大阪ダブル選挙は「維新の党」の分裂で始まり、「橋下新党=おおさか維新の会」の不発で終わるだろう、「橋下流」攪乱政治は終焉の時を迎えた、大阪ダブル選挙の行方を考える(その1)

11月22日の「大阪ダブル選挙」が迫ってきた。府知事選、大阪市長選とも維新vs反維新の2極対立の構図は固まりつつあるが、一方の維新側は内紛が続いて事前運動もままならないようだ。昨日、今日のニュースでは、政党交付金の「分け前」をめぐって大阪系と反大阪系の対立が泥沼状態になり、10月15日には反大阪系執行部が新党合流見込みの大阪系162人(国会議員、地方議員、地方首長など)の除籍処分を決定するという荒療治に発展した(朝日新聞2015年10月15日)。

これに先立ち、大阪系は橋下新党の結党大会を予定する10月24日に維新の党の臨時党大会を開き、新執行部の下で「分党」を決定すべきだと主張している。5月に辞任した江田代表の任期は9月末までであり、松野代表がそれを超えて党代表に居座るのは正当性がなく、臨時党大会で新執行部を選出すべきだというのである。党大会が開かれれば地方議員も参加するので大阪系が多数になり、大阪系主導の新執行部の下で「分党」を決定し、政党交付金を「山分け」することができるからだ。現執行部による大阪系大量除籍の措置は、その策動を未然に防ぐためのものだといわれる(同上)。

今回の維新の党の分裂のきっかけになったのは、言うまでもなく安保国会中の橋下・松井両氏の突然の離党と新党結成の表明だった。安保国会では「トロイの馬」よろしく野党分断の役割を果たすと期待されていた維新の党(松野代表)が、首相官邸の思惑から外れて民主党との連携を強めるという方向に舵を切ったことから、橋下・松井両氏が離党・新党結成表明という強硬手段に打って出たのである。しかし、残る大阪系国会議員は執行部を反大阪系に握られて身動きができなくなり、安保法案の賛成も安倍内閣不信任決議案の反対もできなかった。安保法案に賛成し、安倍内閣不信任案に反対すれば、直ちに除名されて「分党」ができなくなり、政党交付金の「分け前」を受け取れなくなることを恐れたからだ。言い換えれば、「金欲しさ」に思うような行動がとれず、水面下で交渉を続けたものの、結局は分裂するほかなかったのである。
 
もともと維新の党の分裂は予想されていなかった。橋下・松井両氏は大阪系で執行部を握るべく、10月1日告示、11月1日投票の党代表選の準備を進めていたのである。党代表選は、国会議員・地方議員・一般党員が同じ「1人1票」の方式で代表選に参加できるのが売りで、維新の党のホームぺージは「代表選2015 史上初、一人一票の代表選へ!」と謳い、記者会見用の壁幕にもそのコピーが麗々しく描かれていた。党費は年間2千円、8月31日までに登録して党員になれば選挙権が得られるとして全国的に党員を募り、新規党員は「1万人以上」に達したという。ところが一方で大々的に党員を募りながら、その裏で橋下・松井両氏が8月27日に突如離党し、28、29日には新党結成を表明するという恥知らずの行為に出た。「党費を返せ」との抗議が殺到したのも無理はない(朝日新聞2015年9月2日)。

今回の離党・分裂劇すなわち「橋下新党騒動」は、橋下氏らが新党結成を自らの権謀術数の手段にしていることを赤裸々に示している。維新の党代表選のさなかに(それも自分が難癖をつけて投票規定を変えさせた挙句)、代表選を足蹴にして自分たちだけでさっさと離党したのもそうだった。また大阪ダブル選挙に勝利するためには「新党結成」がニュースとなると見るや、枚方市長選や東大阪市議選で早速その宣伝効果を試して分裂に踏み切った。いずれも並みの人間にはできることではないが、橋下氏が「政党とはつくっては壊し、壊してはつくる繰り返し」と嘯いているのだから、これが彼の持前なのだろう。

いまから思い出すのもおぞましいが、橋下氏が一方で「2万パーセントない!」と断言しながら、その舌の根が乾かぬうちに大阪府知事選に出馬した当時から、彼の本性(素性)はすでに明らかだった。私は橋下氏が大阪府知事に立候補したときから7年近くにわたって彼を系統的に観察してきたが、橋下氏の本質は、自らの野望のためには手段を選ばない骨の髄までの「右翼ポピュリスト」(社会進歩に反動的な立場を取り、人間の劣情を煽って支持を獲得する大衆迎合主義者)であり、その場限りの舌先三寸で市民大衆(マスメディアさえも)を惑わせる稀代の「デマゴーグ」(謀略宣伝家)だということだ。

