新型インフルエンザ騒動記、(麻生辞任解散劇、その13)

 京都の大学の全学休校は今日で終わる。この1週間、何回か大学に行ってみたが、普段は学生で溢れているキャンパスが閑散としていた。受付の女性に聞くと、先生方は会議とかで来るが、学生の姿は全く見かけないという。私の研究室は、法科大学院の学生たちがいる建物なのだが、いつもは「不夜城」(彼・彼女たちは深夜も勉強している)なのに、これもまったく人気がない。丁寧なことに、守衛さんたちが教室に鍵を掛けてまわって、学生たちが入れないようにしているのだ。

 これは結果論かもしれないが、今回の新型インフルエンザ対応は、なんだか「つくりだされたリスク」のように思えてならない。国家がことある時に国民をどのようにコントロールするか、その政策実験をやったのではないかとの疑いが消えないからだ。国家が「一大事だ!」という時に、国民がどれだけ素直に国家の指示に従うのかを、まるで「テスト」されたような気がしてならないのである。

 その極めつきは、京都へ修学旅行に来たある中学校の生徒たちの行動だろう。これは実際にその生徒たちを乗せたタクシーの運転手さんから聞いた話だが、タクシーを借り切って市内の観光名所をまわるときに、生徒たちは「タクシーから一歩も外へ出てはいけない」と引率の先生から厳命されたという。運転手さんにも生徒たちをそのことを守らせるように、「お願いします」と強く言われたそうだ。

 「それじゃ昼ご飯はどうするの」、「トイレは」などいろんなことを聞いたら、昼ご飯は運転手さんがハンバーガーを買って車内の生徒たちに渡す、生徒たちは車内で食べる、トイレはさすがに代わってすることができないから、人気のない公衆便所を探す、ーーーー、ということだった。

 この話を聞いたとき、私は何とも言えない悲しい気持ちになった。折角京都に修学旅行に来て、タクシーで市内をぐるぐる回るだけで宿舎に帰るのだ。これでは「修学」でもなければ、「旅行」でもない。狭い車内に「監禁」されて、市内を「引き回された」だけのことである。中学生だから先生の命令には逆らえないだろうから、そんなことを言った先生たちはいったいどんな気持ちだったのだろう。

 きっと先生たちも生徒たちに楽しい修学旅行をさせたかったにちがいない。しかし先生たちは校長先生から指示された、あるいは校長先生は教育委員会から厳命されたので、その指示に従わざるを得なかったのではないか。そういえば、東京への修学旅行のために大阪駅に集合した生徒たちが、突然の中止を告げられたのも教育委員会の命令だった。その時には一斉に悲鳴が上がったというが、生徒たちは解散せざるを得なかった。

 今回の新型インフルエンザ騒動は、大阪の高校生たちがカナダへの研修旅行からの帰途、成田空港での検疫にひっかかって「留め置き」されたことから始まった。生徒たちと引率の先生は「水際作戦の実験台」のようになり、まるで「強毒性の病原菌の塊」のような扱いをされた。(少なくとも厚生労働省の連日の発表やマスメディアから受ける印象はそうだった)。物々しい検疫の風景が国民を震え上がらせ、「一大事!」との空気が一挙に全国に広がったのである。

 聞けば、その大阪の高校には、「なぜこんな時にカナダへ生徒を連れて行ったのか」、「現地で生徒にマスクをさせていなかったのは教員の重大な手落ちだ」、「校長や教員は責任を取れ」といった類の非難が集中したそうだ。それはいつもは自らが無責任発言の発生源になる橋下知事ですらが、「学校や生徒を傷つける行為はやめてほしい」と言わざるを得なかったほどのひどい状況だった。感染した生徒たちや先生の健康を気遣うのではなく、そのような事態に至った原因を学校に求め、「いったいどうするんだ!」といった調子の非難を浴びせたのである。

 このことは、ファッシズム体制下の国民心理や行動様式を想起させる。最初に強烈な危機意識を植え付けられると、人々は事態の全容を冷静に把握する目を失い、自らを守るためには身近な他人に疑いの目を向け、やがては身近な人を排除することによって、自分の身の安全を図ろうとする。ナチス時代の犠牲者の多くは、周辺にいる人たちの密告によって権力の手に引き渡された人たちだ。こんなことを感じたのは、これまではナチス支配を描いた映画や小説を通してくらいだったが、今回はそれが日本でも起こりうることを実感した。

 この間、この種の国民扇動すなわち「リスク・コントロール」が意識的に演出されている気配が濃厚だ。北朝鮮の「人口衛星」の発射実験のときもそのことを強く感じた。ソマリア沖の海賊事件を口実にした最近の自衛隊の海外派兵の実績づくりもそうだ。また一昨日の北朝鮮の核実験が一段とその雰囲気を高めるのは間違いない。こうして国民は「一大事」の連続演出によって、いわれのない不安感を抱かされ、「みんなで何とかしよう」というよりは、「政府になんとかしてほしい」という心理状態に追い込まれる。

 こんな不安定な心理状態のなかで行われる総選挙は、いったいどのような結果になるのか見当もつかない。私の選挙区の自民党のポスターは、候補予定者が麻生首相ではなく舛添厚労相とのツーショットの写真をでかでかと載せている。麻生首相よりも舛添厚労相の方が宣伝効果が高いと踏んでいるのである。もっとも宣伝効果が効きすぎて、麻生首相側は厚生労働省の分割案をぶちあげ、「舛添効果」を消そうという行動に出ている。分割によって「舛添政権」の芽を摘み、「国民生活省」や「社会保障省」といったいかにも国民向けの感じがする名称に変え、麻生人気の回復を図ろうとしているのである。

 WHO(世界保健機構)によれば、新型インフルエンザ対策ではっきりと予防効果が検証されているのは「手洗い」ぐらいであり、マスクの着用については「したほうがよい」程度の効果だとされている。しかしこの間の日本は、会社や学校の業務命令によってマスクの着用が強要され、マスクを着けていないと非難の目で見られるような事態が出現している。かって中国で「サーズ」が大流行した際、街頭風景は「マスク一色」になり、その後しばらくして西安市の大学に行った時も、この光景はまだ終わっていなかった。その時に感じたえも言われぬ不安が、いまは日本の身近な現実になっているのである。

 幸い明日から大学も再開され、学生たちに会えるのがうれしい。彼・彼女らのこの間の心理や行動をしっかりと聞いて、日本の若者たちがこの間の状況をどのように把握しているのかを確かめてみたい。