「表向き野党=社公民路線=非自民非共産」を標榜しながら、「責任野党=自公民路線=非共産」の役割を果たした公明党は、遂に細川連立政権の「補完与党」にたどり着いた、維新と野党再編の行方をめぐって(その28)

 言論出版妨害事件を通して田中角栄自民党幹事長と親交を深めた公明党は、京都府知事選における自公民候補の擁立によって「責任野党」としての立ち位置を明確にした。しかしその一方、「表向き野党=社公民路線=非自民非共産」を掲げて共産抜きの野党連合を目指すという二重作戦を一貫して展開したところに公明党の真骨頂があった。その到達点が、公明党が中心になって作った「80年代中道連合政権構想」すなわち「公民合意」(1979年)と「社公合意」(1980年)である。

 この2つの合意は、70年代の革新自治体の発展を支えてきた社会・共産の革新統一戦線を破棄し、共産を政権協議の対象から排除することを前提にして作られたものだった。社共を中心とする革新勢力の統一戦線は、「革新3目標」といわれる協定にもとづき、「安保条約に反対し、平和・中立の日本を実現する」、「憲法改悪に反対し、民主主義を守る」、「増税・福祉切捨てに反対し、国民生活を守る」の3目標を掲げていたが、公民・社公合意は共産を排除して「革新3目標」を破棄し、日米安保条約を堅持して自衛隊を容認する姿勢を示すなど、革新政党としての社会党の基本政策を根本から大転換させるものだった(当時、社会党は「ルビコン川を渡った」と評された)。

 これ以降、社共間での話し合いや共闘は行われなくなり、国政においては「共産を除く」国会運営が常態化し、地方では革新自治体が次々と覆され、共産以外の「オール与党」体制が広がった。かくて「社公民路線」はいつの間にか「自社公民路線」となり、「自公民路線」との区別がつかなくなった。「公民合意」に加えて「社公合意」が成立したことで、社公民など主要野党は共産を排除しながら、一方で自民との大連合も視野に入れた政権構想を公然と表明したことになる。

こうして公民・社公合意で自公民路線の基礎を固めた公明党は、80年代に入ると今度は「平和の党」の根幹である安保政策についても大きく舵を切った。「自民党に対抗」するはずの社公民路線を「自民党を補完」する自公民路線に吸収することに成功した「責任野党」の公明党は、もはや面舵(右方向への転換)を切っても大丈夫と確信があったのだろう。結党以来「違憲の疑いがある」としてきた自衛隊の存在を合憲と認め、日米安保体制を存続させる方向を確認し(1981年)、さらに90年代には自衛隊の海外派遣を認める「国際連合平和維持活動等に関する協力に関する法律」(PKО協力法)の制定に賛成した(1992年)。これで自民党との距離は一挙に縮まり、自衛隊の海外派遣を軸とする憲法9条のなし崩し的改憲を進める手筈が整った(これほどの基本政策の転換が党内で問題にならなかった原因と背景については後述)。

宮澤内閣の不信任可決による総辞職解散後、小沢一郎自民党幹事長の離脱と新政党の結成など一連の政変劇を経て成立した細川政権において公明党は初めて「(非自民)連立与党」の一翼となり、以降「補完与党」としての道を着実に歩み始めた。「補完与党」とは基本的に保守政権の一員ではあるが、まだ与党の主導権を握るまでに至らない少数政党のことだ。しかし長年の「責任野党」時代に磨いた得意のマヌーバー戦術によって、公明党は「水を得た魚」のように与党の中を泳ぎまわることになる。社会党、新政党、公明党日本新党など非自民8党の寄せ集め集団である細川政権を実質的に仕切ったのは、小沢一郎新生党代表幹事と市川雄一公明党書記長の「一・一ライン」であり、公明党は細川連立内閣ではじめて入閣を果たし(1993年)、羽田連立内閣にも入閣するなど(1994年)、「補完与党」の位置を確かなものにしていった。

そして「自社さ連立政権」の村山内閣の成立(1994年)によって一時下野したものの、1996年総選挙で社会党が壊滅的惨敗を喫した以降は、もはや利用価値のなくなった社会党を見捨てて自民党保守政権との本格的な連立を目指すようになった。それ以降は閣外に去った社会党を尻目に、公明党は「自自公連立政権」の小渕内閣(1999年)、「自公保連立政権」の森内閣(2000年)、小泉内閣(2001年)に連続入閣して保守政権の一角を不動のものにし、保守党が解散(2003年)してからというものは、ついに待望の「自公連立政権」に到達したというわけである。(つづく)