阪神・淡路大震災が起きた日に私は何をしていたか、大学の仕事で釘付けになり1週間ほど動くに動けなかった、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その13)

20年前の今日、1月17日の未明、阪神淡路・大震災は起こった。自宅のある京都南部の伏見は比較的震源地に近く(淀川沿いに地震波がストレートに伝わってきた)、震度5近い激震に見舞われた。2階の書斎は本棚からは本が散乱して手がつけられない状態だったが、幸い大きな損傷はなかった。自宅は私と友人(大学時代の同級生)の共同設計の木造住宅、本の荷重を考えて特に構造計算には念を入れ、頑丈に作ったので大丈夫だったのだ。

揺れが余りにも大きかったので飛び起きてテレビを付けたら、早くもNHKが地震速報を流していた。最初の頃は死傷者数人程度だったが、時間が経つにつれて飛躍的にその数字が大きくなっていった。そのうち被災地上空のヘリコプターから災害映像が中継されるようになり、最初に見た光景が今も繰り返し放映される長田区市街地の惨状だった。市街地一円に炎が広がり、黒い煙が上空にまで立ち上っていた。

だが、その光景を目の当たりにしても、私にはまだ災害の全容を理解できなかった。当時、京都府立大学の責任者だった私が瞬間思ったことは、「大学センター入試が終わっていてよかった」ということだった(被災者の方々には申し訳ない)。センター入試の最中にこれほどの地震が起こったらいったいどんな状況になるか、そんなことをとっさに考えていたのが正直なところだった。阪神・淡路大震災が起こった1995年のセンター入試は1月14日(土)、15日(日)の両日、全国一斉にセンター入試が行われ、16日(月)は休日、そして17日(火)に阪神・淡路大震災が起こったのである。

その日は大学に行ってから情報収集に追われたが、まったく現地の状況がわからない。18日(水)の部局長会議、評議会を皮切りにとにかく被災地から来ている学生たちの安否を確認しようということになった。しかし電話が通じないので連絡の取り様がない。結局本格的に活動を始めたのは、学生たちが登校して講義が始まり、ゼミやクラスで話し合って連絡方法を考えてからのことだ。最終的には3ヶ月ほどかかって被災地まで学生や教員が行き、所在と安否を直接確かめた。当時はJRは灘駅、阪急は西宮北口駅から西は不通だったので、そこから全員歩いて行った。

そんなことで地震発生から1週間ほどは大学に釘付けになっていたが、長田区真野まちづくりの支援をしていた私はどうしても現地の様子を自分の目で確かめたかった。また神戸市の住宅審議会のメンバーでもあったので、市役所に行って被災状況を聞きたかった。でも大学の公務のため休むわけには行かないし、それに現地に行く交通手段がない。鉄道はすべて止っており、道路は緊急車輌で溢れていて一般車輌は入れない。

そこで一計を案じたのは、研究者仲間で数台の自動車を調達し、「震災学術調査団」の名目で現地に行こうということだった。若手の助手や助教授が中心になってヘルメットや腕章などをかき集め、拡大コピーで「震災学術調査」の文字を車にデカデカと貼り付けてそれらしき体裁を整えた。それから確か2週間後の日曜日に現地に向かったのだが、西宮市以西は交通規制が厳しく一般車輌は通行禁止だった。しかし私たちの車を見て、取締りをしていた警察官は黙ってそのまま通してくれた(決して交通違反をしたわけではない)。

阪神高速道路が横倒しになっている場所へも行った。片側の車線は通行可能だったが規制をされているので車1台通っていない。そこをひた走りに走り、倒壊した橋脚の間際まで行っておびただしい写真を撮った。倒壊している市街地にも行った。でも壊れた家が道路にはみ出していたほとんどの道は通れない。すでに救出活動は終わっていたが、遺体が安置されている学校の校庭には全国から集められた霊柩車が多数駐車していた(北海道ナンバー、九州ナンバーの車もあった)。

しかしその日は長田区はおろか、市役所にも行けなかった。東灘区、灘区あたりから交通渋滞(というよりは停止状態)が酷くて緊急車輌すら動けない。脇道を探そうとしても瓦礫がせり出していて通れない。結局のところ、西宮と芦屋を中心に回っただけで京都に戻ったのは深夜になってからのことだ。後日、今度は1人で西宮から三宮まで6時間ほど歩いて行ったが、市役所の1階ホールは布団を敷いた被災者で溢れ、壁や柱はお互いの安否を尋ねる紙切れで一杯だった。やっと通してもらった上階のフロアーでは、市職員がみんな裸足で仕事をしていた。聞けば、徹夜続きで足に水分が溜まって膨れ上がり、靴が履けなくなったというのである。

すべての情景が悲惨だった。神戸のまちづくりを研究していた私はこれまでいったい何をしていたのか、私の研究は何も役立たなかったのではないか、災害のことを考えていなかったのはなぜかなどなど、自分を激しく責めた。真野地区に行ったのはそれからまだ1ヶ月経ってからだった(真野地区では昨日から2日連続で震災20年の集まりがあり、全国から多くの友人が集まるので私も参加する予定)。(つづく)