結党50年、公明党は「表向き野党」→「責任野党」→「補完与党」→「責任与党」の道をたどって保守与党化を完了した、福島知事選、沖縄知事選ではその「真価」が試される、維新と野党再編の行方をめぐって(その34)

 つい先日発行された『ねっとわーく京都』2014年9月号で、私は「結党50年、公明党の保守与党化がついに完了した〜集団的自衛権の行使容認が示すもの〜」という長文の連載コラムを書いた。最初はタイトルを「公明党の変節の軌跡」とでもしようと思って書き始めたのだが、しかし書いているうちに公明党は決して「変節」したのではなく、常に「一貫した」路線をたどってきたことを確信したのである。そうなると、集団的自衛権の行使容認に(率先して)踏み切った現在の公明党こそが「本当の姿」なのであって、これまでの公明党は世を忍ぶ「仮の姿」か、あるいは私たちの「美しい誤解」によるものか、そのどちらかだと言うことになる。

興味のある方は『ねっとわーく京都』を読んでほしいが、公明党はこの50年の間に「表向き野党」→「責任野党」→「補完与党」→「責任与党」の道をたどって保守与党化を完了した――、と言うのが私の結論である。これまでの公明党の行動が分かりにくかったのは、私たちが「野党」という言葉に騙されていたからであって、その実体を正確に把握していなかったからだ。だが「野党」にもいろいろある。政権与党の政策に反対であるため批判的立場を明らかにし、国民に訴えて与党に対決するという本来の野党もあれば、与党になれないために当分は野党席に座って与党入りを待っている「野党」もいる。こうした見方からすれば、公明党は結党以来、常に「与党願望の野党」としての道を歩んできたといえる。公明党の軌跡を「表向き野党」(1961〜1969年)→「責任野党」(1969〜1993年)→「補完与党」(1993〜2012年)→「責任与党」(2012年〜現在に至る)の4段階に分けてそれぞれの特徴を解説しよう。

まず「表向き野党」とは、政権与党に近づきたいとの「与党願望」を持ちながら、相手にされないために「表向き野党」の体を装い、常に「与党入り」の機会をうかがっている野党のことだ。つまり政権与党に対決する政策を基本的に掲げることなく、また掲げたとしても上辺だけのことで本気で実行する意思がなく、その時々の政局に応じてカメレオンの如く政策や態度を変更する野党のことである。公明党に即して言えば、「表向き野党」の時代は公明政治連盟の発足(1961年)から言論出版妨害事件(1969年)に至る8年間がこれに当たる。

次に「責任野党」とは、今年の国会施政方針演説で安倍首相が使った政界用語である。本来の意味の責任野党は、政府与党に対して批判すべきは批判し、政策の対案を示して堂々と論戦する野党のことを云うが、しかし安倍首相のいう「責任野党」はそうではない。憲法改正特定秘密保護法の制定、TPPや原発再稼動の推進など政府与党の政策に協力する野党だけが「責任野党」(翼賛野党)として認知されるのであり、それ以外の野党とは政策協議にはまともに応じないということなのである。公明党は、田中自民党幹事長に言論出版妨害事件(1969年)の「揉み消し」を依頼することと引き換えに、政府与党(自民党)の政策実現に協力する「責任野党」の役割を自ら進んで引き受け、以降、細川連立内閣(1993年)に「補完与党」として参加するまで20年余の長きにわたってその役割を忠実に果たした。

「補完与党」とは基本的に保守政権の一員ではあるが、まだ与党の主導権を握るまでに至らない少数政党のことだ。公明党細川政権(1993年)において初めて「非自民連立与党」の一翼となり、以降「補完与党」としての道を着実に歩み始めた。そして「自社さ連立政権」の村山内閣の成立(1994年)によって一時下野したものの、1996年総選挙で社会党が壊滅的惨敗を喫した以降は、もはや利用価値のなくなった社会党を見捨てて自民党保守政権との本格的な連立を目指すようになった。それ以降は閣外に去った社会党を尻目に、公明党は「自自公連立政権」の小渕内閣(1999年)、「自公保連立政権」の森内閣(2000年)、小泉内閣(2001年)に連続入閣して保守政権の一角を不動のものにし、保守党が解散(2003年)してからというものは、ついに待望の「自公連立政権」に到達したというわけである。

自民党公明党の2党(だけ)からなる保守連立政権は、小泉内閣の半ば(2003年)から始まり、小泉政権以降は第1次安倍内閣(2006年)、福田内閣(2007年)、麻生内閣(2008年)と毎年の如く首相は替わったが、これを支える自公連立の枠組みは微動だにしなかった。この10数年間、公明党は「補完与党」として現世利益(与党利益)を満喫し、その見返りとして自民党への選挙協力を惜しまなかった。公明党はまた「周辺事態法」(1999年)、「イラク特措法」(2003年)を自民党と共同提案して成立させた。「補完与党」になってから新しく決定された公明党綱領(1994年)において憲法9条は姿を消し(憲法の1字もない)、代わって「世界に貢献する日本」が麗々しく掲げられた。

2012年総選挙で第2次安倍内閣の与党に返り咲いた公明党は、これまでの「補完与党」から「責任与党」へ一大変貌を遂げた。「責任与党」とは連立政権を組む与党間において共同責任を負う政党のことであり、「補完与党」よりも一段グレードアップした役割を果たす政党のことである。その政治的契機になったのは、公明党が進んで海外での武力行使を可能にする集団的自衛権を容認し、安倍内閣解釈改憲に対して先導的役割を買って出たことだ。安倍政権が当初狙った憲法9条改正のための憲法96条の改正、すなわち国会発議条件を変えて改憲のハードルを下げるという企みが失敗に終わり、1内閣の閣議決定集団的自衛権の行使容認に関する解釈改憲に踏み切ることに戦略が変更され、その「先導役=露払い」の役を公明党は率先して果たしたのである。

「責任与党」としての姿を現した公明党は、これから地方首長戦や統一地方選を通して国民の審判を受けることになる。集団的自衛権閣議決定後の7月13日に行われた滋賀知事選では、公明党創価学会も組織を挙げて選挙戦を戦ったにもかかわらず、「当選確実」といわれた自公候補が落選した。敗因は公明支持層の自公連立政権離れであり、無党派層の「反自公」投票行動だったといわれる。

次の関門は、10月26日の福島知事選、11月16日の沖縄知事選だ。自民党は福島では前日銀福島支店長を立てるというが、まだ政策は発表されていない。もし安倍政権が福島原発の前面廃炉を掲げる自民党県連に同調すれば与党間では対立は生じないが、福島第2原発の再稼動にこだわるときは公明党がどういう態度をとるかが問われる。また沖縄では、辺野古移設推進に豹変した仲居真知事を押すか押さないかが焦点になる。今年1月の名護市長選のように敗色が濃いときは「自主投票」という名目で逃げることも考えられるが、集団的自衛権容認の閣議決定に加わった以上、今度は「逃げる」わけにはいかないだろう。いずれにしても「責任与党」としての公明党の真価が問われる季節がやってくる。まるで沖縄と本土を縦断した今度の2014年11号台風のように。(つづく)