731部隊検証の新たな展開(5)、100部隊施設配置図について、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その135)

 731部隊についての出版や論文は、日本国内に限ってもおそらく数百点を下らないものと思われる。これに対して、100部隊関係の資料は皆無に近く、公刊されたものとしては僅かに100部隊隊員・三友一男の『細菌戦の罪―イワノボ将官収容所虜囚記』(泰流社、1987年、以下「三友回顧録」という)が存在する程度である。三友回顧録は、副題がハバロフスク軍事裁判の収容所であるが、100部隊関係の記述が全270頁のうち60頁余を占めており、決して少なくはない。また、「あとがき」には次のように記されている。

「戦後何人かの人が細菌戦部隊のことについて筆をとっているが、その原典ともいうべきものは、1950年モスクワ外国語図書出版所が出した『細菌戦用兵器の準備および使用の廉で起訴された、元日本軍軍人の事件に関する公判記録』ではなかろうかと思われる。しかし残念なことにこの記録は、勝者が敗者を裁いた記録というべきものであって、731部隊についてはいざ知らず、こと100部隊に関する部分については誇張されていることが多く、必ずしも事実を正確に伝えているものとは言い難い。にもかかわらず、真実が明かされることのないまま、誤って伝えられていることがやがて真実として定着しようとしているのが現状である。こうしたことから、裁判に係わった被告の1人として、記録に取り上げられなかった部分や、細菌戦部隊、とりわけ100部隊のありのままを書き残して置くことが必要だと考えるようになった」

「100部隊の事に関しても、私が勤務していたのは、部隊12年有余の歴史の中僅か3年半に過ぎなかったし、そこでやっていた業務についても、軍事機密という厚い壁の中にあって、1技術雇員という立場でしかなかった私の知り得たものは、自分の所属している実験室か、せいぜい科内で行われていたことだけであって、部隊の全貌など到底解る筈はなかったからである。加えて、100部隊に関する資料は終戦時に処分され、何一つ残されているものはない」

三友回顧録がどの程度信頼に足る資料であるか、他に比較する資料文献がないので検証する術がない。しかし「100部隊のありのままを書き残して置くことが必要だと考えるようになった」という執筆動機、また「1技術雇員という立場」をわきまえた抑制された筆致から考えると、当時の100部隊の様子がかなり正確に描写されているのではないかと思われる。

加えて、筆者が100部隊の技術員として採用されたのは旧制中学校を卒業したばかりの18歳の時であり、そこで初めて体験した現地の光景が強烈な印象として脳裏に刻まれたことは想像に難くない。事実、そこで描写さている一連の記述は臨場感に富んでおり、当事者(とりわけ青年の感性)でなければ捉えられない情景が随所で展開されている。以上、三友回顧録が100部隊基地の概要を把握する点で重要な資料だと認識した上で、100部隊基地の概況を記そう。

(1)100部隊は、新京特別市の南西数キロの寒村「孟家屯」に位置していた。基地は赤煉瓦造りの1群の建物で、門柱には部隊の標識もなく、衛兵所には軍属が何人かいるだけで、「部隊」というイメージとは凡そかけ離れた閑散とした場所であった(三友回顧録21頁、以下同じ)。

(2)100部隊設立の経緯は以下の通りである(24〜27頁)。
 ・1933(昭和8)年、関東軍満州侵略にともない、軍馬補給のため100部隊の前身、臨時病馬廠が新京寛城子に創設。
 ・1936(昭和11)年8月、軍令陸甲満州駐屯部隊編成下令により臨時病馬廠を母体として関東軍軍馬防疫廠が設立。
 ・1939(昭和14)年、孟家屯に新庁舎を建設して新京寛城子から移転。翌年には付属施設、厩舎、倉庫等も完成。
・1940(昭和15)年、部隊名を満州100部隊に命名

(3)1936(昭和16)年当時の部隊編成は以下の通りである(28〜29頁)。
・100部隊の編成は、総務部50〜60名、第一部(検疫)30〜40名、第二部(試験研究)150〜200名、第三部(血清製造)100名、第四部(資材補給)20〜30名、牡丹江支廠50名、総計500名。
・各部にはそれぞれ厩舎があり、軍用に適さなくなった軍馬約1000頭が飼育され、実験・血清製造用動物として利用されていた。

(4)100部隊建物配置図および第二部庁舎平面図が「付図」として掲載されている(26、44頁)。ただし、この「付図」は建物や部屋の位置をシングルラインで示したメモ程度のもので、正確な測量に基づく配置図でもなければ、きちんとした建築設計図でもない。
 ・建物は、本部庁舎、各部庁舎(実験室、培養室、資料室など)、医務室、解剖室、厩舎、倉庫、車庫、食堂、衛兵所、下士官教育隊などから構成。
 ・筆者が働いていた二部庁舎は2階建であるが、平面図は「二階」「地階」との名称になっている。これは上階が地上より高く、下階が半地下構造になっているため、上階を「二階」、下階を「地階」としたものと思われる。

 私のパソコンはPDFの装置がないので「付図」を再掲できないのは残念だが、皇宮博物院との議論は、この程度の図面を基にしてどれだけ正確な施設配置図を再現できるかというものであった。(つづく)