731部隊検証の新たな展開(9)、ハルビン社会科学院731研究所の最近の活動及び731部隊基地建設について、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その139)

 京都大学での731部隊隊員の学位論文検証(予備調査)が遅々として進まないのに比べて、最近のハルビン社会科学院731研究所の活動は目覚ましいものがある。なかでも中心になっている楊彦君(社会科学院教授、731部隊遺跡陳列館副館長)の存在が際立っている。この12月も一行4人で来日し、16日の戦医研研究会(東大医学部)と20日の講演会(大阪府保険医協会)を精力的にこなした。最近は豊富な調査予算を背景に研究成果を続々と出版し、国内外で数々のシンポジウムを開催するなど大活躍である。

 その中でとりわけ注目されるのは、731部隊遺跡の本格的な発掘調査が行われ、その成果が詳細な報告書(大型本)として出版されたことだ。私はまだ入手していないが、研究会の会場で回覧された折にざっと見たところ、考古学者や土木工学者と共同で731部隊遺跡全体の大規模な発掘調査が行われ、これまで分からなかった「ロ号楼」(マルタが収容され人体実験が行われた建物)の詳しい内容が明らかにされている。本件についてはいずれ改めて論じるつもりであるが、調査結果の総合的な検討に関してはそのうち国際シンポジウムが開かれるだろうから、その時までには十分な準備をして臨みたい。

 次にこれと関連して、拙稿「731部隊基地を建設した日本の建設業者」に関するその後の研究経過を報告しなければならない。残念ながら、現物の建築設計図や工事関係資料が発見できていないので見るべき成果はないが、ただ大林組が最有力候補であることは疑いを入れないし、状況証拠の発掘はそれなりに進んでいるので今回はその幾つかを紹介したい。

731部隊の母体は言うまでもなく陸軍軍医学校であるが、その移転新築工事(1927〜29年)及び同防疫研究室の新築工事(1932〜33年)を請け負った建設会社が大林組なのである。陸軍軍医学校の敷地面積は57,074平方メートル、延べ床面積17,007平方メートル、工事費121万円であった。また、防疫研究室は敷地面積16,500平方メートル余、延べ床面積1,795平方メートル、工事費20万円であった。陸軍軍医学校五十年史にはその経緯が次のように記されている(陸軍軍医学校移転新築工事132頁、防疫研究室設立184頁、1936(昭和11)年発行)。

陸軍軍医学校ハ明治二十一年麹町区富士見町ニ開設セラレ、爾来多年ノ星霜ヲ経テ幾多有意ノ軍医此校舎ニ於テ養成セラレ、且貴重ナル軍陣医学ノ業績此処ニ研鑽セラレテ、国軍ノ為貢献セシコト言辞ニ絶スルモノアリ。然リト雖、皇軍ノ拡充及軍陣医学ノ発展ニ依リ、現校舎ハ狭隘ヲ告グルニ至リ、夙ニ移転増築ノ議起リシガ遂ニ牛込区戸山町ノ陸軍用地ニ移転工事ヲ営ムコトニ決シ、昭和二年六月二十四日同地ニ起工、約二箇年ノ年月ヲ経テ昭和四年三月三十日竣工シ、此日移転ヲ完了セリ」

一般的に言って、医学研究所や病院建築の施工工事は、複雑な設備機器を設置する関係で経験と実績がものを言う分野である。施設内の機能や動線も極めて複雑であり、高度で専門的な建築知識や施工技術を必要とする。この点、陸軍軍医学校と防疫研究室の両方の工事を担当した大林組は各種のノウハウを習熟することになり、この分野で突出した技術を蓄積することになった。このような特殊専門工事は一般入札ではなく特命工事として指名されることが多いので、陸軍軍医学校の新築工事で実績を挙げた大林組が、その人脈を生かして次の防疫研究室の建設業者に指名されたことは容易に想像できる。また、それらの延長線上にある731部隊基地の建設についても、大林組が同様に指名されたと考えるのがごく自然であろう。

