【番外編】歴史的、文化的、学術的価値の高い京都府立植物園の〝イベント広場化〟は許されない、京都府に開発整備計画の白紙撤回を求める

立憲民主党代表選については、どうやら泉健太政調会長と逢坂誠二元政調会長の2人の政調会長経験者に的が絞られつつあるようだ。この件についてはいずれ別稿で論じることにして、今回は私の古巣である京都府立大学と京都府立植物園をめぐる「緊急事態」について報告したい。

 

京都府が、府立植物園や府立大学などの文教施設が集まる左京区の「北山エリア」を再開発しようという計画が進んでいる。2021年11月8,9日には住民向けの府の説明会が開かれ、参加者たちからは多くの反対の声が相次いだ。メディア各紙でもその様子が詳しく伝えられている。以下、朝日新聞(11月11日)、京都民報(11月14日)、毎日新聞(11月16日)の3つの記事の中から主な内容を紹介しよう。

 

【朝日新聞】

見出しの「北山エリア再開発計画、植物園影響 懸念の声」「園内外に商業施設」「『自然楽しむ場壊す』見直し求める署名10万筆」とあるように、記事は批判的な論調で展開されている。

――整備計画の対象は、京都市営地下鉄北山駅の南に広がる約38ヘクタールの府有地。その3分の2(甲子園球場約6個分)を占めるのが、約1万千種の植物を保有している府立植物園だ。府は、この一帯は「賑わいや交流機能が少なく、周遊、滞在しにくい」「多くの施設が老朽化している」として、昨年「北山エリア整備計画」を策定した。計画では園西側の鴨川沿いにレストランやミュージアムショップを作り、北山通沿いにも商業施設を整備して、人の流れを園内に引き込みやすくするという。植物園の周りでも、園の南側にある府立大の体育館を約1万席のアリーナを備えて施設に建て替え、園の東側に劇場など芸術複合施設を作ることも検討している。

――この計画には反対の声が相次いでいる。植物園と道路を隔てる生け垣が伐採される恐れがあるほか、観覧温室の移転が検討されており、移動に伴い植物が枯れるリスクがあると懸念されているためだ。住民や全国の園芸関係者らが計画見直しを求める署名活動中で、歴代園長も反対の立場で会見をひらく異例の事態になっている。

 

【京都民報】

 京都民報の記事はもっと厳しい。「北山エリア整備基本計画、初の住民説明会に500人」「府立植物園開発、緑地削る計画、理解できない」「1万人アリーナ、なぜ大学施設を開発に使う」「反対意見噴出も府は推進姿勢」「〝署名運動さらに〟見直し求める署名10万人突破、『なからぎの会』が報告」との見出しにあるように、多くの反対の声が上っているにもかかわらず、計画推進の姿勢を崩さない府の態度を厳しく批判している。

 ――京都府は8、9の両日、府立植物園の開発や府立大学に1万人規模のアリーナ建設計画を盛り込んだ「北山エリア整備基本計画」についての初の住民説明会を行いました。参加した住民からは「植物園の開発は中止を」「府立大に1万人のアリーナは要らない」「計画を白紙撤回すべき」などの意見が相次ぎ、府側は明確な回答を避けながらも計画推進姿勢を示しました。また、参加した大学の研究者からは、「植物園をしっかり残せば文化遺産になる。もっと勉強し直してほしい」「なぜ広大な緑地を削るような計画を作るのか、理解できない」などの意見が出されました。

 ――「京都府立植物園整備計画の見直しを求める会」(なからぎの森の会)などが呼びかけてきた見直しを求める署名が、ネット署名などを合わせて10万人分を超えました。8日の説明会後、同会は感想交流などを行う集会を開催。代表は「説明会では、多くのみなさんが見直してほしいと声を上げた。今後も府にタウンミーティングを開くよう求めていきたい。今日をスタートにして頑張っていこう」と呼びかけました。

 

