川内村は「脱原発」の復興計画をどのようにしてつくるのか、“帰村宣言”は現実のものとなり得るか(7)、福島原発周辺地域・自治体の行方をめぐって(その23)、震災1周年の東北地方を訪ねて(93)

 川内村の復興ビジョンに変化の兆しが見え始めたきっかけは、福島県が「脱原発」を掲げた『福島県復興ビジョン』(2011年8月)を公表してからのことだ。佐藤雄平知事自身も当初は原発に対する態度が必ずしも明確でなかったが、復興ビジョン検討委員会の討議が進むにつれて次第に「脱原発」の方向へ決意を固めていったものと思われる。

 福島県復興ビジョンの基本理念は、「原子力に依存しない、安全・安心で持続的に発展可能な社会づくり」「ふくしまを愛し、心を寄せるすべての人々の力を結集した復興」「誇りあるふるさと再生の実現」の3つであり、そこには「今回の原子力災害で最も深刻な被害を受けたふくしまの地においては、「脱原発」という考え方の下、原子力に依存しない社会を目指す」と明言されていた。

 画期的だったのは、これまで原発推進勢力の中心部隊だった県議会の主要会派が事故発生後「脱原発」に転向したことだ。福島県議会は2011年10月20日東京電力福島第1原発1〜6号機(大熊町双葉町)、第2原発1〜4号機(富岡町楢葉町)の全10基の廃炉を求める請願を採択したのである。これを受けて佐藤知事は、年内にまとめる県の復興計画に「国と東電に対して県内の原発10基すべての廃炉を求める」ことを明記すると述べ、「原子力に依存しない新生福島を創造するとの決断に至った」と語った(共同通信、2011年11月30日)。

 こうした福島県全体の動きもあったが、川内村を「脱原発」に向かわせる直接的なきっかけは、2011年10月末から11月上旬にかけて遠藤村長がチェルノブイリ民間調査団の被災地調査に参加したことだろう。遠藤氏はチェルノブイリ市内の記念公園に事故で消滅した自治体のプラカードが並んでいるのを見て、まるでそれらが「墓標」のように見えたのだと言う。このときから川内村の復興ビジョンは「脱原発」の方向へハンドルが切られたと言ってよいが、問題はその具体的な中身や方法がなかなか定まらないことだ。

 現時点では「第四次総合計画=復興計画」の素案が2013年1月中にまとめられ、3月定例議会に提出されることになっているが、その具体的な内容はまだ公表されていない。わずかに『福島第一原子力発電所事故に伴う川内村の状況と避難・帰村の経緯』(2012年11月)の「むすび」のなかの一節が参考になる程度だ。「むすび」は、行政が帰村してから半年が経過するにもかかわらず、村の再生と復興とりわけ帰村が思うように進まない状況を次のように分析している。

 「行政が帰村して半年経ちました。再生と復興への道のりは非常に厳しいものがあり、課題も山積しています。特に、住民の帰村です。郡山市などに避難したこともあって、一歩外に出れば病院や大型店舗があり便利さを肌で感じています。また仮設住宅や借上住宅など居住空間は家賃が発生していません。このようなことから、徐々にふる里に戻っている状況ではありますが、未だ37%台(半帰村)と低迷しています」

 「この理由の一つには、震災前までは自分の庭のように行き来していた双葉地方への交通が遮断されたことで(双葉地方のインフラの崩壊)、働く場所や高校通学、買い物など浜(富岡町大熊町など双葉地方)への通行ができなく、袋に入った鼠のようなもので出口がありません」

 「村が再生するためには、村民の皆さんの協力が是非とも必要になります。また双葉地方の再現も必要ですが、これには非常に温度差があって時間がかかりますので即効性がなく現時点では期待できません。このような状況から、当分の間、村内での生活空間のインフラ確保が重要課題となってきます。災害に強い村づくりをするためには、メリハリを持ちながら雇用を増やしながら居住空間や商業施設などインフラを確保(住宅の整備促進や宿泊施設の整備など)することが必要不可欠です」

 「◎雇用を確保しながら、住宅環境の整備をはじめ、道路整備・交通手段の確保、商店・事務所の再開と新たな共同店舗の整備、防犯・防火の徹底など生活再建のためのインフラを確立させながら、10年先、20年先の人口を3000人から5000人を目標といたします」

 帰村のための生活インフラ整備を当面の再生と復興の課題に掲げることは全く正しい。だが、その規模が3千人から5千人の人口を目標とするのはなぜなのか。最後の1節が「むすび」の結論である以上、そこには何らかの根拠があるはずだ。(つづく)