まるで〝土光臨調答申〟を思わせる菅官房長官の社会像、時代の変わり目にも歴史の転換期にも無関心な人物に国政は任せられない、安倍内閣支持率下落と野党共闘の行方(48)、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その225)

 

日本記者クラブ主催の自民党総裁選討論会(9月13日)に関する各紙の特集記事を丹念に読んだ。翌14日のNHK日曜討論会も熱心に観た。そして、最有力候補だとされる菅官房長官の発言に心底幻滅した。この人物は、安倍首相が政権を投げ出した原因についても、新型コロナ禍で世界が時代の変わり目を迎えていることについても何一つ分かっていないのだ。菅官房長官は次のように言う(朝日9月13日)。

「めざす社会像は自助、共助、公助、そして絆。まずは自分でやってみる。地域や家族が互いに助け合う。そのうえで政府がセーフティーネットでお守りする。縦割り行政、先例主義、既得権益を打破し、規制緩和を進め、国民に信頼される社会をつくっていく」

 

 瞬間思い出したのだが、土光臨調(第2次臨時行政調査会)の「行政改革に関する第一次答申」(1981年7月)の一節だ。冒頭に同じようなことが書いてある(行政改革の理念)。

 「来るべき高齢化社会、成熟社会は一面で停滞をもたらしやすいが、その中で活力ある福祉社会を実現するためには、自由経済社会の持つ民間の創造的活力を生かし、適正な経済成長を確保することが大前提となろう。その下で、資源・エネルギーを始めとする成長制約要因や経済摩擦要因を克服しつつ、長期にわたる経済発展を図っていくことが肝要である。同時に、家庭、地域、企業等が大きな役割を果たしてきた我が国社会の特性は、今後もこれを発展させていくことが望ましい。すなわち、個人の自立・自助の精神に立脚した家庭や近隣、職場や地域社会での連帯を基礎としつつ、効率の良い政府が適正な負担の下に福祉の充実を図ることが望ましい」

 

 土光臨調は表向き「福祉社会の実現」を行政改革の理念として掲げたが、実際やったことは、(1)政府規制の緩和、(2)政府公社の民営化、(3)医療と福祉の削減、(4)地方財政の削減など、国民生活に〝痛み〟を与えるものばかりだった。ただ、NHKの映像で「メザシをおかずに朝食する土光さん」の「つつましい個人生活」の姿が拡散され、国民の間で〝行革フィーバー〟ともいうべき状況が生み出されたことは、政治権力にとってマスメディアが如何に大きな影響を与えるかを教えるものだった。

 

 菅官房長官の発言も「たたき上げ」イメージを拡散するため、周到に準備されていたことがわかる。菅氏は、秋田の農村出身でありながら苦労して上京し、働きながら学んだ庶民出身の「たたき上げ」の政治家を売り物にしている。だが『週刊文春』などによれば、それらが「経歴詐称」ではないかとの疑問が早くも持ち上がっている。調べればすぐにわかることなのに、大手メディアでは話題にならない。菅氏の「天敵」とされる小池東京都知事も同様の疑いが指摘されているが、権謀術数に長けたお二人は案外「同じ穴の狢(むじな)」なのかもしれない。

 

 話を本題に戻そう。「自助、共助、公助」といったキャッチコピーは何処にでも転がっているありふれたものだ。電通や博報堂のプロは言うに及ばず、ちょっとしたメディア関係者に相談すればもう少しましなコピーが用意できたにもかかわらず、なぜこんな古臭い(二宮金次郎ばりの道徳めいた)言葉を持ち出すのか。「たたき上げ」の庶民イメージを演出するにしても、もう少し気の利いたフレーズがなかったのか理解に苦しむことが多い。

 

