都市再生まちづくりにおける“中間層”の位置と役割、地元保守(旧中間層)および転入族(新中間層)と革新勢力の連携が必要だ、堺市長選の分析(その32)、改憲勢力に如何に立ち向かうか(62)

 かって都市成長時代の都市計画をめぐっては“保革対決”が主流だった。臨海工業地帯の埋め立て事業や高速道路の建設計画をめぐっては、「開発利益vs環境保全」の根本矛盾をめぐって保守と革新が激しく衝突した。開発利益を至上目的とする「開発保守=自民」と「命と暮らしを守る住民運動=革新」が真正面からぶつかり合ったのである。

 いま現在も「開発保守=国家保守=ネオコン」と「革新」の対決が無くなったわけではない。それどころか、その矛盾は刻一刻と拡大している。福島第1原発放射能に汚染された水漏れ事故が毎日のように発生しているにもかかわらず、安倍首相は国際オリンピック委員会総会の席上で「汚染水は完全にコントロールされている」と恥ずかしげもなく断言する始末だ。しかし、国民の誰もが安倍発言を信じていないように(朝日新聞世論調査、「そうは思わない」7割)、原発再稼働をめぐる対決は、いまや「国家保守vs革新リベラル(中間層+革新勢力)」の様相をますます強めつつある。

 このことは、沖縄の米軍基地移転問題ではもっと深刻な形であらわれている。沖縄の那覇市で30年間にわたって都市計画コンサルタントの仕事をしている私の友人(生粋の中間層)は、米軍基地が撤去されて住民に土地が返還されない限り、沖縄の都市計画は成立しないし、まちづくりも不可能だと断じている。沖縄の米軍基地問題ほど、アメリカと日本政府が地方自治を蹂躙している例は世界的にも稀であり、沖縄の米軍基地返還闘争は地元保守と革新勢力が一体となった「地元ぐるみの運動」なのである。そこには「地方自治・住民自治なくして都市計画・まちづくりなし」の最悪ケースがあるといってよく、地方自治・住民自治を取り返す運動とまちづくりが固く連動している。

 しかし堺市の場合は、今回のような橋下維新(国家保守)による「堺市乗っ取り」を辛うじて防いだのであるから、“保革対決”の対象になるような案件が少なくなった。むしろ都市全体の人口減少にともなう衰退傾向は、「旧市民=地元保守=旧中間層」にとっては営業活動(収益減)や資産保全(地価下落)の危機でもあるから、旧市街地における“都市再生まちづくり”はいまや保革対決を越えた喫緊の課題に浮上してきているというべきだろう。

 一方、泉北ニュータウンのような郊外住宅地においても急速な高齢化が進み、都市人口の流動が沈静化するなど、住民が短期間に転出入を繰り返す「流動社会」の様相は影を潜めてきている。「新市民=新中間層」のなかでも「定住社会」への志向が強まっており、保守革新を問わず「自分の骨を埋める場所」への関心が高まりつつある。ニュータウンや郊外住宅地において、“都市再生まちづくり”の動きが活発化しているのはこのためである。

 こんな時代変化の波を市民も行政も見逃してはならないだろう。行政は、百年一日の如くハードなインフラ整備や都心再開発に執心するのではなく、“魅力的なまち・市街地の形成”にもっとエネルギーを注ぐべきなのだ。市民・住民の方でも革新勢力の得意業である「要求運動」のレベルを越えて、自分たちが住んでいる地域のまちづくりにもっと主体的に取り組むべきなのである。そうしなければ、行政や革新勢力は中間層から離反することになり、橋下維新のような「グレートリセット」を掲げる反動勢力にイニシャチブを握られることになりかねない。

 今回の堺市長選で維新側に投票した有権者(4割)は、これまでの市政に強い不信・不満を抱く(行政に距離を置く)新旧中間層が大半だと私は見ている。これら中間層は行政との接点もなく、また革新勢力に対する拒否感も強いので、勢いその情報源はマスメディアに依拠せざるを得ない。橋下人気がこれまでマスメディアを通して散々煽られてきたことを思えば、この人たちが「大阪都構想」が実現すれば、自分たちの不満が解消されて、住みよい都市が実現できると考えてもなんら不思議はない。

 いわば、橋下維新はマスメディアを利用して「バーチャルな都市=架空の世界」の演出に成功してきたのであり、地域社会から遊離した中間層がそのイメージに取り込まれた結果、圧倒的な“橋下人気”が起り、巨大な“維新ブーム”が起ったといえる。だから、橋下氏本人や維新幹部は間違いなく超反動勢力であるが、その支持層のかなりの部分はイデオロギー的には「国家保守=ネオコン」支持層というよりは、むしろ市政・行政に対する批判層と考える方が適切だろう。

 重要なことは、維新支持層を批判するのではなく、その人たちが自由に参加できるような「まちづくりの場」をつくることだ。ただし超多忙な中間層を参加させるには、従来形式の委員会組織や会議開催方法にこだわっていては成功しない。たとえば、まちづくりコーディネーターを中心にした“ネット環境”を構築し、そこに志のある人々が(保革を越えて)(時間を越えて)(場所を越えて)自由に参加して議論し、一定の方向性が出た段階で随時「タウンミーティング」を開いて意見を集約すればよいのである。

 そして、それらまちづくりの意見や方策が行政的に見ても妥当であり、実行に値するものであれば、躊躇なく予算化して“部分からのまちづくり”をスタートさせればよい。「行政の公平性」とかいう人たちに対しては、「あなたたちもやれば!」と促すだけでよい。「働かざるものは食うべからず」の法則をまちづくりに適用するとすれば、「参加せざる者は言うべからず」とでもなろうか。(つづく)