神戸市はなぜ震災発生から僅か2ヶ月で「復興都市計画=災害便乗型都市計画」の決定を強行したのか、神戸新聞連載記事で明らかになった恐るべき「神戸市役所一家=市役所共同体」の体質、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その11)

 神戸空港・地下鉄海岸線・新長田駅南再開発の「創造的復興3大プロジェクト」の背景にあるのは、市役所一家の抜き差しのならない官僚主導・ハコモノ偏重の体質だ。そのことを象徴するのが、震災発生から僅か2ヶ月で強行決定された「復興都市計画」をめぐる経緯である。私がこの事実を初めて知ったのは震災から数年後のこと、発災当時は知る由もなかった(秘密裏に強行された)。

 最初に「復興都市計画」に関与したコンサルタントから直接この話しを聞いたときは、「まさか」との思いが強く信じられなかった。しかし歴史というものは恐ろしいもので、時が経ってくると「思い出話」のような形で少しずつ事実(真実)が明らかになってくる。当時の神戸市都市計画局長の座談会記録やこの事態に対応した建設省幹部の土木学会シンポでの報告などを継ぎ合わせると、神戸市が阪神・淡路大震災を「千載一遇のチャンス」と捉え、被災者救済を後回しにして再開発計画のための調査に走り回っていた恐るべき事実が浮かび上がってくる。

 でも関係者の証言だけでは、証拠能力には限りがある。震災当時、私は被災地の状況をリアルタイムで知りたいと思い、3年間ほど神戸新聞を購読していた(京都なので翌日郵送配達)。しかし記者たちは現場の記事で忙殺され、当時は市役所内部の情報を系統的に追求する余裕がなかったのだろう、余り目ぼしい情報は得られなかった。ところが東日本大震災が起こってからというものは、神戸新聞の記事に大きな変化があらわれるようになったのである。東日本大震災と比較しながら阪神・淡路大震災を検証する、といった彫りの深い紙面が登場するようになったのだ。

 その中でも白眉の存在は、2012年8月17日から10回にわたって神戸新聞に掲載された『まちをつくる〜二つの震災、続く葛藤』(安藤記者)という連載記事だろう。神戸の友人からこの記事を送ってもらった私は、地元紙でしか得られない(一方、地元紙であるだけに書きにくい)内部情報をもとに、かくもリアルに2つの大震災を比較して復興計画の問題点を抉った力作(力量)に感服するほかなかった。ジャーナリストは(これは研究者でも同じことだが)現場に密着すると同時に、ときには現場から距離を置いてはじめて全体状況を俯瞰することができる。歴史は東日本大震災を通して、当時は書けなかった(わからなかった)阪神・淡路大震災の実相を明らかにすることを求めており、この連載記事はまさにその歴史的ミッションに応えたものといえる。連載記事は次ぎのような出だしで始まる。

 「東日本大震災から間もなく1年半。被災地では、高台移転などの計画がようやく出そろいつつある。阪神・淡路大震災では、行政がわずか2カ月で区画整理や再開発の事業方針を決めた。『拙速』との批判を浴びながらも突き進んだ17年前と、東日本の被災地の現状は何が違うのか。国と自治体、住民の思いが交錯する『復興まちづくり』の実相に迫る」。

記事は膨大な内容にわたるため、ここでは「復興都市計画」の経緯に関する部分だけを抜粋して要点を解説しよう。第1は、神戸新聞社が入手した内部文書の内容が、神戸市の「復興都市計画」の狙いと性格を遺憾なく暴露していることだ。関係する記事は以下のようになっている。

 「地震発生から約5時間後、総務局が都市計画局と住宅局に対し、被災地図の作成を命じている。被災地を回り、住宅地図に被災状況に応じた色を塗っていった。作業は急を要した。職員向けの要領には、『(市民から)救援依頼があっても無視して作業をせざるを得ない』とある。街では救急隊員の手が足りず、住民らが近隣の救助活動に駆け回っていた」

 この記事は、拙著(『開発主義神戸の思想と経営―都市計画とテクノクラシー』、日本経済評論社、2001年)の中で言及した市都市計画局長の言葉、「1月17日の翌日から、実質的に仕事が始まったわけです。(略)職員が自転車あるいは徒歩で被災地に出向いて行ったということです。そういう時に住宅地図を持ちながら地元へ行きますと、『何をしているのか』、『こういうときにそういうことをせずに水を運んで来い、食糧をもってこい』というような話が出てきまして、職員も悩みながら仕事をしていたわけなんです」という発言と合致している。

 拙著を出版した2001年当時、私は震災翌日からの被災地調査(被災者調査ではない!)が都市計画局の主導によるものだとばかり思い込んでいた。しかし今回の内部文書で明らかになった事実は、2つの意味で私の理解をはるかに超えるものだった。第1は総務局が都市計画局と住宅局に調査を命じたという事実、第2はそれが震災発生直後(5時間後)に出されたという事実である。総務局は市行政全体の司令塔であるから、総務局長の命令は市長決済がなければ発令できない。したがって笹山市長がこの(冷静な)命令を下したことになると考えてよい。

 私にはとうてい理解できないのであるが、あの大震災が発生した直後、被災者が倒壊した家屋の下敷きになっているとき、そして消防隊員が必死になって消火活動と救急活動に当たっているとき、被災者救出とは何の関係もない(都市計画のための)被災地図の作成をどうして市長が命ずることができるのかということだ。(つづく)