大阪の(旧)中間層府民・市民が変わり始めた、橋下主義(ハシズム=ファッシズム)は終焉のときを迎えた(その5)

 11月14日からいよいよ「大阪ダブル選挙」が始まった。27日の投票日まで僅か2週間の短期決戦だ。この短い選挙期間で(ここ当分の)大阪の運命が決まると思うと、私ならずとも大概の人はゾッとするような身震いを覚えるのではないか。何をしでかすかわからない橋下候補や松井候補の演説を聞いて、大阪の人たちもだんだん不安に駆られてきているように感じるからだ。

 それにテレビ局の目線も最近はすこし変わってきた。これまで橋下氏のパフォーマンスを無条件で受け入れてきた各局が、それを「橋下流」とか「橋下手法」とか呼んで若干相対化するようになってきたのである。そうなると、今まで無批判に垂れ流してきた「橋下発言」が客観視されるようになる。テレビのキャスターやコメンテイターが、橋下発言について留保をつけるようになったのもそのひとつのあらわれだろう。

 転機は二つあった。ひとつは大阪維新の会の教育基本条例や職員基本条例のファッショ的本質が次第に多くの人に理解され始めたことだ。もうひとつは共産党が渡司候補を降ろして「橋下包囲網」をつくったことである。私自身も大阪の府立高校出身者なので大阪市内のいろんな会合に出るのだが、最近は「こんな人までが」と思うほど、保守・革新にかかわりなくいろんな人たちが「あれはあかん!」というようになってきた。

 これらの人たちに共通するのは、いずれもが大阪の地域社会に対して大きな影響力を持つ「中間層」の人たちだということだ。これまで大阪の中間層は「京都とは違う」といわれてきた。京都は大学や研究機関が多いせいか、中間層のなかに専門家や知識人の占める割合がけっこう多い。いわゆる「新中間層」の色彩が強いのである。また店や工場の経営者の人たちも、さまざまな交流の機会を通してモダンなセンスを身に付けている人たちが多い。

 これに対して大阪の中間層は、伝統的な「旧中間層」の性格が濃いといわれてきた。いわゆる商売人仲間の付き合いを通して育まれる「ナニワのど根性」とか、「義理と人情」や「阪神タイガース虎キチ)」とかの世界で通用するキャラクターだ。こんな人たちが芸能人やタレント出身の知事を選び、国会議員を何度もトップ当選させてきた。だから旧中間層には「橋下フアン」が多かったのである。

 ところが転機(異変というべきか)は、大阪の小中高校PTA幹部が一斉に「教育基本条例の撤回」を求めて声を上げたときから始まった。公立学校のPTAといえば、どこの地域でも中間層を代表する人たちが幹部を構成しているのが普通だ。そんな人たちが揃いもそろって「あれはあかん!」といったのである。そしてその声に励まされて、教員の間でも管理職を含めて教育基本条例反対の動きが一挙に盛り上がった。先生と父兄の間で活発な意見の交流が始まり、その恐るべきファッショ的本質が明らかになってきたのである。

 私は、これまで各地の自治首長選挙を基本的には「保守対革新」の構図で分析してきた。しかし今度の「大阪ダブル選挙」は少し様子が違うように思う。それは、大阪の中核である広汎な保守的中間層のなかから、大阪維新の会に対する不安と懸念が表面化し、それが次第に大きな潮流に成長していくような気配が感じられるからだ。いわば「保守対革新」ではなく「民主主義対ハシズム」の構図が徐々に浮かび上がってきているように思えるのである。

目下のところ、それはまだ選挙の行方を左右するだけの自覚的な動きにはなっていないし、その勢いにも達していない。大阪にはその日の暮らしに精一杯の庶民が沢山いて、新聞を読む習慣のない(テレビだけの)生活の広がりも大きい。教育基本条例について関心を持ち、自分たちの子どもを取り巻く教育環境に思いを馳せることのできる人たちの輪はまだ限られている。

だが、大阪の保守的中間層がハシズムに対して立ちあがったことの意義はいくら強調してもしすぎることはない。それは1970年代の公害問題の解決を求めて黒田知事を実現させた当時の社会情勢を思い起こさせる。「公害知事さんさようなら」「憲法知事さんこんにちは」を合言葉に、「右も左もない」広汎な府民・市民が立ちあがり、大阪万博の成功で絶頂期にあった佐藤知事の当選を阻んだのである。

公害は人間の身体を蝕む。だから、住民が健康であり続けるためには公害問題を解決し、公害を大阪から無くさなければならない。これが当時の大阪府民・市民の偽らざる気持ちだった。橋下教育基本条例は子どもたちの精神を蝕む。子どもたちが健やかに育つためには、ハシズムを大阪から追放しなければならない。こんな気持ちをオジサン・オバサンの世界にどう広げるかが、これからの2週間の勝負になる。

次回の日記は、もうひとつの転機となった渡司候補撤退の政治的波紋を分析したい。(つづく)