“木を見て森を見ない”神戸市長選の総括は不毛だ、神戸の旧革新勢力は市民に愛想を尽かされた(2)、ポスト堺市長選の政治分析(5)

 前回の拙ブログに対して幾つかのコメントが寄せられた。なかには「今回の共産党の行動は最善のもの」とする意見もあって、最後は「冷静な議論を望む」と結ばれていた。堺市長選に熱中して神戸市長選に参加しなかった私は選挙総括に参加する条件が乏しく、「批判だけではなく具体的な対案を示せ」というコメント氏の要求に対しては建設的な回答を用意できないかもしれない。それでも神戸市に少しは関わりのあった者のひとりとして、このブログを通して「冷静な議論」に参加することをお許しいただきたいと思う。

 今回の神戸市長選(前回も含めて)に関して私が強く感じることは、神戸の共産党をはじめとする革新勢力が“木を見て森を見ない”牢固とした体質から依然として抜けきれず、いったい何のために市長選を戦っているのかという“首長選挙の原点”を見失っていることである。端的に言えば、70人近い市会議員を選ぶ議員選挙と1人の首長を選ぶ市長選挙との区別がつかず、同じ論理と同じ手法で選挙戦を戦っているのである。

 周知のごとく日本の地方自治制度は、憲法第93条第2項の規定である「地方公共団体の長」と「議会の議員」を住民が直接選挙することに基礎を置いている。地方自治体は、執行機関の長と議事機関である議会の議員をそれぞれ住民が直接選挙で選出する2元代表制をとっており、執行機関と議会は独立・対等の関係に立ち、相互に緊張関係を保ちながら協力して自治体運営にあたる責任を有しているのである。

 主義主張を異にする政党が、それぞれの政策を掲げて争う市議会議員選挙はわかりやすい。国政政党であれ地域政党であれ各政党が政策を戦わせて選挙という市民の審判を受け、その結果が議会構成(議席数)に反映される仕組みになっている。不正選挙がなく、議会運営が公正に行われれば、有権者の声が市政に届く議会制民主主義が機能するのである。

 しかし、たったひとりの首長を選ぶ市長選挙はそうはいかない。ひとつの政党が首長選挙過半数の得票を獲得できるほどの圧倒的な勢力を持っている場合は、その政党の単独推薦によって市長が決まるといえる。でも有権者の政治意識や要求が多様化している現在、このような事態はまず考えらない以上、政党間の駆け引きや政策のすり合わせ(妥協)で首長候補者が決まり、選挙は共同推薦(支持)という形を取ることが多い。堺市長選ではこれに共産党の「勝手連的支援」という新たなカードまで加わったのだから、首長選挙も日進月歩しているわけだ。

 翻って神戸市政をみるとき、(超)長期間にわたって「オール与党=市役所一家体制」が形成され、共産党は一貫して「蚊帳の外=野党」に置かれる状態が続いてきた。したがって、神戸の共産党首長選挙のときも議員選挙のときも戦法を変える必要がまったくなく、ただ「唯一の野党」として「オール与党」と対決し、議会選挙のときも首長選挙のときも変わることなく「独自候補」を立てて批判を繰り返していればよかったのである。そしてこの長年にわたる政治的孤立状態が、神戸の共産党から柔軟な政治姿勢と政策能力を奪ってきたと私は考えている。

 だが、さすがの神戸市においても時間は無駄に経過しない。「オール与党=市役所一家体制」が朽ちるように内部崩壊を始めると、(極めて健全なことに)革新勢力でない一般市民からも批判の声が上がってきた。しかもその声は共産党支持者の数倍もあるのだから、もし革新勢力が本気で市役所一家体制を打破しようというのであれば、いかにしてこれらの批判勢力と協力関係を結んで市長選挙に勝利するかが最大の政治課題になるはずである。

