“権力への挑戦者”から“権力者”への変貌、大阪維新の会内部資料が暴露した橋下維新の実体(その1)、ポスト堺市長選の政治分析(10)

 今日2013年11月27日は、橋下維新が大阪ダブル選挙で圧勝してからちょうど2年目に当たる。私は、2010年4月から2012年8月までの期間を橋下維新の「急上昇期」(第2期)と分類している。「急上昇期」は、2010年4月の地域政党大阪維新の会」の結成を契機にして怒涛のような“維新ブーム”が起り、2011年4月の統一地方選と11月の知事・大阪市長ダブル選挙で圧勝して、2011年9月総選挙における国政進出の準備を終えた2年有余の期間である。

 この間の維新はまさに“破竹の勢い”だった。大阪維新大阪府議会で単独過半数(57/109議席、126万8千票、41%)を制し、大阪市議会では第1党(33/86議席、33万7千票、33%)、堺市議会でも第1党(13/52議席、9万3千票、28%)に躍進した。なかでも大阪府議選では、維新が62選挙区中60選挙区で候補者を立て、52選挙区でトップ当選を果たして57人を当選させた。実に当選率95%という驚異的な数字だ。

 2011年11月には、“ダブル選挙”を仕掛けた橋下氏が知事から大阪市長に鞍替え当選し、松井氏が知事に同時当選するという離れ業を演じた。松井氏の得票数は、橋下氏の初当選を上回る200万6千票(55%)もの大量得票となり、橋下氏の得票数は、前回市長選の平松氏得票数36万7千票の倍以上の75万1千票(59%)に達した。大阪はまさに橋下維新の“独壇場”と化したのである。

 しかしあれから2年、私たちの前にある橋下維新にはもはや「昔の面影」はない。今年9月の堺市長選、11月の岸和田市長選に連戦連敗し、国政では安倍政権の特定秘密保護法案に加担して、「このままでは自民党の『補完勢力』どころか『翼賛勢力』と言われても仕方あるまい」(朝日新聞社説、2013年22日)とまで名指しで言われる始末だ。また昨日11月26日、秘密保護法案を与党が強行採決した国会審議を見ていたが、そのなかで維新代表の山田宏議員が恥ずかしげもなく「安倍首相を信頼している」(NHKテレビ、国会中継)と持ち上げるのを聞いて、これが野党の発言かと目を疑った(仰け反った)。

 これまで橋下維新を天まで持ち上げてきたマスメディアも、さすがにこのような現実を前にしては目をつぶるわけにはいかなくなったのだろう。朝日新聞は11月25日から『大阪ダブル選から2年』、日経新聞は26日から『W戦から2年、橋下・維新改革の功罪』と題して連載を始めた。その冒頭で両紙が奇しくも取り上げたのが、先月10月24日に開かれた第1回大阪都構想推進本部会議に提出された維新の内部資料だったのである。

 私は11月7日の記事で毎日新聞がスクープしたこの内部資料に興味を持ち、いろんなルートから情報を提供してもらった。内部資料は「現状認識」「全体戦略」「活動計画」の3部から構成され、パワーポイント形式の箇条書きになっている。作成したのは都構想推進本部の政策チーム名になっているので、最初は議員集団あるいは議員スタッフによるものと思っていたのだが、朝日記事によれば「党幹部と広告会社の担当者が集まった会議」(11月25日)とあるから、どこか外部の広告会社に請け負わせたのだろう。しかしそのことは「外からの目」(広告会社の視点)で見た橋下維新の実体がリアルに分析されることで、結構面白い内容になっている。

 まず「現状認識」から入ろう。第1は、維新の会議員内部の状態だ。ここには「勢力や政策の急拡大⇔不安感」「支持率低下⇔次期選挙不安感」「兵隊型選挙と堺の敗北⇔不満感」の3項目が並べられ、維新内部の議員に不安感と不満感が充満していることが指摘されている。支持率の急速な低下を反映してか、議員とりわけ「橋下チルドレン」にとって次期選挙への不安感が大きく、それに堺市長選のときは無理やり総動員されたうえに敗北したので、上から(橋下代表)の一方的命令で「兵隊型選挙=兵隊アリ」のように働かされることへの不満が爆発寸前のレベルに達しているというのである。

 第2は、維新の会に対する市民の評価だ。ここでは「太陽の党、他党議員との合流、国政政党化⇔大阪純度の低下」が挙げられている。「大阪純度の低下」といったキャッチコピーは如何にも広告会社らしい気の利いたセリフだが、まさに橋下維新の心臓部を抉る(えぐる)言葉だと言ってよい。大阪を「踏み付け」にして国政に打って出ようとした橋下維新の本心が大阪府民・市民に見抜かれ、それが「大阪純度の低下」という言葉で表現されているのである。

 第3は、橋下代表に対する市民の評価だ。この部分は内部資料のハイライトとも言うべき部分であり、マスメディアの見出しとして使われたフレーズが並んでいる。それは「権力への挑戦者(大阪人好み)から権力者へ(大阪人嫌い)」というもので、橋下維新の本質を図星したものだ。確かに市民の目には、橋下氏が一時期“権力への挑戦者”として映ったこともあった。だが橋下氏は、市民の要求を実現するために権力に挑戦したのではない。彼自身の野望すなわち“覇権=独裁権力”を振るうために挑戦したのであり、それは自分が権力者に成り上がるための権力争いの一種に他ならなかったのである。(つづく)