阪神・淡路大震災20年が物語るもの、1960年代の「輝ける神戸」と21世紀の「冴えない神戸」を比較して、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その1)

 2015年の新年を迎えた。昨年1年間は、橋下大阪市長の「出直し選挙」に始まり、安倍首相の「アベノミクス選挙」で暮れた「選挙尽し」の1年だった。拙ブログも日ごとに変わる情勢に振り回され、その場しのぎの議論に終始してしまった。今となっては深く反省するばかりだ。といって、日記代わりに書いているブログなので、熟考を重ねていたら次々と変わる情勢に追いつけないことも確かだ。通常、早朝の2〜3時間を執筆に充てているが、その日の朝刊を読むとまた考えが変わるのでそのまま書くことにしている。だから、情勢が突然変わったりすると話が頓珍漢になって読むに耐えない代物になる。申し訳なく、そして面目ないことだと思う。

 しかし、情勢分析のズレや判断の誤りなどにはそれなりの原因と背景があることも事実だろう。だから、拙ブログは明白な事実関係の誤りや誤字脱字の類を除いては訂正をしないことにしている。「なぜ間違ったのか」ということも含めて、読者諸氏にありのままの判断を仰ぎたいと考えるからだ。その代わり1回ごとの「読み切り」にはせず、できるだけ「シリーズ」にすることで誤りの是正に心掛けるようにしている。それでも物足りないのは、これは偏に私の力量不足以外にない。

 いつも新年になって悩むことは、これまでのテーマを継続して書き続けるか、それとも新しいテーマに切り替えるかの選択を迫られることだ。力量があれば複数のテーマを同時に執筆することも可能だが、並みのレベルの能力では難しい。東日本大震災のときもそうだった。2011年3月から直ちに書き始めるはずだったが、準備や現地訪問に時間をとられ、結局書き始めたのは約1年後の2012年4月からのことだった。それから翌年2013年の2月末まで凡そ110回余り書いて最初のシリーズを終えたが、それ以降はもっぱら大阪の橋下維新問題に手を取られてしまい、いまだに被災地への再訪問を果たせないでいる。

 東日本大震災の復興は、阪神・淡路大震災よりも遥かに長期の取組みを必要とするだろう。その意味では被災直後の現地調査などはほんの「皮切り」であって、これからが本当の意味での正念場を迎えるといってよい。東日本大震災は今年3月で4年、来年3月で5年の節目を迎える。被災地では「当面の課題」への対応が一応終わり、「中長期的な課題」が否応なく浮かび上がってくる時期である。現地に滞在する友人たちと共にこれから十分な準備を積み重ね、「被災5周年の東北地方を訪ねて」をそう遠くない時期に再開したいと思う。

 ところでもうひとつ、今年は阪神・淡路大震災から20周年に当たる。神戸市など地元被災地では盛り沢山のイベントや記念出版が用意され、年初から17日にかけてはマスメディアもそれ一色に染まるだろう。だが、「十年一昔」という言葉があるように、「二十年二昔」に当たる歴史的時間の持つ重みは格別のものがあるのではないか。通り一遍の追悼式や記念行事(だけ)で終わらせることなく、この20年間が被災地の復興にどのような足跡を残してきたのかを検証し、20年という月日をかけて初めて見えてくる復興の実体をありのままに見ることが求められると思う。この視点は、今後数十年あるいはそれ以上の年月を必要とする東日本大震災の復興にとっても有意義であり、かつ必要なことだといえるだろう。

 このような歴史的検証の営みは、組織的な取組みが必要であることはいうまでもない。だがその一方、それだけでは多様な側面を見逃す可能性も否定できないだろう。「歴史は時の権力者の歴史」ともいわれるように、検証する組織や体制のあり方によって検証する対象の取捨選択が行われ、結論もまたその意向によって左右されることは、最近の福島原発事故調査報告でも記憶に新しいからだ。また阪神・淡路大震災はすでに20年前のことであり、すでに膨大な検証記録が公にされているので「評価が定まっている」と思っている人も多いに違いない。そんな中で、私のような一個人が阪神・淡路大震災のことを語ることがどれだけ意味があるのかを問われることも十分承知している。

 それでいてなお、阪神・淡路大震災のことを語りたい、語らなくてはならないと思うのはなぜか。それは、震災後の神戸市に余り元気がなく、大震災の後遺症にいまだ苦しんでいるように見えてならないからだ。私が都市計画・まちづくりの研究を始めた1960年代後半、当時の神戸は日本の「輝ける都市」だった。コルビジェがパリを舞台にして『輝ける都市』を提起したように、神戸は日本の「輝ける都市」だったのである。次から次へと繰り出される都市計画の斬新なアイデアとプロジェクト、マスタープラン(1965年)に基づく計画的なまちづくり、全てが「ハイカラ神戸」を彩る近代都市計画の華のように見えたものだ。

 そんな神戸に憧れて市役所を訪ねたのは確か1967年の夏、宮崎市政が誕生するちょうど2年前のことだった。当時、京都大学建築学科の助手だった私は研究室の大学院生とともに市企画調整局を訪れ、局幹部の方々から丁寧な説明を受けた。そのときから私は「神戸フアンクラブ」の一員、いや事務局メンバーになったのである。(つづく)

●ここ当分、橋下維新問題は休載にして「阪神・淡路大震災20年」のことを書くことにします。橋下問題は、随時『リベラル21』の方に書きますのでご笑覧ください。