大阪都構想住民投票の終盤戦になって流言飛語が飛び交うようになった、誰が飛ばしているのか知らないが、「泥仕合」にならない冷静な議論と判断が必要だ、大阪府議選・市議選から都構想住民投票へ(8)、橋下維新の策略と手法を考える(その26)

 前々回頃から、拙ブログに対して多くのコメントが寄せられるようになった。東京の常連(辛口)氏や関西の方々からの反応も多くなり、それに創価学会員の方からも時折率直なコメントがやってくる。都構想の住民投票が終盤に差し掛かり、地元大阪はもとより全国的にも関心が高まってきたからだろう。拙ブログへのアクセス数も1日平均2千近くになり、堺市長選のピーク時の5千には及ばないものの相当な高揚ぶりだ。

 だが、気になることがある。最近、不審な電話がかかってきたり、反対派がこんなことを言っていると賛成派が逆宣伝するなど、住民投票に絡んだ悪質なデマが流れるようになってきたのである。これはどんな選挙戦でも起こることで「そんなに気にすることはない」と言う人もいるが、私は必ずしもそうは思わない。冷静な議論が浸透してくるとこれまでの主張の根拠が崩れ、戦況が不利になる側の陣営が持ち込む「泥合戦」の模様が感じられるからだ。

 もともと都構想を推進する維新の側にはさしたる根拠があったわけではない。橋下市長の舌三寸に依拠した「なんとなく」のムードを盛り上げ、その勢を終盤戦まで持たせて賛成票が反対票よりも1票でも多くなれば「勝ち」という単純な戦術なのだ。だから市民の間に冷静な議論が広がってくると困るのであり、それを妨げて新たな混乱に持ち込む戦術が必要になる。軍隊用語で言えば、「撹乱戦」を必要とする場面がいよいよ登場したということだ。

 この数日間、大阪でいろんな催しに参加した。5月5日の「『大阪都構想』の危険性を明らかにする学者記者会見〜インフォームド・コンセントに基づく理性的な住民判断の支援に向けて」という長ったらしい名前の集まり、6日から7日にかけての「大阪をよくする会」の街頭宣伝活動、その他諸々の少集会などである。その中で感じたことは、都構想賛成派の宣伝活動が「二重行政の弊害をなくす」の一点張りになってきていて、大阪をどんな都市にするかという「構想」がほとんど語られなくなってきたことだ。

 おそらく湾岸埋立地に大規模なカジノをつくる以外にさしたるアイデアを持たない維新の面々にとっては終盤戦で言うことがなくなり、「二重行政の弊害」一点張りの演説になってきているのであろうが、しかし、これだけでは大阪市民の気持ちをつかむことが出来ない。だから、流言飛語の世界を繰り広げて「泥仕合」に持ち込み、考え始めた市民に「どっちもどっち」との印象を与えて投票に行かせないとの戦術に転換し始めたのではないか。

 終盤戦には、維新は全国から多数の街宣車(一説には300台とか)を集めて大宣伝を繰り広げる作戦だと言う。おそらく騒然とした空気を作り出して大阪をわけの分からない状態に持ち込み一気に勝負をつける算段だろうが、反対派がこんな「撹乱戦」や「泥仕合」に巻き込まれては困る。説得力のある冷静な議論をどこまでやり切るか、客観的な判断を求めている良識ある市民に対して如何にその材料を届けるか、この大原則をもう一度思い出して終盤戦の作戦を立ててほしい。

 私の僅か2日間の街頭宣伝(西淀川区此花区東淀川区、旭区)の印象から言えば、都構想反対の世論は予想以上に浸透していた。道行く人々(とくに高齢者)から手を振って応える光景が数多く見られ、静かな反応ながらも確かな手応えを感じた。若者やビジネスマンらしい装いの人たちからの反応はもうひとつだったが、これはそんな反応をするのが気恥ずかしいのであろう。しかし、嫌な顔をするといった感じはなかった。

 拙ブログに対する多様なコメントを寄せていただく読者の方々に感謝したい。そのなかから図らずも現在進行形の空気を感じ取れるからだ。しかし、それだけでは世間の実情は捉えられない。「物言わぬ人びと」の表情を見なければ分からないことが余りも多すぎるのである。これから街の表情が1日1日どう変わっていくかを正確に捉え、大阪の方々には最後の最後まで頑張ってほしい。(つづく)

 ●大変申し訳ないことですが、以前からの約束で今日から数日間、東北の被災地(石巻市)の復興まちづくりの勉強会のため留守にします。この間、コメントを寄せていただいても掲載できません。帰宅次第掲載しますので積極的なご意見をお寄せください。広原 拝