共産党はなぜ党首の直接選挙を実施しないのか、政策論議もなく、党首交代もない「改革拒否政党」の前途は危うい、岸田内閣と野党共闘(その4)

 今回の衆院選で自民党が大勝した背景には、周到に仕組まれた総選挙前の党首選挙の実施がある。自民は事前の党首選挙を本番の総選挙さながらに演出し、その巧みな選挙戦術によって菅前首相のダークイメージをクリアーすることに成功した。自民の党首選挙に注ぎ込まれたメディア報道量は総選挙のそれよりもはるかに多く、その意味で自民は本番の総選挙を「戦わずして勝った」といえる。総選挙前に大々的に展開された党首選挙によって自民はメディア空間を独占し、その余勢を駈って総選挙の勝利を手にしたのである。

 

 これに対して野党共闘は、前回の拙ブログでも指摘したように、不人気な枝野代表(立民)と志位委員長(共産)という両党の「1強コンビ」が手を組んだことで、メディア効果が更に低下した。枝野代表はそのことを自覚していたのか、選挙中は志位委員長と一緒に映像を撮られることを極力回避したという。せっかく野党共闘を組んだのだから、せめてもにこやかに握手している「ツーショット写真」でイメージチェンジを図るかと思いきや、今まで通りの「枝野1強」にこだわったのである。

 

その結果、枝野代表が出ずっぱりになることで立民のイメージはますます硬直化し、「能面スピーチ」も最後まで止むことがなかった。立民は枝野代表に代わるフレッシュな人材を「選挙の顔」として起用できず、最後の最後まで「政権交代」を象徴するイメージをつくり上げることができなかった。立民は、政権交代に不可欠な「選挙の風」を巻き起こすことができず、小選挙区では野党共闘のお陰で辛うじて議席を増やしたものの、比例代表区では大幅に議席を減らした。「枝野1強」に象徴される立民の旧態依然たる体質が、「新しい器=野党共闘」に「新しい酒=革新勢力」を盛ることを拒んだのである。

 

 一方、志位委員長のほうはどうか。こちらの方はもう朝から晩まで志位委員長ばかりがクローズアップされて、それ以外の光景はどこを探しても見つからなかった。共産は「志位1人政党」かと思うぐらいの露出ぶりで、これでは志位委員長の存在は「昔の名前と顔で出ています」という懐メロ(ナツメロ)程度の宣伝効果にしかならない。有権者は同じ人物が性懲りもなく出てくると、たとえ違うことを言っていても「また同じだ」と受け取ってしまう。聞く前から拒否感が前面に出て(いわゆるマスキング効果)、共産のいう「歴史的なチャレンジ」などいっこうに話題にはならなかったのである。かっての「共産=革新政党」のイメージはどこへやら、いまは「志位1強=改革拒否政党」になったのではないか――、私の周辺ではこんな評価がもっぱら行きわたっている。

 

 事態を抜本的に変えなければならない――、さすがの立民もそう決意したのだろう。枝野代表が辞任し、新しい党首を選ぶことになったのがその表れだ。立民の党首選挙が実施されれば、世論も少しこの話題で盛り上がるのではないか。枝野氏に代わるフレッシュな人材が党員や党友の直接選挙で選ばれることになれば、今までの「枝野1強」にうんざりしていた世論にも少しは変化が生まれるというものだ。まして、意表を突くフレッシュな代表が選出されることにでもなれば、立民の政党支持率にも大きな変化が生じるかもしれない。これからの党首選挙の行方が注目される。

 

 これに対して、共産の方はうんともすんとも反応しない。志位委員長は総選挙翌日の11月1日、党本部で記者会見し、議席と得票数を減らしたにもかかわらず「責任はない」と明確に否定した。同日付の「総選挙の結果について」と題する常任幹部会声明も同様の趣旨で展開されており、志位委員長をはじめ幹部役員の政治責任は一切棚上げされている。政治は「結果がすべて」だから、結果責任をとらないというのは格好がつかないだろう――と思うのだが、不思議なことにそうはならないのである。理由は「我が党は、政治責任を取らなければならないのは間違った政治方針を取った場合だ。今度の選挙では、党の対応でも(野党)共闘でも政策でも、方針そのものは正確だったと確信を持っている」(毎日11月2日)というものだ。だが、これでは共産がこれから幾ら議席と得票数を減らし続けても、志位委員長は政治責任を取らず、党首の座に永久に座り続けることになる。

 

 こんな世間外れの見解を党内ではいったいどう受け止めているのだろうか。機関紙赤旗は即刻、「『常幹声明』を討議・具体化し、公約実現と強く大きな党づくりに踏み出そう」(中央委員会書記局、11月4日)とのキャンペーンを開始した。

 ――常任幹事会の声明「総選挙の結果について」の討議がスタートし、「選挙結果の見方がわかり、スッキリした」「共闘の道を胸を張って進んでいきたい」など、積極的に受け止められています。同時に、全党が懸命に奮闘したにも関わらず残念な結果になっただけに、〝がっかり感〟〝モヤモヤ感〟を多くの支部と党員がもっています。選挙結果と今後の課題がみんなの腑に落ちるよう、丁寧に討議することが重要です。

 

 この書記局キャンペーンを読むと、共産の党内議論の進め方がよくわかる。常幹声明が出てから僅か2日後に、(まだ誰も読んでいないにもかかわらず)「選挙結果の見方がわかりスッキリした」との感想が上から一方的に流され、「選挙結果と今後の課題がみんなの腑に落ちるよう丁寧に討議することが重要です」との指示が出されるのである。このやり方は、選挙活動に参加した党員や支持者の疑問や意見を時間をかけて積み上げるのではなく、上からの常幹声明を「丁寧に討議」することで党内の見解を即刻集約し、選挙結果に関する原因究明や役員幹部の政治責任追及を封じようとしている――としか思えない。最近は、さすがに上部指示を教科書のように「学習」するという言葉は使われなくなったが、言われたことをそのまま「討議」するのでは、これまでの「学習」とさほど変わらない。

 

 最近、若者の間では「保守政党」「革新政党」という言葉が使われなくなったと聞く。われわれオールド世代では政策の内容で、政党の「保守」「革新」を判断するのが普通だったが、最近では「改革」とう言葉が基準になって政党の評価が行われているように思える。そういえば、今回躍進した日本維新の会のキャッチフレーズも「改革政党」だった。「身を切る改革」「大阪での改革実績」を強調した維新が世論の風を集め、「革新の大義」を掲げて「歴史的にチャレンジ」した共産が敗れたのである。

 

 私は、今回の選挙の敗因を「力不足」の問題に一元化するのは誤りだと思う。共産は党首を直接選挙することもやっていないし、幹部役員の定年制も設けていない。90歳を越える役員が上席を占める常任幹部会が政策のすべてを決定し、そこで党首が実質的に決められ、志位委員長が相も変わらず続投する――、こんなことが百年一日の如く繰り返されてきただけだ。政策論議もなく、党首交代もない「改革拒否政党」の前途は危うい。いまこそ共産は党首直接選挙を実施し、志位委員長に代わるフレッシュな人材を登用すべきではないか。次回は、「事実上野党共闘」を目指した京都1区選挙の分析をしたい。(つづく)