渡司共産党候補の撤退で「大阪ダブル選挙」はどうなる、橋下主義(ハシズム=ファッシズム)は終焉のときを迎えた(その6)

前回の日記に対して、H.KAWAI氏(以下、K氏という)から貴重なコメントをいただいた。K氏からは、これまでも折々示唆に富むコメントをいただきながら、レスポンスできなかったことを改めてお詫びしたい。しかし、今回のK氏のコメントは、「大阪ダブル選挙」の核心にかかわる重要な指摘であり、また多くの革新支持者の率直な気持ちを代弁しているようにも思われるので、日記の形をとってお答えしようと思う。

ただ、私は渡司陣営の取った行動に関して詳しい経緯を知る立場になく、ただ「岡目八目」的な意見を述べるにすぎない。だが告示から1週間余りたった現在、このことによって従来にはなかった新しい選挙情勢が生まれていることも事実だ。「何が新しい選挙情勢なのか」―このことを分析することが「大阪ダブル選挙」の帰趨を占ううえでのカギになる。

結論から言うと、K氏が「大阪ダブル選挙」の構図を「民主vs独裁」ではなく「普通の保守vs過激な保守」だと見なしている点が、私と(決定的に)異なる点であり、かつ渡司候補が撤退した理由もそれにかかわっているように思える。K氏の見方は、「橋下はこれまで、過激な言動で良心的な人々からは「独裁者」と見られてきましたが、小泉首相と同じ煽動政治家、謀略政治家タイプの男なのだろうと思います」とのコメントの一節によくあらわれている。

私自身も最初は橋下氏を「トリックスター」と表現し、K氏と同じく「扇動家」・「お騒せ人間」の一種だと考えてきた。しかしその後の彼の言動や政治手法を追うと、そこには得体の知れない「ルサンチマン」(社会に対する憎悪・復讐の感情)が溢れていて、「この人物は何をしでかすかわからない」という不気味さを感じるようになったのだ。橋下氏には、弁護士時代にサラ金顧問としてカネ儲けに専心していたからか、カジノやバクチの世界に生きるヤクザや暴力団すなわち「アウトロー」の世界に通じる臭いがするからだ。

最近の週刊誌や月刊誌で盛んに報じられているように、橋下氏の身辺に漂う独特の雰囲気は、彼の不遇だった境遇と強く関係しているのであろう。そして、そのなかで育まれた「ルサンチマン」(社会に対する憎悪と復讐の念、私怨)が、政治家となったいま、歯止めの効かない「独裁願望」へと暴走し始めたのではないか。つまり、橋下氏のなかには「私怨の公怨化」が進み、「公怨=独裁願望」という構図が形成され始めたのであろう。橋下氏の「つぶやき」(ツウィッター)のなかにみられる、社会への激しい憎悪と敵対感情が何よりもそのことを示している。

一般的にいって、ルサンチマンにまみれる人は非常に受け身であり無力であって、常に強い欲求不満の状態にあるといわれる。いつも「何もできない自分」を嘆き、そんな自分に絶望している場合が多いのである。社会的弱者がルサンチマンから逃れられないのはそのためだろう。だがその一方、自分をそのような境遇に追い込んだ社会を敵視し、自分を正当化して復讐を誓うような場合も少なくない。それがハングリー精神となってあらわれる場合はまだしも、ただ反抗心のままだと「弱きを挫き、強きを助ける」世界に入っていくことになる。

政治は公共世界のものだ。これが私利・私欲・私怨で私物化されるようになると、そこには「マフィア」のような弱肉強食のアウトローの世界がはびこることになる。社会的弱者だった境遇から這い上がり、社会を見返すまではよいが、それが政治という公共世界で強者や独裁者の立場に転化すると、そこには「弱者を挫く」ことに喜びを覚えるような倒錯状態が出現しないとも限らない。

私は、橋下氏の掲げる府教育基本条例案職員基本条例案には、単なる競争原理主義の強要だけではなくして、弱肉強食の世界を是認する「反ヒューマニズム」すなわち“ファッシズム”の姿を見る。児童生徒や教員・職員をすべて格付けして「うち何パーセント」かを自動的に排除するなどという仕組みは、「排除」すること自体に目的があるのであって、強権による差別選別の世界をつくり出す以外の何物でもない。これではまるで罪もない人間を「生贄」にして、自分に服従しないものは「こうなる」と見せしめる“恐怖政治”そのものではないか。

前回の日記で、PTA幹部など大阪の保守中間層が先頭に立って反橋下の動きを強めていることを伝えたが、この動きは、K氏のいうような「橋下離れ」すなわち「何処の馬の骨だか分からぬような男が偉そうなことを言っていることへの拒否反応」のレベルではないことは確かだろう。そこに流れている広汎な「あれはあかん!」との感情は、「橋下は危険」といった思いと共通するものがあって、だからこそ「なんとかせなあかん」という行動になったのである。大げさにいえば、そこには“反ファッシズム闘争”の予兆がみられるということだ。

渡司共産党候補の撤退は、この良識ある大阪府民・市民の行動に応えるものであって、「大阪市民にとって必要なことは何か」(K氏)に焦点を当てた運動を展開するうえで避けて通れない選択だった、と私は評価する。そしてその効果は、すでに「新しい政治現象」として随所にあらわれてきている。一言でいえば、それは橋下候補の激しい焦りである。

橋下候補の選挙行動に密着取材しているメディア筋からは、最近になって彼の演説内容に大きな変化がみられるようになったとの声が聞こえてくる。それは、政策を語ることよりも「投票に行って下さい」と呼びかける(絶叫する)もので、まるで選挙管理委員会の広報活動のような様相を呈しているというのだ。

理由は二つある。ひとつは政策の中身に有権者がそれほどの関心を示さなくなったことだ。「なんだかわからへん」というのが街頭の雰囲気なので、彼自身もこれ以上演説しても効果なしと判断したのであろう。二つ目の理由は、「橋下包囲網」が形成されたので、橋下フアンにとにかく投票に行ってもらわないと危ないという危機意識が出てきたからだろう。先日もある地元自治会の行事会場に断りもなく突入して、行事進行などお構いなく手当たり次第に来場者に握手して回ったというが、その後の会場では「あれではあかんな」との声しきりだったらしい。(つづく)