731部隊検証の新たな展開(10)、731部隊基地の建設について、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その140)

今年も最後のブログになった。今年は身辺雑事が多すぎてブログが疎かになったことをお詫びしなければならない。決して怠けていたわけではなかっただが、テーマが分散して書き辛くなり、ついつい間隔が開いてしまったのである。ちなみに、高校や大学同期の同窓会が解散する年齢になったこともその一因かもしれない。

それはさておき、731部隊基地建設の資料についての話を続けよう。前回は陸軍軍医学校の移転新築工事と防疫研究室の新築工事を請け負った大林組731部隊基地建設の本命であることを述べたが、今回は大林家と陸軍幹部の縁戚関係について紹介したい。資料は大林組で70年の生涯を過ごし、常務、専務、会長、相談役として重責を担った白杉嘉明三の回顧録、『回顧70年、大林組とともに』(大林組社史編集室、非売品、93〜100頁、1968年)である。白杉回顧録はラジオインタビュー(13回)の録音を起こしたもので、その中で「情誼暑い上原、大林両家」と題して次のように述べている。

「そういえば、明治四十三年十一月、第四師団と第十六師団の連合大演習が北摂、阿武野ケ原で行われ、大正天皇様が未だ東宮で在しましてご観戦あそばされた誉の大演習でありました。ちょうど大林の夙川の本邸が、当時師団長であられた上原勇作閣下および山根武亮閣下――この方は、さきに朝鮮鉄道工事でごやっかいになった方です――その他の方々の宿舎に充てられました。大林としても非常に喜びまして、一家をあげて歓待したわけです。(アナウンサー:陸軍好きの大林さんですから、喜び方も目に見えるようですね)。後、上原閣下は元帥になられてからも、よく人に『あのときは実に愉快であった。故人(注:大林芳五郎初代社長)とは初対面であったけれども、百年の知己のごとく非常に親しみを覚えた』といっておられたそうです」
「その後、大正二年上原閣下は第三師団長を任じられまして、当時静養中であられた九州の指宿から赴任されましたが、途中の列車の中で病気になられ、大阪近くになって熱も殊のほか高くなられたので、やむなく大阪で下車し赤十字病院に入院されたことがありました。大林は先年一夜の交歓とはいいながら想い出深い元帥のことでしたので、時々病床をお見舞いしていたのですが、三カ月あまりの病院生活後、たまたま院長の前田博士が転地療養をおすすめしておられるのを承知しまして夙川の屋敷の別邸をご利用されるようおすすめし、元帥もよく往年の感興を憶えておられまして、故人のおすすめを受けられ一年余りこの別邸で静養されました」
「この間元帥のご家族方も始終御見舞いにみえられ、両家の間は非常に親密になられたのです。元帥は特に故人の遺嗣義雄氏をわが子のように慈しまれますともにその将来を嘱しておられましてね。故人の没後の大正九年、愛嬢の次女尚子様を室として義雄氏に託されました。両家の交情はこの堅い縁によって結ばれることになった次第でした」

林義雄(二代目社長)の岳父となった上原勇作(1856〜1933年)の経歴は、白杉回顧録の中でも詳しく紹介されている。上原は陸軍士官学校工兵科を卒業、渡仏してフランス工兵隊で学び、帰国後は工兵監として工兵の近代化に貢献し「日本工兵の父」と称された。陸軍では要職を歴任して強力な薩摩軍閥を作り上げた大物軍人であり、教育総監参謀総長・陸軍大将の陸軍3長官を歴任した。その後陸軍大臣にも就任し、それらの功績で元帥、子爵を授けられた人物である。

このように陸軍切っての大物軍人であり、かつ建設技術に通じた工兵畑出身の上原と縁戚関係を結んだ大林家(大林組)が、建設業界の中でひと際優位な地位に立ったことは言うまでもない。とりわけ、大林義雄は1918(大正7)年に大林組社長に就任してから1943(昭和18)年に没するまで、20数年間にわたる戦時体制下で日本土木建築請負業者連合会会長を務めるなど建設業界での指導的役割を担った。大林組社史は、満洲事変以後の大陸での建設活動について次のように記している(大林組社史編集委員会、『大林組八十年史』、146〜147頁、1972年)。