【毎日新聞】

 毎日新聞は、府側の態度を中心に伝えている。

 ――地域住民はこれまで、説明会の開催を再三要望していた。府の担当者は8日の会の冒頭で「コロナ下でどんな形で開くべきか模索していた。遅くなり申し訳ない」と陳謝した。府は「計画は最大限のイメージで、具体的な中身は検討中」と強調した。府側は、住民らから反対意見があることを踏まえ、植物園の整備の方向性を議論する有識者懇話会の設置を発表。懇話 会は、植物園の専門家を中心に経済界、文化界などからメンバーを選定中と説明した。国内外の植物園の取り組みを参考に、整備の方向性を議論するという。

 ――アリーナをめぐっては「学生の教育活動を最終戦すべきだ」との意見や、防犯面を不安視する声も上がった。アリーナなどの建設費や管理面に関する質問も相次いだが、府は「設備面を検討中」として明言しなかった。

 

 メディア各紙の報道にもあるように、長年府民に親しまれてきた植物園の開発計画に対しては多くの府民が関心を寄せている。また、園芸関係者や専門家の間でも開発計画が植物園の学術的価値を損なわないかについて、深刻な懸念が広がっている。私も「なからぎの会」の要請に応えて署名呼びかけ人の1員になったが、そのときに書いたのが以下の一文である

 

歴史的、文化的、学術的価値の高い京都府立植物園の〝イベント広場化〟は許されない

日本最初の公立植物園であり1924年(大正13年)1月に開園した京都府立植物園は、「生きた植物の博物館」として国際的評価を得ている歴史的、文化的、学術的価値の高い植物園である。しかし、その植物園が存廃の危機に曝されたことが過去にあった。終戦直後、京都に進駐した米占領軍によって植物園が全面接収され、米軍家族宿舎(デペンデントハウス)の建設工事によって貴重な樹木や山野草などが根こそぎ破壊されたのである。『京都府立植物園誌』(1959年3月刊)は、1958年(昭和33年)末に接収が解除された当時の惨状を次のように記している。

 

「大典を記念して大正の初期に建設計画を立て、大正13年から有料開園となった京都植物園は、毎年整備を重ね全国でもその比を見ない立派な植物園に完成したのであるが、昭和21年についに進駐軍の接収するところとなった。それから10年余り進駐軍兵舎となり、昭和32年末に返還を受けるまで、植物園としての管理がなされていないので、いま荒涼とした植物園に臨み、復元の困難さを痛感している」

 

「家屋・道路等の突貫工事が始まったのは、昭和21年10月頃であり、営々30年にわたって生育した樹木は何等顧みられることなく伐採され、花壇、薬草園及び生態園等々も跡形もなくなってしまった。第1期工事は大体昭和22年4月に完了し、家屋には米軍家族が直ちに入居した。昭和22年6月から11月頃までが第2期工事であり、このときに東北隅の菊花壇、苗場、薬草園等々がブルドーザーの響きとともに一瞬にして消滅し、代わりに広い道路が完成したが、この道路はついに使用されずに終わった」

 

「宿舎の建設にともない、京都司令部アンダーソン教育部長らの進言にもかかわらず、残された貴重樹種も藪蚊の発生防止という名目で下枝を全部切り払われ、灌木のほとんどが除去された。また、池には強力な薬剤を投入して貴重な魚類を絶滅せしめ、後には干し上げたので池辺の水温を好む多数の植物は全滅した。病虫害防止用薬剤撒布による薬害は甚だしく、枯死する樹木が続出した」

 

対日講和条約が発効すれば、占領軍は撤退することがボッダム宣言に明記されていたにもかかわらず、米占領軍はサンフランシスコ講和条約調印(1951年9月)後も植物園に居座り続けた。周辺住民は、1953年に「植物園返還同盟」を結成して返還運動をスタートさせ、約3000人の署名を集めて蜷川知事に返還を強く要請した(都新聞1953年9月15日、夕刊京都9月16日)。日本植物園協会もアメリカ植物園協会宛に府立植物園の実情を訴え、接収解除への努力を重ねた(「府政だより資料版」194号・1972年2月1日発行)。京都府もこれに応え、政府特別調達庁に対して粘り強く接収解除の折衝を続けた。

 