大林組は、この他にも陸軍軍医学校の移転新築工事と相前後して大学病院や医学研究所など数多くの大規模病院、研究施設の工事を手掛けており、その中には九州帝国大学医学部附属病院(1927〜30年)、東京帝国大学伝染病研究所(1931〜34年)、千葉医科大学附属病院(1931〜36年)などが含まれている(大林組百年史・資料編、工事年表、1993年)。

陸軍軍医学校五十年史における防疫研究室に関する記述は、以下の通りである(同上、184頁)。
 「防疫研究室設立ノ主旨。防疫研究室ハ国軍防疫上作戦業務ニ関スル研究機関トシテ陸軍軍医学校内ニ新設セラレタルモノナリ。此新設ニ関シテハ昭和三年海外研究員トシテ滞欧中ナリシ陸軍一等軍医石井四郎ガ各国ノ情勢ヲ察知シ我国ニ之ガ対応施設ナク、国防上一大欠陥アル事ヲ痛感シ、昭和五年欧米視察ヲ終へ帰朝スルヤ、前記国防上ノ欠陥ヲ指摘シ之ガ研究整備ノ急ヲ要スル件ヲ上司ニ意見具申申セリ。(略)昭和七年小泉教官ノ絶大ナル支援ノ下ニ上司ノ認ムル處トナリ、軍医学校内ニ同軍医正ヲ首班トスル研究室ノ新設ヲ見ルニ至リシモノナリ」
 「防疫研究室開設。昭和七年八月陸軍軍医学校ニ石井軍医正以下五名ノ軍医ヲ新ニ配属セラレ防疫研究室ヲ開設ス。当時防疫部ノ地下室ヲ改造シ基礎的研究ニ向ヒ日夜営々作業ニ従事ス。防疫研究室ノ作業進展ニ伴ヒ防疫部地下室ニ於ケル研究室ハ狭隘ヲ感ズルニ至レリ。依テ石井軍医正ハ上司ニ意見具申ノ結果、軍医学校ニ隣接セル近衛騎兵連隊敷地五千坪余ヲ小泉近衛師団軍医部長支援ノ下ニ軍医学校ニ譲渡セシメ防疫研究室ノ新築ニ着手シ、昭和八年四月工費約二十万円ヲ以テ起工、同年(筆者注:翌年と推察される)十月竣工セリ」
 「満洲防疫機関設立。防疫研究ノ基礎進ムニ随ヒ、防疫ノ実地応用ニ関シ石井軍医正ハ万難排シ挺身満洲ニ赴キ、防疫機関ノ建設ニ関シテ尽悴セリ。而シテ該研究ノ実績挙グルヤ、内地ト不可分ノ関係ニ在ル在満各部隊ノ防疫上皇軍作戦ノ要求ヲ満タス必要上、昭和十一年遂ニ防疫機関ノ新設ヲ見ルニ至レリ。同機関ハ内地防疫研究室ト愛呼応シテ皇軍防疫ノ中枢トナルハ勿論、防疫ニ関シ駐屯地作戦上重要ナル使命ヲ達成セン事ニ邁進シツツアリ(詳細別記、筆者注:五十年史の中には見当たらない)」

 以上の経過をみると、陸軍軍医学校移転新築工事竣工(1929年)、石井四郎による防疫研究機関設立の意見具申(1930年)、陸軍軍医学校内に防疫研究室の新設承認・設立(1932年)、防疫研究室の新築工事竣工(1934年)、満洲防疫機関・731部隊設立(1936年)と、石井の意見具申から僅か6年で731部隊設立が決まったことがわかる。

