30年足らずの間に3度の大地震に見舞われた日本列島、2024年は能登半島地震と羽田航空機事故で明けた

 昨年暮れ、自民党政治資金(裏金)疑惑をめぐる東京地検特捜部の安倍派事務所と二階派事務所の強制捜査が始まり、日本政界に衝撃が走った。「パンドラの箱」を開けた――とまではいかないが、情勢によっては今後思いもかけない展開が待っているかもしれない。だが、積年にわたる金権腐敗の腐臭に慣れた政権与党の面々はいっこうに動こうとしないし、沈殿した汚泥を取り除こうともしない。風向きが変われば、そのうち何処かへ消えてゆくとでも思っているらしい。

 

 そんなどす黒い空気が漂っている所為か、新年を迎えても何だかお祝いの言葉を交わす気持ちになれなかった。そんな元旦の午後、能登半島で大地震が発生し、翌日には羽田空港で日航機と海上保安機が衝突して炎上する大事故が起こったのである。能登半島地震は震源地が広範囲にわたっているからか、日本海沿岸はもとより近畿地方でも大きな横揺れを感じた。京都伏見の拙宅にも30秒を超える横揺れが続き、全ての電源を切って飛び出す用意をしなければならないほどだった。

 

 「天災は忘れた頃にやってくる」という有名な言葉がある。科学者であり随筆家でもあった寺田寅彦の言葉だ。だが、今は違う。「天災は忘れないうちにやってくる」ようになった。1995年1月の阪神・淡路大震災、2011年3月の東日本大震災、そして2023年1月の能登半島地震とこの30年足らずの間に日本列島は3度にわたる大地震に襲われた。とりわけ東日本大震災では、チェルノブイリ原子力発電所事故に続く福島原発事故によって、現在においても広範な地域が放射能汚染によって「居住制限区域」に指定されて無人地帯となっている。東日本大震災については、拙ブログで2011年3月17日から2013年2月28日までの2年間、200回を超える長期シリーズとして連載した。今となっては見るも恥ずかしい駄文の連続だが、当時の現況を伝える現地記録としては一定の意味があると考えている。今回は東日本大震災はさておき、まだ拙ブログを始めていなかった阪神・淡路大震災のことについて語りたい。

 

 私が最初に遭遇した大地震は、1995年1月真冬の阪神・淡路大震災である。淡路島から神戸の中心市街地にかけて震度7の「激震ベルト」が走り、一帯のビルや家屋が根こそぎ倒壊した。20万棟余に及ぶ建物倒壊によって死者は6000人を超え、神戸の私の知人や友人、その家族も多くが被災者となった。当時私が勤務していた京都市内の大学には、神戸や尼崎周辺から多数の学生が通学していた。一刻も早く安否を確かめるためあらゆる手段を講じたが、電話がつながらず交通が途絶していたためいっこうに埒が明かない。新聞(神戸新聞社が壊滅し、京都新聞社が代わりに印刷していた)やエフエム放送での呼びかけも効果がなく、最後はクラスメートや教員が集団で現地まで行って直接確かめるほかなかった。一行は辛うじて動いていた阪急電車で西宮北口駅(それ以遠は途絶)まで行き、そこから神戸市内まで数時間以上かけて歩いた。幹線道路は緊急車両や霊柩車(全国から動員されていた)で溢れ、沿道の小学校は遺体安置場になっていた。地元の火葬場が壊滅していたため、近畿一円の火葬場に遺体を運ぶヘリコプターが校庭からひっきりなしに離着陸していた。

 

 被災地支援にはいろんな段階がある。地震発生直後は被災者の救出・救命活動が最優先されることは勿論だが、地震が収まると継続的な生活復旧支援が求められ、その次は長期にわたる都市計画やまちづくりが課題となる。この期間がどれぐらいになるかは、それぞれの地域の姿(大都市・地方都市・農山漁村など)によって異なり、被災状況によっても異なる。しかし大事なことは、復旧復興支援の方法を誤るとそれが「二次災害」の原因になり、「復興災害」に化す場合もあるということである。

 

 兵庫県や神戸市は災害対策の先進自治体だと言われているが、実態は必ずしもそうとは言えない。そのことは、原田純孝編『日本の都市法Ⅱ、諸相と動態』(東大出版会、2001年)の「阪神・淡路大震災における震災復興都市計画の検証――20世紀成長型近代都市計画の歴史的終焉」、『開発主義神戸の思想と経営、都市計画とテクノクラシー』(日本経済評論社、2001年)で検証した。その後、兵庫県医師会長や震災復興研究センター事務局長らとの共著『神戸百年の大計と未來』(晃洋書房、2017年)、市民検証研究会編『負の遺産を持続可能な資産へ、新長田南地区再生の提案』(クリエイツかもがわ、2022年)、日本災害復興学会編『災害復興学事典』(朝倉書店、2023年)の「復興概念の政治性」の中で阪神・淡路大震災の歴史的総活を試みた。