1954年(昭和29年)4月30日、府立大学グランド部分が返還され、1957年(昭和32年)12月12日全面返還が実現した。政府特別調達庁は、国家財産となった米軍住宅とその付属施設を府がそっくり引き取ることを希望していた。しかし、蜷川知事は、「つわものどもの夢の跡はいっさい要らない。持って帰ってもらおう!」と拒否したという。「それは、文化施設を軍靴で踏みにじった者に対するやるかたない憤懣が吐かせた言葉であり、府民のすべてが心に思っていたことでもあった」と「府政だより資料版(195号)」(1972年3月1日発行)は結んでいる。

 

荒廃した植物園の再建は苦闘の連続だった。全面返還後、米軍建物の撤去などにほぼ1年を要し、工事跡の整備にはトラック1万台分の膨大な土の運搬が必要だった。定年退職後、その功績を称えて府立植物園初の「名誉園長」の称号を贈られた松谷茂氏は、著書『打って出る京都府立植物園~幾多の苦難を乗り越えて~』(淡交社2011年刊)の中で次のように語っている。

 

「返還された植物園の現状を府民に報告するため、昭和34年4月15日から12日間の無料公開を行った。アンケートを実施したところ、再開園に向けて大きな弾みとなる数多くの府民・市民から力強い応援の声をいただいた。『1日も早く開園せよ』『有料でよいから早く開園せよ』『公園化することなく純粋の植物園にせよ』...。大典記念京都植物園の『普通教育を基本とし、大自然に接して英気を養い、園内遊覧のうちに草木の名称、用途、食用植物、熱帯植物、有毒植物、特用植物(染料、工芸植物)、薬用植物及び園芸植物等の知識と天然の摂理一般を普及させ、加えて我が国植物学会各分野の学術研究に資する目的』とする崇高な理念を、府民・市民が忘れることなく後押ししてくれた格好だ」

 

「再開園にあたってのコンセプトは、『遊びの場ではなく、あくまでも自然観察を中心とする府民の憩いの場であり、単なる公園ではなく総合植物園であること』。この理念は、私が携わってきた15年間、決して揺らぐことなく押し進め、そして継承してきたつもりだ。また昭和34年11月、日本植物園協会の臨時総会が臨時公開中の当園で開催され、『京都植物園の復興』が決議された」

 

国民を苦難のどん底に陥れた太平洋戦争の終戦(敗戦)から四半世紀、この間、府民・市民と京都府がともに手を携えて再建してきた府立植物園が、いま心無い関係者の手によって再び存廃の危機に曝されようとしている。イベント開発をなりわいとする商業コンサルタントの甘言に乗って、歴史的、文化的、学術的価値の高い府立植物園が、ただ集まって楽しむだけの「イベント広場」にされようとしているのである。

 

20世紀の高度経済成長にともなう「開発ブーム」は、もはや過去の遺産となった。また、21世紀初頭に流行した「イベント開発」も時代遅れの遺物になりつつある。時代は、国連が2016年に提唱した〝持続可能な開発目標(SDGs)〟を実現する局面へ大きく変わろうとしている。SDGs(Sustainable Development Goals)は、世界の人々の暮らしにかかわる「未来のかたち」を提起したものであり、経済・社会・環境にまたがる17目標が互いに連関して全体の目標体系を形作っていて、政府、自治体、企業、コミュニティを横断する世界共通のキーワードとなりつつある。

 

SDGs17目標の中には、「教育の質と生涯教育」(目標4)、「持続可能な自然資源管理」(目標14、15)が掲げられている。比叡と北山をのぞみ、日本最初の親水河川である鴨川と一体化している比類ない自然環境は、まさにSDGsの理念を体現する世界の先行事例の府立植物園にふさわしい。府立植物園はまた、「生きた植物の博物館=生涯教育の場」として機能している最高の存在でもある。政府、自治体、企業、国民が総力を挙げてSDGsを達成するための努力を傾けている現在、その時代に逆行するような府立植物園の「イベント広場化」を絶対に許してはならない。占領軍支配のもとにあっても「植物園返還運動」を果敢に展開した府民・市民は、今回もまた国連〝持続可能な開発目標〟を掲げて、この歴史的暴挙をふたたび阻止し粉砕するだろう。