2014年はどんな年になるのだろう、大和盆地を歩いて考えたこと、新春雑感(その1)

 今年の正月三が日は例年になく好天に恵まれた。京都の冬は厳しいが、それでもこんな陽ざしを浴びると何となく出かけたくなる。暮れに風邪をひいたので遠出はできないが、歩くのが趣味なので(人込みを避けて)出歩くのが楽しみなのだ。私の実家は奈良・飛鳥の近くにあり、大和王朝と親交のあった朝鮮・百済王朝からの渡来人が定住した土地だという。だから地名や遺跡にもそれらしきものが多く、小さい時から大和三山二上山の見える風景になじんできた。小学校の遠足の行き先は耳成山畝傍山などが定番で、「春の小川」を歌いながら一日中歩きに歩くのである。

 先生たちも土地の人が多かった。中学校の社会科の先生は飛鳥高松塚の発見者、網干善教先生だった。網干先生は明日香村の生まれ、名前が示す如く石舞台古墳の近くのお寺の跡継ぎで、旧制中学の頃から発掘調査に参加した考古学少年だったらしい。眉毛が濃く、黒縁の眼鏡をかけた文字通りの熱血教師そのものだった。授業は社会科とはいいながらまるで歴史の授業のようで、飛鳥にもよく連れて行ってもらった。先生が仏教大学を出てから龍谷大学史学科の大学院に入るまでの数年間、しばらく中学校で教鞭を取られていた頃のことだ。

 中学校の先生には思い出のある先生が多い。合唱部に所属していた私にとっての憧れの先生は棚田先生だった。棚田先生は大学を出たばかりの美しい音楽の先生で、全校生徒の注目の的だった。その棚田先生が網干先生と結婚されたと聞いたのは卒業してからのことだ(網干先生にはライバルもいたらしい)。網干先生は亡くなられて久しいが、奥様になられた棚田先生は健やかで御存命だと聞く。

 大学で建築学科に進学した私は、建築史の講義の一環として京都や奈良の古建築見学の機会を与えられた。建築史の教授陣のなかには文化勲章を授与された福山敏夫先生もおられ、日頃から国宝や重要文化財の修理や復元の指導に当たられている先生たちに引率されて行くのだから、どんな場所でもフリーパスで入れた。桂離宮修学院離宮などの皇室ゆかりの建築もあれば、西本願寺醍醐寺仁和寺東大寺薬師寺唐招提寺などの名刹も数多くあった。でも現在と違って当時は境内や庭園が荒れ、建築物の維持修繕もままならない時代だった。

 そんなことで通常は初詣といえば神社と相場が決まっているが、私は人込みを避けて奈良(西の京、斑鳩、飛鳥など)に行くのが通例になっている。京都には全国に知られた初詣の場所が沢山ある。正月には3百万人を超える参詣者が集まる伏見稲荷は自宅から徒歩圏にあるが、寄りついたことがない(静かな季節にはよく行く)。また平安神宮であれ八坂神社・松尾大社であれ、とにかく人が物凄く多い。伊勢神宮春日大社にも行ったことはあるが、参拝の大行列に恐れをなして以降は滅多に近づかなくなった。田舎生れの遺伝子がそうさせるのか、私は三々五々の参拝が何よりも好きなのである。

 だが、奈良の寺院と言っても性格が恐ろしく違う。たとえば地理的には隣接しているが、薬師寺唐招提寺の場合がそうだ。薬師寺は創建当初の建物は東塔しか残っていない。しかし現在は金堂、講堂、西塔をはじめ回廊などほとんどの建物が再建されている。おまけに平山郁夫の壁画を収蔵した展示館も新設されている。境内一帯が華やかな雰囲気で溢れていて、中国や韓国の観光客などには大変人気があるという。でも何回か初詣に行くたびに、どことなくその雰囲気になじめなくなってきたのはなぜか。

 些細なことだといわれればそうに違いないが、薬師寺には正月の縁起物として授与される(販売される)有名な「吉祥天熊手」という竹細工の小さな熊手がある。一年中の無事と幸運をかき集めるための縁起物として熊手が授与されるのは、全国どこの神社でもあることでそれほど珍しくはないが、薬師寺の場合は正月にだけ開扉される国宝吉祥天女像の絵柄を摸した木札が付けられているのが特徴だ。その木札から何時の頃からか年号が消えたのである。

 大量の参拝客(観光客)に縁起物を授与(販売)するには、大量生産してストックし、その都度売りだす方が効率的だ。寺院側にすれば、年号が記されていないので売れ残っても心配ない。来年に回せばよいのだから廃棄処分にする必要もなく、省資源の点からは好ましいと言えるのかもしれない。しかし初詣のひとたちは、新しい年の象徴として縁起物を授与されることを信じて疑わない。それが昨年の「売れ残り」だと知ったら、果たして授与されることを望むだろうか。

 縁起物の授与所(販売所)の横には、昨年のお札を回収する場所がある。1年の無事と幸運が叶えられたことに感謝した初詣者がそこにお札を返し、改まった気持ちでまた新しいお札を買うのである。縁起物は大量生産になじまない。信仰と崇敬のシンボルであるお札にはせめても年号を入れて、新しい年にふさわしい輝きを見せてほしいと思う。

 この点で対照的なのが唐招提寺だ。唐招提寺は行くたびに新しい感動を与えてくれる。私たちが古建築の勉強に行った昭和30年代の唐招提寺の境内は荒れに荒れていた。鑑真和上像も拝観したが坐像の据えられている建物の老朽化がひどかった。しかし大屋根の大修理が行われる頃から境内は目に見えてきれいになり、その気品ある環境と雰囲気が再び戻ってきた。今年の初詣はとくに清清(すがすが)しかった。土の道が美しく掃き清められ、苔の緑が艶やかだった。大屋根が創建当初の姿に復元され、鑑真和上のお身代わり像(レプリカ)が作られて元の場所の開山堂に据えられた。

 唐招提寺の縁起物はとくにない。稲藁の束に竹串で挟んだ小さな開運のお札が刺されているだけだ。年末にお坊さんたちが6千個ほど手作りをして元旦に本堂の前に置き、参拝者がそれをただいただいて帰るだけのことだ。しかしそれがどれだけ小さなお札であって、満たされるものがこれほど大きいのはなぜか。そう思って周囲を振り返ってみたが、三々五々訪れた参詣者の表情にも同じものが感じられた。

 これは私の独り善がりかもしれないが、薬師寺唐招提寺の参詣者の歩く速さが明らかに違うのだ。団体と個人の違いがあるのかもしれない。でも同じ個人であってもやはり歩く速さが違うのだ。ゆっくりと歩き、周りの空気を感じ、息を深く吸い、歴史のゆたかさを肌で吸収するーーー。私も含めて唐招提寺の参詣者の多くは、5度の遭難を乗り越えて来日を果たした失明の中国の高僧に思いを馳せ、平和の尊さと国際交流の大切さを噛み締めていたのではないか。

 願わくば、安倍首相に訴えたい。貴方の来るべきは唐招提寺であって靖国神社ではないと。そして心を澄まして国際交流の歴史と平和の尊さを噛み締めてほしいと。