神戸型都市経営を転換できない根本原因は何か、それは市役所一家体制がいまだ崩壊していないからだ、阪神・淡路大震災と過去2回の神戸市長選がそのことを物語る、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その20)

 「高度経済成長期(人口増加期)が遠くに去り、重化学工業の衰退と生活文化産業の低迷という神戸経済の構造変化にともない、これまで公共デベロッパーとして多大な成功を収めてきた神戸市政が都市経営戦略と都市経営システムの転換を求められている」という指摘に対しては、現在これに異を唱える勢力はもはや存在しないだろう。それほど神戸市政の根っ子にある問題の所在は明白であり、神戸型都市経営からの脱却は保守・革新を超えた神戸再生の喫緊の課題になっているのである。

 神戸型都市経営から脱却する機会は過去何回かあった。ひとつは言うまでもなく阪神・淡路大震災であり、これを「千載一遇の機会」として開発行政を大転換することも可能だった。だが笹山市長の取った態度はこれとは正反対で、これまでの開発行政をさらに拡大して市役所一家体制と神戸型都市経営の延命を図ることだった。笹山氏は大震災を「千載一遇の機会」として震災前に完成していた第4次総合基本計画に防災関連事業を付け加え、(大蔵省の言う)「焼け太り計画」を復興計画として推進した。神戸空港も地下鉄海岸線もすべては震災復興関連事業として建設された。

 阪神・淡路大震災発生当時の日本経済はバブル崩壊後の不況期の最中にあり、これまでのような経済成長や人口増加を望めないことはもはや明らかだった。戦後の経済成長率は、高度経済成長政策が始まった1956年度から石油ショックに見舞われた73年度までが平均9.1%、石油ショック以降の74年度からバブル経済が崩壊した90年度までが平均4.2%、バブル経済崩壊以降の91年度から2013年度までは平均0.9%にまで落ち込み、世はいわゆる「ゼロ成長」に近づきつつあったのである。

 また人口は1956年に初めて9千万人台に達してからは右肩上がりの増加を続け、1967年には1億人台、1974年には1億1千万人台、1984年には1億2千万人台とほぼ10年で1千万人が増加するペースで成長してきた。しかしそれ以降はついに1億3千万人台に達せず、2008年の1億2千800万人をピークにして日本は歴史的な人口急減期に突入した。阪神・淡路大震災が発生した当時、人口はすでにピークに近づいており、もはや大幅な人口成長を期待できる条件はなかった。

 笹山市長を頂点とする市役所一家は、自らの権益を保持するためにも、また震災を「千載一遇の機会」と考える土木テクノクラートの体質からも、開発行政を土台とする神戸型都市経営を転換することなど思いも寄らなかったに違いない。そして市民の反対を押し切って復興都市計画の決定や神戸空港の建設などを強行し、ますます都市経営の傷跡(開発造成地の売却不振と地価下落のダブルショック、起債返還による財政難)を広げていった。

 市役所一家体制をもはや内部から変えることは不可能だと悟った市民団体が、助役上がりの市役所一家候補に対して市民候補を擁立したのは2009年市長選のことだ。このとき矢田現職市長候補の16万4千票に対して市民候補は15万6千票を獲得して肉薄し、票差はわずか7800票だった。もし共産党が「独自候補」を立てて6万票余りを得票しなければ、市民候補の勝利は(大差で)現実のものになっていただろう。

 同じことは、またもや2013年市長選でも繰り返された。もはや助役上がりの市長候補では勝利できないことを知った矢田市長が国の天下り官僚を担ぎ(神戸市が兵庫県と国に屈服した)、今度は天下り官僚候補と市民候補の争いになった。票差は官僚候補16万2千票、市民候補15万6千票で、ここでも5600票の僅差で官僚候補が逃げ切った。助けたのは、今回もまた「独自候補」を擁立して4万6千票余りを得票した共産党だった。

 共産党の言い分はどうあれ、政治はすべて「結果責任」だ。共産党が「独自候補」を擁立しなければ、市役所一家候補(あるいは推薦候補)の敗退は明らかだった。ここでは共産党は疑いもなく市役所一家の一翼として行動したのであり、結果として神戸型都市経営の転換を妨げる抵抗勢力として機能したのである。このことは神戸市民にとって、阪神・淡路大震災から20年も経過した現在においてもいまだ市役所一家体制(実質的には共産党を含む)が「健在」であることを示す不幸な出来事になった。そしてこの体制が続く限り、神戸市政は神戸型都市経営から脱却できず、したがって神戸市政の再生も「夢のまた夢」であることが明らかになったのである。(つづく)