 しかしながらこれは表向きの経過であって、731部隊の前身である背陰河細菌試験所(東郷部隊)は石井によってすでに1932年から建設が始まっており、その建設資金は陸軍から秘密裏に支給されていたことが指摘されている(ジェルダン・H・ハリス著、近藤正二訳、『死の工場、隠蔽された731部隊』、71〜72頁、柏書房、1999年)。

「陸軍は石井に研究を開始する事実上の自由裁量権を与えていた。日本経済が大恐慌のさなかにあるにもかかわらず、石井は当初、裏口座から当時としてはきわめて大金の20万円の年間予算を提供された。他の陸軍部隊は乏しい割り当てで我慢していたというのに、石井の研究予算は1932年以降毎年度増額されていた。(略)当初、石井少佐は計画実行のために300名の部隊の指揮権を与えられた。必要に応じて追加援助がなされることが約束されていた」

また、1933年に現地を訪れた遠藤三郎関東軍司令部作戦主任参謀は、そこで人体実験が行われていたことを目撃している(遠藤三郎著、『日中十五年戦争と私、遠藤三郎』、162頁、中日書林、1974年)。

「細菌戦に関しては、大正の末期頃から日本陸軍も軍医学校で石井四郎軍医大尉(後の軍医中将)が主任となって研究しておったことは、私が参謀本部作戦課勤務の時、直接石井軍医の報告で承知致し、軍医学校の研究室も参観しましたが、当時の研究は極めて小規模のものであり、目的も仮想敵国の細菌攻撃に対する防衛が主であると聞いております。(略)1932(昭和7)年、私が関東軍作戦主任参謀として満洲(現東北)に赴任した時、前任の石原莞爾大佐から〝極秘裡に石井軍医少佐に細菌戦の研究を命じておるから面倒を見てほしい〟との依頼を受けました。」
「寸暇を得てその研究所を視察しましたが、その研究所は哈爾浜、吉林の中間、哈爾浜寄りの背陰河という寒村にありました。高い土塀に囲まれた相当大きな醤油製造所を改造した所で、ここに勤務している軍医以下全員が匿名であり、外部との通信も許されぬ気の毒なものでした。部隊名は『東郷部隊』と云っておりました。被実験者を一人一人厳重な檻に監禁し、各種病原菌を生体に植え付けて病勢の変化を検査しておりました。その実験に供されるものは哈爾浜監獄の死刑囚とのことでありましたが、如何に死刑囚とはいえまた国防のためとは申せ見るに忍びない残酷なものでありました。死亡した者は高圧の電気炉で痕跡を残さない様に焼くとのことでありました」
「本研究は絶対極秘でなければならず、責任を上司に負わせぬため作戦主任参謀の私の所で止め、誰にも報告しておりません。石原参謀から面倒を見てほしいと申し送られました具体的にすることは何もありませんので、研究費として軍の機密費20万円を手交し目的を逸脱せぬ様厳重に注意しておきました」
「ところが或る時細菌の試験以外に、健康体に食物を与えて水を与えず、あるいは水を与えて食物を与えず、または水と食物を共に与えずして幾日の生命を保ち得るか等の実験もしていると聞き、本来の目的を逸脱した医学的興味本位の研究と直感し、石井軍医正を招致して厳重に𠮟責し、今後もし目的を逸脱した実験をする如きことがあれば一切の世話を打ち切ると宣言したこともありました」

遠藤三郎の告白には、細菌兵器開発のために石井に対して軍の機密費が支給されていたこと、それが関東軍参謀・石原莞爾の命令に基づくものであり後任に引き継がれていたこと、背陰河の東郷部隊ではすでに生体実験が本格化していたことなど、極めて重大な事実が明かされている。大林組がすでにこの段階から基地建設に参加していたか、それとも別の建設会社が請け負っていたか、あるいは指揮下の工兵隊を使って建設したかなど、ここからも多くの疑問が湧いてくる。石原莞爾に関する研究成果は数多くあるので、石原と石井の関係を探ることが次の新しい展開につながるかもしれない。(つづく)