 コロナ禍に日本中が喘いでいる現在、「自助」や「共助」をいくら強調したところで、それが国民の心に響くとは到底思えない。働きたくとも働けない、店を開きたくても開けない、自分も周辺もみんな困っている...多くの国民が食うや食わずの「新しい日常」に直面していま、こんな古臭い言葉を平然と並べるのは時代感覚が狂っているとしか思えない。権力の中枢に7年8カ月も居座っていたことで世の中の動きや庶民の気持ちがわからなくなり、それが上から目線のこんな言葉を吐くことになったのだろう。

 

「メザシの土光さん」がフィーバーを引き起こしたのは、多少なりともそこに明治人間の気骨が感じられ、昔風の生活に国民の共感が寄せられたからだ。だが、「令和おじさん」の菅氏には共感できるような雰囲気が何一つ見られない。記者クラブでの質疑応答では、「森友・加計・桜」問題に関してはあくまでシラを切って国民の疑惑に答えようとせず、「辺野古移設」問題については既に決まったこととして沖縄の民意を顧みない、露骨な権力体質が顕わになっただけだ。それでいて、国民には「自助」「共助」を強要するのだから、こんな人物が政権を担うことになると、世の中が殺伐とした社会になることは目に見えている。

 

菅氏の発言や行動を見ていると、安倍政権の官房長官として「裏仕事」をこなしているときはそれでよかったのかもしれないが、自分が表舞台の主役として登場するとなるとそうかいかないのではないかと思う。個別案件処理に徹する「汚れ役」のままでは、表舞台に立てないからだ。慌てて衣装直しをしたが、セリフまで変える訓練ができていなかった...。そのことが「めざす社会像は自助、共助、公助、そして絆。まずは自分でやってみる」といった陳腐なセリフになったと思えば納得がいく。要するに、大きな時代の流れを読めず、歴史の動きや転換期を察知することができない通り一遍の平凡な人物だということだ。

 

この点、9月13日の毎日社説、「日本記者クラブ討論会、菅氏のビジョンが見えぬ」は本質を突いている。「菅氏の発言は目先の個別政策にとどまり、大きなビジョンは見えなかった」との指摘である。

(1)外交・安全保障政策については米中対立が激化する中、菅氏は中国との向き合い方について「主張すべき点はしっかり主張しながら。一つ一つ解決する」と述べたというが、社説では「これでは何も言っていないのと等しい」と切って棄てられている。

(2)経済・財政政策に関しては現状の追認に終始し、社会保障制度をどう持続可能にするかについて、菅氏は「コロナ対策を継続させていくことが大事だ」と強調しただけだった。「コロナ対策はもちろん重要だ。だからといって、中長期の方針を示さない理由にしてはならない」とこれも切り返されている。

(3)消費税の引き上げについては、民放のテレビ番組で言及したことを指摘されると、菅氏は「今後10年間は引き上げないという安倍晋三首相の発言を踏襲する」と語り、火消しに努めたという。

(4)結論は、「菅氏は安倍政権の継承と前進を掲げるが、前進に関わる発信が余りにも乏しい。総裁選での優位な状況を受け、言質を取らせまいとして『守りの慎重姿勢』をとっているのであれば残念だ。(自民党内総裁選は)事実上の次期首相選びである。中長期的な視点での国のあり方や外交・安全保障の明確なビジョンを欠くようでは、不安が募る」というものだった。

 

しかし、私はこれが菅氏の実像であって単なる慎重姿勢だとは思わない。菅氏にはこれ以上のビジョンがなく、またこれ以外のことを語れないというのが事の真相ではないか。菅氏には、民放テレビ番組で語った「どんなに頑張っても人口減少は避けられない。将来的なことを考えたら、行政改革は徹底して行った上で、国民の皆さんにお願いをして消費税は引き上げざるを得ない」という当面の方針以外は念頭になく、後は「一つ一つ解決する」と言うしかないのである。

 

今日9月14日は自民党総裁選の日だ。菅氏が官房長官から次期首相に変身する日でもある。菅氏が表舞台の主役になるには「大化け」しなければならない。果たしてそれが可能かどうか、遠くない将来にその結果は出るだろう。(つづく)