神戸市、神戸新聞社、関西学院大学(社会学部)の3者で構成された『住みよい神戸を考える会』が宮崎市政の登場を用意した、丸山地区のまちづくりは「ポスト原口市政」の政策実験場となった、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その3)

これも後で知ったことだが、私たちが丸山地区のまちづくりに参加する以前から宮崎助役は周到な手を打っていた。それが1966年2月に発足した『住みよい神戸を考える会』(以下、『会』という)である。1966年2月と言えば、原口市政第5期目に当たる1965年11月の市長選挙が終わったばかりの頃だ。原口市政を4期で終わらせ市政を継承することに失敗した宮崎助役が、次の市長選で自分の出番を確かなものにするために用意したのが、実はこの『会』だったのである(と私は推測している)。

もちろん『会』の趣旨にはそんなことは書かかれていない。手元に残っている資料をみると、『会』の趣旨は以下のようになっている。少し長くなるが、『会』の意図や性格がよくわかるのでそのまま掲載しよう。

「30年後の神戸市の総合基本計画(マスタープラン)にもみられますように、神戸市が取り組もうとしている“人間尊重”の都市づくりを推進するために積極的な行動を起そうというのが、わたしたちの決意です。最終の目的は“住みよい町神戸”の確立にあり、行政と住民の一体化による、市民のための都市づくりは、どのようにすればいいのかを、長期的展望に立って、行政・学識経験者・新聞社の三社で考え、ここから生まれてきた考えを住民参加のかたちで実践していこうというものです」
「このためには、まず第一に、神戸市民は市の行政に対して『何を求めているのか?』『何を考えているのか?』という問題の分析から、取り組んでいきたいと思います。神戸市こそ自分たちの故郷だ、という市民意識の高揚を図り、ついで、市民の権利と義務を規定した“市民憲章”の確立、さらには“人間都市宣言”という世界的な視野に立ったアピールをしたいのです」

『会』の趣旨の冒頭に1965年策定の「神戸市総合基本計画」(マスタープラン、以下『65年計画』という)が出てくるように、この基本計画は実質的に宮崎助役が主導して策定したものであり、宮崎助役が市長選に打って出る際の切り札になるはずのものであった。『65年計画』の特徴は、「原口土木市政(フィジカルプラン)の集大成」、「阪神都市圏および瀬戸内経済圏の中心核を目指す超広域計画」、「計画期間が30年という超長期計画」の3点である。私は『65年計画』が現在に至る神戸市政の骨格と体質を形作ったと考えている。

通常の場合、基本計画は「方向性」を示すものとされ、具体的なプロジェクト(フィジカルプラン)は余り書かないことになっている。プロジェクトの裏づけとなる財政措置が不確定であり、具体的なプロジェクトの箇所付けは却って事業の妨げになるからだ。だが神戸市政の場合は、原口市長時代に次から次へとビッグプロジェクトに着手してきた勢いをそのまま『65年計画』に流し込んだ。高度成長時代の幕開けと展開を目の当たりにして、国際港都神戸の揺るぎない成長と繁栄を将来にわたって確信していたからだろう。

このことは計画対象区域を「関連区域」まで含めると、計画区域が神戸周辺一帯の自治体を「超広域」的にカバーしていることでもわかる。西は明石市、北は三田市、東は宝塚市・西宮市、南は淡路島全島がすっぽり計画区域の中に入っており、戦前の神戸が夢見た「大神戸=グレーター神戸」構想が戦後になって現実の姿を現した格好だ。この計画を見た周辺自治体はもとより兵庫県関係者までが「神戸市長は県知事のつもりか」と激怒したというのも無理はない。

また計画期間が30年という「超長期」であることも、『65年計画』の類を見ない特徴になっている。一般的に言って基本計画はせいぜい10年が関の山であり、それ以上のものはほとんどみられない。10年以上にわたって将来を見通すことなどおよそ不可能であり(最近では5年先でさえ見通せない)、計画自体のリアリティが疑われるからだ。しかし、『65年計画』は1995年までの30年間にわたるもので、1995年の計画人口は180〜200万人と想定されていた。「200万都市」が神戸の目指す大都市像であり、それは当然達成されるものと予測されていた。

だが歴史の偶然によるものか、それとも天の啓示によるものか、『65年計画』の目標年次である1995年に阪神・淡路大震災が発生したのである。1965年策定の「神戸市総合基本計画」(マスタープラン)は阪神・淡路大震災によって名実ともに歴史的終焉の時を迎えたといってよい。神戸市政はこのとき天の啓示を受け入れ、経済成長と都市拡大を至上命題とする「開発成長型都市計画=近代都市計画」から「持続成熟型都市計画=現代都市計画」に転換すべきだったのだ。

話を再び『会』の方に戻そう。『65年計画』はたしかに「フィジカルプラン=ハコモノ計画」だった。しかし神戸市政のスマートなところは、(大阪市政とは違って)その中に次の時代の到来を予測させる「人間尊重の都市づくり」、「市民憲章」、「人間都市宣言」など時代を先取りしたキーワードを盛り込んでいたことだろう。宮崎市政が原口市政と違った特色(カラー)を出そうとすれば、原口市政の「ハコモノ計画」をそのまま受け継ぐことはできない。新しい「宮崎カラー」を打ち出さなければ次の神戸市政を展開することができない。宮崎市政は原口市政の忠実な後継政権であると同時に、その「一部手直し」を明確に自覚していた「ポスト原口政権」でもあった。それが『会』の設立につながり、前例のない『会』の事業の展開になったのである。(つづく)