真野地区のまちづくりは2015年11月で50年(半世紀)を迎える、阪神・淡路大震災20年を記念して開かれた真野地区のシンポジウムや感謝の集いは盛大かつ和やかだった、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その14)

 2015年1月16日、17日の2日間、神戸市長田区の真野地区では震災20年の記念集会が開かれた。圧巻だったのは、全国から真野地区のまちづくりを支援する専門家やボランティアが数多く集まり、また300頁を超える記念誌が発行されたことだ。これだけの力量を持つまちづくり組織は全国にも例を見ないだろう。発足以来50年を経ていまだそのバイタリティとエネルギーを失っていないのだから、これはもう奇跡以外の何ものでもない。

 「真野これから」と銘打ったシンポジウムでは、私もパネリストの一人として参加したが、半世紀を超えるまちづくり組織とその活動をこれからどう維持・発展させるかがテーマだった。ご他聞にもれず真野でもまちづくりリーダーの高齢化が進んでおり、また震災後に転入してきた新住民にはこれまでの歴史を知らない人が多く、その継承が大きな課題になっているからだ。

 真野地区と私のかかわりは丸山地区と同じく1960年代末にまで遡る。1967年に丸山地区住民と一緒にまちづくり活動を始めた私たちに対して、『住みよい神戸を考える会』を通して知り合った真野地区のリーダー・毛利芳蔵さんから、真野地区にも来て欲しいとの依頼を受けたのが1969年夏のことだ。真野地区は同じ長田区でありながら、丸山地区とは対照的な浜側の典型的な下町(住商工混合地域)であり、長屋街やマッチ・ケミカルシューズ・ゴムなど零細工場が混在し、商店街も点在しているという密集地域である。

 しかし、真野地区と丸山地区には共通点があった。それはいずれの地区も神戸市の都市計画から見捨てられた「アバンダンド・エリア」(放棄地域)であったことだ。前者は山手のスプロール開発地域、後者は浜手の公害地域と言う点では違っていたが、「人の住めるところではない」という点では同じだった。そして両地区で住民の命と健康を賭けた住民運動が並行して起り、神戸市に対して激しい抗議活動を展開していたことも同じだった。私たちは奇しくも神戸市の「底辺地域」(ガンツ・ウンテン)と言われる2つの地域で、地域住民とともにまちづくりに取り組むことになったのである。

 毛利さんたちがまちづくり運動を始めるに当たって「バリアー」になったのは、既存の自治会組織の存在だった。神戸市から地域住民組織と公認され、地域の有力者が役員を独占する自治会・町内会は、自分たちのまちの(支配)秩序を脅かす新興組織は容認できなかった。当初、自治会ぐるみの運動を考えていた毛利さんたちは、自分たちが管理する衛生組合を根城にして自主的なまちづくり組織をつくった。これが「真野同志会」である。これは、丸山地区の今井さんたちが防犯組合を利用してまちづくり組織をつくったのと同じ方法だ。自治会組織は地域社会を管理するが、地域問題は解決しない(できない)のだから、独立した自主的組織をつくって活動する他なかったのである。

 最初に訪れた真野地区の第一印象は、「この世のもの」とは到底思えないほど凄まじいものだった。丸山地区のときも衝撃を受けたが、真野地区のそれはそれよりも数段上だった。なにしろ子どもの4割が喘息にかかるほど空気が汚染され、海は工場排水でコールタール色の泥海のようになり、長屋街の路地ではネズミや害虫が我が物顔に走り回っていたのである。だから真野地区では「戦う丸山」に対して「戦いすぎる真野」といわれるほど、公害反対運動が激烈だった。宮崎市長時代に制定された公害防止協定第1号は、1970年に真野地区で締結された。

しかし、公害反対運動だけでは真野地区の生活環境の改善は困難だった。住宅老朽化への対応、子どもの遊び場や公園の整備、集会施設や保育施設など近隣施設の建設など全てが問題だらけだった。これは、昨日のシンポジウムで真野まちづくりの相談役として40年近く助言活動を続けてきた宮西氏(まちづくりコンサルタント)から指摘されたことだが、毛利さんに「住民運動だけでは駄目だ。まちづくりのプランをつくらなければ」と働きかけたのが私だったという(私の記憶にはない)。

こうして真野地区のまちづくり運動は、70年代に入って公害問題から出発して生活環境の改善運動へ幅を広げ、80年代にはさらに地区全体の土地利用や近隣施設の整備を総合的に追求する本格的なまちづくり運動(小さな都市計画運動)へと発展した。とりわけ重要だったのは、1980年都市計画法改正にともなう「地区計画制度」(小さな都市計画)の創設に当たって、真野地区が地区計画適用地域のモデル指定を受けたことだ。神戸市はこれを契機に「まちづくり条例」(1981年)を制定し、条例にもとづく「まちづくり協議会」第1号に真野地区を認定して本確的な「まちづくり構想」の策定作業が始まった。策定された「真野まちづくり構想―20年後を目指す将来像の提案」をもとに市長と真野地区の「まちづくり協定」が締結され、法定拘束力の持つ「真野地区地区計画」が公示されたのは1982年秋のことである。(つづく)