「何かと秘匿されたことの多かった六科の中でも細菌戦資料室の存在はまた格別で、そうした部屋があったということさえ気付かなかった者も多かったのではなかろうか。その部屋は、100部隊が行ってきた一連の細菌戦研究の成果を展示した部屋だったのである。731部隊と合同で細菌砲弾の発射実験を安達で行ったこともあった。細菌戦資料室には、これらの演習の様子が写真や地図や図解等をもって示されており、炸裂した砲弾の破片等も展示してあった。この部屋にはこうしたものの他に、万年筆型の注射器、細菌爆弾発射用小型拳銃といった謀略用細菌兵器等も展示されてあったが、それらよりも私が意外に思ったのは、満洲国に対するスパイ、謀略員、麻薬密輸等の侵入ルートやそのアジト、連作先などが図式化されて掲示してあったことである。このことは、100部隊就中井田技師が細菌戦の研究に携わっていたばかりでなく、憲兵隊や特務機関とも深くかかわりを持っていることを物語っているものであった」(76〜77頁、要旨)

 皇宮博物院の研究員からすれば、上記の「細菌戦資料室」に展示されていた100部隊資料などは喉から手が出るほど欲しい資料であろうが、それらは全て焼却されて今では何一つ残っていない。また建物に関しても地階の基礎部分と一部の煙突を残して全て爆破されたので、これも建物を復元する手掛かりにするには程遠い。731部隊の場合もほとんどの建物が爆破されたが、基地が広大でかつ施設数が多かったために全ての建物を完全に爆破するまでに至らなかった(建物の残骸が多数残っていた)。また、戦後になって基地内に建てられた工場やアパートが順次撤去され、現在は遺跡発掘調査を大々的に実施できる条件が整っていることも100部隊とは根本から事情を異にする。

 このように100部隊の遺跡調査は困難極まりない状況にあるが、それでも三友回顧録の記述から凡その輪郭を描くことはできる。以下、731部隊との対比において100部隊の特徴を挙げてみよう。

(1)731部隊
 731部隊は当初から細菌戦部隊として創設され、部隊基地はハルビン市から70数キロも離れた寒村・背蔭河に細菌実験場がいったん建設された。その後、関東軍参謀本部の指令によりハルビン市郊外平房地区に移転することになり、細菌実験室、特設監獄、専用飛行場、専用鉄道駅、農場などを含む一大研究基地が計画的に建設された。731部隊は日本の細菌兵器研究の中心であり、8部(総務、基礎研究、実戦研究、防疫防水、細菌製造、教育、器材、診療、憲兵隊)、5支隊(牡丹江、林口、孫呉ハイラル、大連)を持つ巨大部隊であった。
731部隊の基地面積は約6平方キロ、本部区域に隣接して約3千数百人の隊員が生活する居住区域が設けられ、基本的な生活を維持するための各種施設が整備されていた。宿舎は、軍隊の階級に応じて高等官官舎、判任官官舎、官舎、独身官舎、少年隊舎、衛兵隊舎、練兵隊舎などに分かれており、大講堂・映写室、階級別の食堂、酒保、共同浴場、洗濯工場、運動場、家族診療所、国民学校(小学校)、神社、妓楼などもあった。
 731部隊ハルビン市郊外に立地した最大の理由は、平房地区が細菌研究のための地理的条件を満たしていたことに加えて、ハルビン市がソ連国境にも近く対ソ作戦の拠点になっていたこと(マルタの確保も含めて)、そして高等学歴の医学者を一定期間、家族ぐるみで満洲に移住させるためには、ヨーロッパ風の都市文化に溢れたハルビン市の存在が、彼らの週末の余暇生活のためにも、子女の中高等教育のためにも不可欠だったからである。

(2)100部隊
一方、100部隊は軍馬調達・補充のための防疫業務を担う臨時病馬廠として新京駅近くの市街地に設立されたが、戦線の拡大に伴い関東軍軍馬防疫廠に格上げされ、新京郊外の孟家屯に新基地を建設して移転した。100部隊はもともと軍馬防疫を目的とする試験研究部隊であり、現地の軍馬を調達するに当たって病馬を選別するなど、伝染病対策が主たる任務だった。対ソ作戦のため細菌兵器の製造に着手したのは後になってからのことである。
組織は、総務と3部(検疫、血清製造、器材補給)、1支廠(牡丹江)の構成であり、隊員数は約千名、厩舎を含む基地面積は0・5平方キロであった。隊員宿舎は基地外に散在していたことから、日常生活は新京市内の各種施設に依拠して営まれていた。宿舎は部隊内の階級や業務に応じて割り当てられ、陸軍官舎、合同宿舎、技術員宿舎などに分かれていたが、細菌兵器の製造に際しては関係者が全員同一宿舎に集められることもあった。

 以上の点から、100部隊は731部隊に比べて組織も小さく(隊員数では4分の1)、基地の規模も小さい(基地面積では12分の1)試験研究部隊であったが、満洲のほぼ中央部に位置し、関東軍各部隊の軍馬補充・防疫の任務を果たす中心部隊であった。とりわけ注目されるのは、100部隊が大連と新京を結ぶ連京線の終着駅であり、かつ新京からハルビンに至る京浜線の出発駅である新京駅と固く結びついていたことである。これは関東軍が移動する際、あるいは日本から軍馬を調達する際に大連港での軍馬の乗船地検疫が不可欠であったこと、および大連港から満州各地への軍馬輸送をするには、新京を経由する北方幹線ルートが最も有効だったからである。
 皇宮博物院で近く始まる100部隊の展示においては、単に部隊遺跡や関連資料の解説にとどまらず、731部隊との関係も含めて関東軍全体の立地戦略にも広く目を向けることが望まれる。これまでにない斬新な視点からのシナリオの下に、充実した企画展になることを期待して簡単なまとめとしたい。