あとは野となれ山となれ!、(福田辞任解散劇、その1)

 長い間の夏休みで「つれづれ日記」も一緒に夏休みをした。読者のみなさまには、「ともづれ日記」に名前を変えろとお叱りを受けるかもしれない。言い訳をすると、今年の夏休みは、インドネシアの古都ジョグジャカルタでの震災復興ワークショップ、北海道夕張での地域福祉研究交流集会、そして長野戸狩高原でのゼミ合宿なとハード・スケジュールが相次ぎ、その準備や後始末に追われて日記を書く余裕がなかったからだ。

 しかしその間に、日本の政局は激動した。こともあろうに(果たせるかな)福田首相が9月1日に記者会見を開き、突然辞意を表明したのである。この日は夕張での調査日程を終えて函館の友人宅を訪問していたときだったが、そこで福田辞任の第一報を聞かされ、ホテルに飛んで帰って夜の9時半からの記者会見のテレビ実況にかじりついたというわけだ。

それにしても、この人物に見る「首相の座」の軽さはどうだろう。長野からのゼミ合宿の帰途、たまたま買った週刊朝日のグラビアには、さっそうと早足で歩く福田首相の写真の見出しに、「あとは野となれ山となれ、さよならだけが人生だ」とあった。解説には、「辞任会見の翌日、自民党本部に到着する福田康夫首相。すべてはもう“他人事”(9月2日)」と書かれていた。けだし名言だ。

安倍前首相のときもそうだったが、自民党の直面する政策矛盾の深刻さと世襲議員のこの脆さはどうだろう。事態を目の当たりにして出るのは嘆息ばかり、国民の誰しもがそう感じたことだろう。しかもこれほどの醜態を世界中にさらしながら、彼が「私は自分のことを客観的に見ることのできる人間だ」と大見得を切ったのには心底驚いた。せめても「敵ながらあっぱれ!」といった人物に一度でもいいからめぐり合いたいと心から思ったものだ。

それにしても、9月は大事件が起こる確率が高い。7年前の9月11日は、ハイジャックされたジエット旅客機2機が世界貿易センタービルに突っ込み、ブッシュ大統領が「テロとの戦い」を掲げてアフガン戦争とイラク戦争にのめり込む切っ掛けになった日だ。(昨年はニューヨークの現場、「グラウンド・ゼロ」で追悼式を見た)

また国内的にみると、3年前の9月11日は、小泉元首相が「郵政選挙」を仕組んで自公両党で衆議院の3分の2を超える議席数をかすめ取った歴史的な日だ。この日を契機にして、日本の政治手法は「劇場政治」へと一挙に転換した。まともな政策論争ができないまでの自公政治の矛盾の深まりのなかで、選択されたのがテレビをフルに活用する「劇場政治」だったのである。

それだけではない。1年前の9月12日は、安倍前首相が就任1年たらずで突然辞意を表明し、政権を投げ出した日なのだ。しかも国会の代表演説を目前にしての辞任表明だった。この世襲議員福田首相に負けず劣らず幼稚で無責任そのものの人物だ。体調に問題があったというが、本当の原因は「民主党の小沢代表と話をできなかった」からだという。

「話をする」とはどういう意味か。小泉構造改革でボロボロになった国民生活を建て直そうとすることなく、政策的には同根の民主党と政策提携をして、「改革路線」を続けるということだ。それが出来なくなったので、「辞める」ことになったというのが辞任の理由らしい。しかしこれでは与党も野党も存在しない「翼賛政治」でなければ、首相を続けられないことになる。議会民主主義も議会政治もあったものではない。

今回の福田辞任解散劇も安倍辞任劇とまったく同じ構図だから恐れ入る。小沢代表との大連立構想が御破算になった瞬間から、福田首相の政策選択肢はすべて消えてしまったのであろう。彼の小さな脳裏には、小泉構造改革の路線を変えようとか、変えられるとかいった発想はまるきりない。いわゆる「ねじれ国会」を乗り切るためには、彼には「政策変更」というカードはないのである。「手持ちのカード」は、小沢代表と話を着けることだけだ。それが御破算になったので、「客観的に判断」して辞任するというのである。

ことほどさように政策の手詰まり状態はなぜ生じたのであろうか。その背景には、政権与党である自民党のこれまでには見られないほどの徹底した財界への屈伏と従属がある。少なくとも「国民政党」と名乗って政権を維持してきた頃の自民党は、「バラマキ」といわれようと何といわれようと、地元の選挙地盤を維持するためには何がしかの予算を回してきたのである。それが小泉構造改革によって「血も涙もない」までにぶった切られることになった。

本来なら、ここで「保守政党」である自民党は地方を基盤にして頑張らなくてはならなかった。それが財界と提携したマスメディアに「抵抗勢力」として徹底総攻撃されるなかで、脆くも総崩れとなった。小泉元首相によって「刺客」として差し向けられた新自由主義者の「小泉チルドレン」に対して、地方を選挙地盤にしながら東京育ちの世襲議員のお坊ちゃん(お嬢ちゃん)たちは、もはや「地方の痛み」を自分の政治信条として戦うことができなかったのである。(続く)