経産省の原子力安全(宣伝)・保安院は解体しかない、(私たちは東日本大震災にいかに向き合うか、その25)

 九州電力の“やらせメール”事件に関連して、経産省資源エネルギー庁が過去5年、計35回の原発建設に関する国主催の地元説明会を開いた北海道、中国、四国、東京、中部、東北、九州の電力7社に対して、類似の「やらせ事件」がなかったかどうかの回答を求めた件で、驚くべき事実が判明した。

私は7月15日の日記で、たとえそのような事実があったとしても、「各電力会社は、資源エネルギー庁に対する報告で「一切白(しら)を切る」ことに足並みをそろえるのではないか」と書いた。「やりました」と認めることは、企業ダメージとしては「大き過ぎる」と思ったからだ。しかし結果は、四国電力伊方原発、2006年)、中部電力浜岡原発、2007年)、中国電力(島根原発、2009年)、九州電力川内原発、2010年)で同様の「やらせ事件」が起こっていた。(各紙、7月29日、30日)

ところが「事実は小説よりも奇なり」というが、四国電力中部電力の場合は「ドロボーを捕らえて見れば我が子なり」といった予想外の事態に発展した。こともあろうに、経産省原子力安全・保安院が、国が主催した原発プルサーマル発電に関するシンポジウムにおいて、四国電力伊方原発、2006年)や中部電力浜岡原発、2007年)に対し、参加者の動員と発言を組織するよう指示していたというのだ。こんな報告を受けた資源エネルギー庁は、楽屋裏がばれてさぞかし驚いたことだろう。(電力企業の方は、この際、国に責任を転嫁する機会に利用して報告したのだろう)。

経産省は、当時「プルサーマルの必要性」に関する参加者のアンケート調査結果として、「理解できた」「だいたい理解できた」「少しは理解できた」とする肯定的回答が合わせて86.4%(伊方原発)、81.0%(浜岡原発)に達したとシンポジウムの成果を公表し、「プルサーマルの必要性と安全性について、地元の方から一定の理解をいただいた」(浜岡原発)との見解も紹介していた(朝日、7月30日)。各地の原発シンポジウムは、国が最初から最後まで取り仕切った“自作自演”の田舎芝居(それも大掛かりな)だったのである。

今回の九州電力玄海原発の運転再開をめぐる説明会(番組)では、表舞台の国の役割を裏方である佐賀県知事が果たしたということだろう。元九電社員を父に持つ自治省官僚出身の古川知事なら、その辺の「阿吽(あうん)の呼吸」は心得ていたはずだ。古川氏は、九電の「やらせメール事件」が発覚したときは、記者会見で九電の取った行動は「けしからん」と激しく批判していた。ところが蓋を開けてみると、知事自身が九電副社長らに対して説明会直前に「この機会に再開容認の声を出すべきだ」と促していたのである。(各紙、7月31日)

海江田経産相に任命された第三者委員会の郷原委員長は、事情聴取した九電関係者のメモをもとに、知事発言が結果的に「やらせメール事件」を引き起こしたとの見解を発表した。事実、古川知事と会談した九電幹部は、知事の意向をメモにして添付し、社内に向けて「やらせメール」指示を配信している。知事の「お墨付き」を得たので堂々とやったのだ。

この会談については、九電側は「古川知事の政治責任に重大な影響が出る可能性がある」と認識し、国に対しても知事との会談の存在を伏せていた。「やらせメール」の実行犯である九電が、知事との会談が「重大な政治責任」をともなう会談、すなわち「やらせメール」についてお墨付きを得た会談であったことを十分理解していたのである。
 
三者委員会の調査にともない、のっぴきならぬ事態に追い込まれた古川知事は緊急会見を開き、「九電に何かやってほしいという意味ではない」とか、「私の発言が引き金になったわけではなく、九電がそうしたかったと受け止めている」とか、必死になって火消しに努めている(朝日、7月31日)。でも地元では、「知事は九電とグルだ」との噂が一気に広まっている。知事の政治的・道義的責任は、明白だといわなければならない。

それにしても、原子力安全・保安院の行動と体質は「恐るべき」との一言に尽きる。国民のために原発の安全を監視するはずの機関が、原発を推進する経産省と電力企業のための「国営の宣伝機関」に堕していたのである。その実態と本質は、巨額の広告費で電力企業の事実上の宣伝機関となっているマスメディアなどよりもはるかに悪質であり、これでは「原子力安全宣伝・保安院」といわれても仕方がない。

前任者(西山某)の不祥事件による更迭を受けて、新しく原子力安全・保安院のスポークスマンとなった森山原子力災害対策監は、浜岡原発のシンポジウム当時、保安院の「安全課長」としてパネリスト出演していた。いわば中部電力に「やらせ対策」を指示した当時の国家機関の中枢にいた人物であり、“自作自演”の中心人物だといってもおかしくない立場にあった。その人物が、記者質問に対しては、「(やった)記憶がない」というのである。自分はやっていないが、「誰かがやった」とでもいうのであろうか。

「記憶にない」との発言は、1976年に「ロッキード事件」に関する衆院予算委員会において、証人喚問された田中角栄元首相の「刎頚の友」である小佐野賢治氏が連発した言葉で、この年の流行語にまでなった。認めたくない事実を断定的に否定すると、後でそれが真実だと判明した場合は「虚偽証言」として起訴対象になるので、「記憶にない」という表現で訴追を逃れようとした巧妙な作戦だとして評判になった言葉だ。

森山スポークスマンの「記憶にない」発言は、小佐野氏以降、政治家や灰色高官の慣用句となった胡散臭い(ダーティーな)空気を想起させる。森山氏は原子力安全・保安院のスポークスマンである以上、森山氏の発言は国家機関の公式表明であって、個人の見解ではない。原子力安全・保安院が「やらせ」をやった事実が判明しているにもかかわらず、その段階でなおスポークスマンが「記憶にない」などというのは、個人見解と機関の公式表明を意図的に混同しようとしたもので、許されるものではない。

原子力安全・保安院は、真実に忠実でなければ原子力災害から国民の安全を守ることができない国家機関である。原発事故や安全性に関する情報の透明性や公開性が何よりも求められる原子力の監察機関である。だからこそ、スポークスマンの発言は事実に基づく厳密な正確さをもって公表されなければならず、情報の信憑性(しんぴょうせい)を疑われるだけで組織の存在意義は崩壊するといっても過言ではないだろう。

原子力安全・保安院経産省から切り離して内閣府原子力安全委員会と統合し、独立機関にするとの話が出ている。IAEAから指摘されていたことを遅まきながらやろうというのだろうが、組織分離だけで事が済むとは考えられない。「組織は人」である以上、保安院も安全委員会も「人」(幹部)を総入れ替えすることなしには、「元の木阿弥」になるだけだ。

中国でも高速鉄道事故を引き起こした鉄道省の解体論が浮上しているのだという(朝日、8月1日)。日本では新幹線の安全性と比較して、もっぱら技術的視点からのニュースが続いているが、私は中国鉄道省(鉄道利権共同体)と日本の「原子力ムラ」(原発利益共同体)は、全く同質同根の組織体だと見る。それが日本では福島原発事故となり、中国では高速鉄道事故になっただけの話なのだ。だから事故を根絶するには、組織を分離するといったレベルではなく、組織を解体して再編する以外に方法はない。次回はこの点について述べる。(つづく)