大林組は昭和六年(1931)大連に出張所を設け、満洲進出の手がかりとしたが、この気運に乗じ同八年、大連出張所を支店に昇格し、業務拡大に備えた。まず新京(現・長春)の関東軍司令部庁舎新築工事を受注し、翌九年には満洲国国務院庁舎、満洲中央銀行の建設に着手したが、いずれも首都新京を飾る代表的建築であった。なかでも満洲中央銀行は、昭和十三年(1938)九月竣工まで四年二カ月を要し、地下二階、地上四階の鉄骨鉄筋コンクリート造で、延八〇〇〇坪(2万6400平方メートル)、請負金額四五一万円、満洲第一の建築と称された。このほか新京の関東局庁舎、東京海上火災ビル、奉天(現・瀋陽)の満鉄総合事務所などの建築があり、軍工事には関東軍野戦航空廠、公主嶺航空隊本部、同兵舎などの施設、満鉄関係には甘井子火力発電所、牡丹江機関庫や敦図線第四工区、天図戦第五工区、図寧線第四工区、同第一一工区などの鉄道工事がある」

大林組の受注工事は多岐にわたっているが、とりわけ注目されるのは、満洲進出の直後から関東軍、関東局、国務院などの満洲国の主要建築を軒並み受注していることである。なかでも関東軍司令部庁舎や関東局庁舎(関東軍憲兵隊司令部との合同庁舎)は軍事機密を保持する上での最重要拠点であり、その施工工事を受注したことは大林組関東軍の特別な関係を示すものと言わなければならない。大林組社史にはこのような関東軍との特別な関係を示す記述は見られないが、戦時中に発行された『創業五十年記念帖、大林組』(大林組編纂会、非売品、1941年、「記念帖」という)には、関東軍関係の工事が伏字で数多く掲載されている。以下、記念帖の特徴を説明しよう。

まず大林義雄社長の序文には、感謝の辞の次に「本帖に収録した写真によっても察せらるる如く、土木建築工事は各時代様々の様相を反映するものでありますから、今後相当長期に亙って反映する様相は、東亜新秩序の建設を中心とするものに外ならぬのであります。従って土木建築に業を奉ずる弊社の責任は重大であります」との決意が述べられている。ここまではごく当たり前の挨拶であるが、異例なのは、編集注記として「本帖は創業以来五十年間に施工致しましたものの中の主なる工事の写真を収録致しましたものでありますが、防諜の関係上当組として逸すべからざる重要な工事でありながら収録を差し控へましたものが少なくありません。その他種々の事情で収録を見合わせたものが多々ありまして甚だ遺憾に存じております」との言葉が記されていることである。このことは、奥付に「内務省警保局防諜係検閲済」の略印が押されていることと併せて、記念帖の出版が当局の厳重な監視下に置かれていたことを物語っている。

 そこで写真が掲載されてはいない新築工事のリストをみると、中には実名入りの軍関係工事もあるが、関東軍関係の工事は全て「関東軍○○工事」となっており、その他の軍関係工事もほとんどが「海軍○○工事」「陸軍航空○○工事」などと伏字になっている。伏字があらわれるのは1936(昭和11)年以降であるが、その数は1936年関東軍2、37年関東軍1、38年ゼロ、39年関東軍2、その他4、40年関東軍1、その他14となっている(1941年以降は記念帖発行後なので記載なし)。この中の「関東軍○○工事」の中に731部隊基地の建設工事が含まれているどうかは知るすべもないが、同工事が1936年(昭和11)年頃から39年(昭和14)年頃にかけて施工されていたことを考えると、あるいはこの中に含まれているかもしれない。

 最後にもうひとつ、傍証らしきものを挙げて終わりたい。それは上記の上原元帥の副官の1人に、後の関東軍参謀副長となる今村均がいることである。『私記、一軍人六十年の哀歓』(今村均著、119、235頁、芙蓉書房、1971年)を読むと、今村少佐は1923(大正12)年、上原が参謀総長の職を辞し、元帥として軍事参事官専任になると同時に元帥副官となり、参謀副官として陸軍軍事に関する現在及将来の計画、わが国軍の情勢等の報告、元帥と陸軍三長官との公務連絡などに当たった。また、上原が演習に参加する時には女婿の大林義雄社長が注文した料亭弁当なども届けている。その今村が1936(昭和11)年に関東軍参謀副長に就任し、新京に赴任した。ちょうどこの頃は731部隊基地建設が本格化しようとしていた頃であり、参謀副長の任にあった今村がかっての上原元帥の副官として大林組に便宜を図ったとしても不思議ではない。(つづく)