橋下氏は、これまでそのときの政治情勢に応じてカメレオンのごとく七変化し、ことあるごとに変相や擬態を繰り返して「権力の階段」を駆け上ってきた。地域政党大阪維新の会」(2010年)を立ち上げ、「日本維新の会」(2012年)を結党し、分党後は「維新の党」(2014年)の最高顧問に就き、そして現在は「維新の党」を離党してこの10月に発足する予定の「橋下新党=おおさか維新の会」の準備に余念がない。変転目まぐるしいというべきか、変節きわまりないというべきか。

わずか5年の間に結党・合併・分党・離党などを繰り返す橋下氏に対してはいまさらまともな政治哲学や政党理念など望むべくもないが、さすがに今回の離党・分裂劇だけはマスメディアからも大いに顰蹙(ひんしゅく)を買ったとみえる。「維新の党、党の体をなしていない」(毎日社説、2015年8月28日)、「橋下氏維新離党、何とも分かりづらい内紛だ」(読売社説、同)、「橋下新党構想、あまりに勝手な分裂劇」(朝日社説、9月1日)、「政党の離合集散は政策本位で」(日経社説、同)など表現の違いはあれ、各紙が批判していることは共通している。その結果が政党交付金の「山分け」をめぐる醜い分裂劇に発展したのだから、「橋下新党=おおさか維新の会」の前途は決して明るくない。

かっては自民・民主の2大政党制の弊害を打破するとしてマスメディアの脚光を浴びた「橋下維新=第3局の旗手」は、この間の分裂の繰り返しでもはや自らの野望のためには手段を選ばない「変節政党」でしかないことが有権者の間に広く知れ渡った。橋下・松井両氏が今後如何なるパフォーマンスを駆使し、如何なるデマゴギーを撒き散らそうとも、この「変節政党」のイメージは付いて離れることがないだろう。また、「大阪維新の会」であれ「おおさか維新の会」であれ、こんな名称が大阪以外で通用すると橋下氏らが思っていることが不思議でならない。京都で「大阪、おおさか」の名前を冠した政党が果たして支持されるのかどうかは、京都で1日でも暮らせばいやと言うほどわかるはずだ。また兵庫でもかって大阪維新の会の幹部が兵庫県下の首長選挙に乗り込んだとき、維新候補が「総スカン」を食って惨敗したことはいまだ記憶に新しい。

9月5日に維新の党所属の近畿地方議員の代表者が集まった「関西維新の会」設立準備会の会合が開かれた。だがこの席上で出た意見は、悉く党名の矛盾に関するものだった。神戸市議は「大阪の名前で神戸市民が納得するわけがない。橋下さんらは一体何を考えているのか」とぼやき、京都市議は「橋下氏にはシンパシーを感じているが、党名は考え直してほしい。京都で維新を支持してくれた人たちが離れていく」と困惑を隠さない。また兵庫県下のある議員は「『党は分裂しない』と言った翌日には新党結成・・・。何がなんだかわからない」と告白した(産経新聞、2015年9月6日)。

これら「関西維新の会」設立準備会の議論は、今回の分裂劇でさらに混迷を深めていくだろう。京都では維新の党府総支部が10月13日に会議を開き、分裂が決定的な党に残留するか、「おおさか維新の会」に参加するかどうかを協議したが、結果は党本部に対して一連の分裂騒動を地方組織に説明する臨時党大会開催を求めながら、大阪系、反大阪系の動きを見守ることに決めた。出席者の一人は「党本部も橋下氏側も地方議員に状況説明をするべきで、どちらもどちらだ。最終的には11月の(大阪府知事、市長の)ダブル選の結果次第だ」と語ったという(毎日新聞2015年10月15日)。

要するに、大阪以外の維新地方議員はすべて「様子見」なのであり、「おおさか維新の会」に付いていくとは誰も言っていない。「大阪ダブル選挙」の勝利のために急きょ結成する「おおさか維新の会」が国政政党ではなく地域政党であり、有体に言えば「橋下私党」であることは誰からも見透かされているからだ。大阪ダブル選挙は「維新の党」の分裂で始まり、「橋下新党=おおさか維新の会」の不発で終わるだろう。「橋下流」攪乱政治は終焉の時を迎えたというのが、私の見立てである。