 ところが不思議なことに、神戸の共産党は前回の市長選では共同候補の擁立から途中で離脱したばかりか、(独自では勝利する展望が全くない少数グループであるにもかかわらず)幹部自らが「独自候補」として突如立候補するという理解を越える行動に出た。背後には元市労連幹部の暗躍があったといわれるが、真相は闇のなかでわからない。そして僅差で現職市長が勝利し、共産党が市役所一家体制を維持する事実上の功労者になったわけだ。

 今回の市長選もまた共産党は最初から「独自候補」の擁立にこだわり、選挙協力の素振りも見せなかった。“木を見て森を見ない”とは、「独自候補=木」だけを見て、「市役所一家体制の打破=森」を見ないことを意味する。これでは共産党がいかに口先では神戸市政を批判しようとも、市役所一家体制を打破しようとする意思がないことを実体で示すことになる。言葉を換えて言えば、共産党が“市役所一家の別動隊”としての役割を果たしていることはもはや市民周知の事実なのである。

 前置きが随分長くなってしまったが、ここで改めてコメント氏に対する私の「批判だけではない具体的な対案」を示そう。それは、すでに大阪ダブル選挙や今回の堺市長選でも明らかなように、神戸の市役所一家体制を打破するためには“共産党が独自候補を立てない”ことである。大阪では相手候補(橋下維新)が極めて強力であるため、大阪の共産党は独自候補を立てなかった(降ろした)ばかりか、勝手連として反維新候補を応援した。そうしなければ、堺市長選では勝利できなかったからだ。

 しかし神戸の場合は、市役所一家候補がそれほど強力でもなく、またこれを批判する市民候補が大きな支持を集めている状況があるのだから、共産党は「自主投票」にしてただ選挙を眺めていればよかったのである。また市民候補の素性や政策が気に入らないのであれば、別に協力することも推薦・支持することも何ら必要がない。みんなの党の推薦を受けているとか、「隠れ維新」とかわざわざ騒ぎ立てなくても、“毒を以て毒を制する”といった大所高所の観点に立って見物していればよかったのである。そして市民候補が当選して市役所一家体制の解体が現実の課題になったときは、批判すべきは批判し、糺すべきは糺して、革新勢力としての存在意義を示せばよいのである。これが首長選挙というものに対する責任ある政党のとるべき態度であろう。

 だが今回の選挙中の共産党の態度は実に見苦しかった。市役所一家候補も市民候補も「どっちもどっち」といった批判を繰り返し、市役所一家体制の打破を願う市民の気持ちを逆なでした。その結果、痩せ細っていく固定票すら確保できず、阪神淡路大震災以降の6回の市長選の最低得票数・得票率を記録することになった。多数の無党派市民層の声援を受けて共産党が市役所一家候補と真正面から戦った1997年市長選においては得票数は22万5千票・45%にも達したのであるが、それが事実上の市役所一家の別働隊となった2009年市長選では6万2千票・16%、今回は4万7千票・10%までに激減したのである。

 10月27日の投開票日から今日で3日、この間、眼を皿のようにして『しんぶん赤旗』を精査しているが、総括らしい総括がいっこうにあらわれない。10月29日の紙面(近畿版)では、投開票日の夜に選挙事務所で敗北の挨拶をした公認候補の言葉を簡単に伝えただけで、しかもその紙面(字数)の扱いは兵庫県佐用町長選(同じく落選)の半分以下というものだった。このことは、共産党にとっては154万人の政令指定都市・神戸市長選の位置づけが、1万8千人の地方都市・佐用町長選にも及ばないほど小さなものであったことを問わず語りに物語っている。

 また念のため、共産党のホームページも開いてみたが、神戸市長選関係のニュースは10月26日を最後に更新されていず、勿論、選挙総括文書も掲載されていない。これでは「独自候補」として戦った候補者に対しても、また選挙戦で奮闘した善意の支持者にも対して失礼千万であり、とうてい政治的責任を果たしたとは言えない。今後どのような総括が行われるのか、それともこのまま「頬かぶり」のままでやり過ごすのか、神戸の共産党は政党としての厳しい説明責任を問われている。(つづく)