民意が進路を予測できない“台風の目”になりはじめた (名古屋トリプル選挙の衝撃、その1)

 どうやら、日本は“暴風域”に入ってきたようだ。2月6日の「名古屋トリプル選挙」の衝撃的な結果が、何よりもそのことを示している。大方の予測はついていたが、ここまで大差がつくとは思わなかった。統一地方選挙を目前にして、民意は急速に進路を予測できない“台風の目”に急成長しつつある。それは支配体制にとっても予想外のできごとだろう。

 今回の名古屋トリプル選挙は、どこからみても「あり得ない」ことの連続だった。市議会解散を要求する直接請求運動の「非成立」から「成立」への逆転、任期を残しての河村市長の「辞任」と「再立候補」、愛知県知事選をめぐる政党支持体制の「交錯」と「混乱」などなど、従来の地方選挙の常識を覆す出来事が次から次へと起こった。

 しかし、開票結果はいずれも河村側の勝利に終わった。それも単なる勝利ではない。“圧勝”だったことが今回のトリプル選挙の重要なポイントだ。市長選では河村あきら氏が69.8%、知事選では大村秀章氏が50.0%、市議会投票では解散請求が73.4%という驚異的な数字を叩き出した。しかも投票率が市長選と市議会投票では54%を越え、県知事選でも53%弱だというのだから、有権者の意思は明らかだといってよい。いったい何がこのような結果を導いたのか。

 私は、いまや民意が進路を予測できない“台風の目”に急成長しつつあることを実感している。その背景には、既成政党に対する国民の激しい失望感と抑えきれない憤りがある。とりわけ、自公体制からの脱却を掲げて「政権交代」を訴えた民主党政権が、鳩山内閣の失落と菅内閣の「第2自民党化」によって国民の期待を悉く裏切ってきたことがその根本原因だろう。民主党政権に対する強い失望感と憤りが、革新政党も含めて既成政党全体に対する激しい不信と批判に連動し転化している。これが今回のトリプル選挙の最大の特徴だ。

これまでなら、保守自治体への不満は革新勢力の伸長となってはね返り、革新自治体を生んだことだろう。だが民主党が第2自民党化し、共産党社民党が「取るに足らない存在」になってくると、有権者の行き場がなくなる。その極めつきが今回のトリプル選挙だった。この動きは、4月の統一地方選挙で一段とエスカレートするのではないか。

 既成政党に対する激しい不信と批判は、当然のことながら首長選挙だけでなく議員選挙にも向かう。これまで「オール与党体制」に胡坐(あぐら)をかいてきた議員は、有権者のさしたる批判を受けてこなかった。またマスメディアの監視も十分でなかった。任期中に一回も質問したことがない議員でさえも、後援会の日頃の手入れさえ怠らなければ、十分に再選できる政治風土がまだ存在していたのである。

 だが、それが今回のトリプル選挙では一斉に衆目の批判に曝されることになった。その仕掛け人が他ならぬ河村氏だ。河村氏は、地方自治を発展させるための本来の議会のあり方や議員の役割を何ら語ることなく、高額の議員報酬だけに攻撃の的を絞り、「庶民は税金で苦しんでいるのに、奴らは何もしないで税金をタダ取りしている」と訴えた。これは、議員活動を弱体化させることで地方自治を骨抜きし、首長主導の専制政治を実現しようとする河村氏一流の策略だ。

 市議会は、施政方針や予算など自治体運営の基本を審議し決定する地方自治の最前線だ。議員は有権者の意思と要求を担って審議に参加し、決定に加わる。そして日頃の議員活動を通して議会報告を有権者に届け、要求や意見を集約し、選挙時には政策を掲げて選挙戦を戦う。議員活動には議員自身の生活費や調査費・政策研究費が不可欠であり、議員の資質や能力が劣化すれば、首長や官僚主導で行政がコントロールされて市民不在となる。

 しかし、こんなまともな議論が今回のトリプル選挙ではまったく通用しなかった。オール与党体制に安住した議員に対する批判や憤りは、ミソクソの区別なく既成政党批判、議員批判となって世論を制圧した。今回のトリプル選挙の結果を見て、今後は河村氏のような劇場型(扇動型)政治家が跳梁跋扈する傾向は一層強まるに違いない。

名古屋トリプル選挙の結果が、真近に迫った統一地方選挙に与える影響は計り知れない。大阪では、橋下大阪府知事大阪市長選で「次の新たな一手」を打ち出す可能性が格段に高まったというべきだろう。また注目の東京都知事選では、思いもかけない劇場型(扇動型)政治家が出てくるかもしれない。まともな政策対決や選挙活動はもちろん基本だが、しかしそれだけで「勝てる」といった条件はもはや皆無だといってよい。河村・橋下といったこの種の人物に対抗するためには、やはりその時代にふさわしい選挙戦術が必要なのだ。(つづく)