 

 阪神・淡路大震災の特徴を一言で言えば、日本が1991年のバブル崩壊を機に低経済成長と人口減少などを基調とする「失われた20年=ポスト成長期」に移行したにもかかわらず、兵庫県や神戸市は依然として高度経済成長時代の夢を捨て切れず、震災を「千載一遇のチャンス」として阪神地域の大改造を決行しようとしたことである。とりわけ「開発主義の権化」とも言うべき神戸市は、震災発生5時間後に市長命を受けた総務局長が都市計画局・住宅局職員2百数十名に(救出・救命活動を二の次にして)被災地図の作成を命じるという信じられないような行動に出た。そして、この被災地図をもとに10数日間で(秘密裏に)「震災復興都市計画案」を作り、地震発生2ヶ月後に都市計画審議会を開き、会場を取り囲んだ被災者や市民の反対を押し切って計画決定を強行したのである。避難所に被災者が溢れているという非常事態の中で強行決定された神戸市の震災復興都市計画は〝災害便乗型復興都市計画〟そのものであり、〝ショック・ドクトリン政策〟の日本版ともいえる世紀的暴挙だった。(能登半島の被災地において、もし市町村職員が救出・救命活動を二の次にして被災地図の作成を最優先したとしたら、それがどんな結果をもたらすかを想像してほしい)。

 

 私は1960年代後半から神戸市の住宅政策に関わり、心ある市職員とともに長田区の下町(木造密集市街地)のすまい・まちづくりを支援してきた。それが災害便乗型都市計画によって断ち切られたことへの憤りと抗議の意味を込めて、震災発生後1年目に『震災・神戸都市計画の検証~成長型都市計画とインナーシティ再生の課題~』(自治体研究社、1996年)を書いた。全ての図書館が閉鎖されているなかでの極めて困難な作業であったが、それが市幹部の怒りを買ったのか、程なくして20数年間務めてきた住宅審議会委員を解任された。神戸でのまちづくり研究と実践については、『現代のまちづくりと地域社会の変革』(学芸出版社、2002年)で詳しく解説している。

 

 それから30年近い時間が流れたいま、震災復興都市計画事業の目玉ともいうべき「新長田南地区災害復興計画」(焼け野原となった市街地に計画された日本最大級20ヘクタールの大規模復興再開発事業)は2300億円近い予算を投入したにもかかわらずいまだ完了せず(さらに赤字500億円余を予測)、しかも中心街の巨大商店街はシャッター通りと化して「ゴーストタウン」さながらの様相を呈している。高度経済成長時代の夢を実現しようとした災害便乗型復興計画事業はいまや〝20世紀の負の遺産〟と化し、人口減少に悩む神戸市の持続的発展を阻んでいるのである。

 

 しかしながら、阪神・淡路大震災はその一方で「阪神・淡路まちづくり支援機構」という日本で初めての災害支援を目的とする専門家集団を生み出したことを特記しなければならない。私も及ばずながらその設立に尽力したが、同支援機構は東京・東海を始め全国各地での専門家集団設立のモデルになり、また東日本大震災では調査団の派遣、現地での地元専門家集団と交流など活発な活動を続けている。同機構のホームページには、設立趣旨や経過が次のように記されている。

 ――1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、約20万棟を越える建物が全半壊・全半焼しました。阪神・淡路まちづくり支援機構は、この阪神・淡路大震災による被災地における市民のまちづくりを支援するために設立された団体です。まちづくりの主体となるのは、あくまでも当該地域の市民にほかなりません。しかし、まちづくりは、土地、建物という不動産にかかわることであり、法律問題一般の他、登記、測量、税務、不動産の評価、設計という多くの専門知識が必要になります。これは単一の専門家では対応できるものではなく、このようなニーズに十分応えるためには、弁護士、司法書士、土地家屋調査士、税理士、不動産鑑定士、建築士という専門家の連携が必要となります。そこで支援機構は、専門家が垣根を越えてワンパックで被災地の市民のまちづくりを支援するために設立したものです。

 ――このように支援機構は、上記の専門家である6職種・9団体が連携して被災地の市民のまちづくりを支援できるようにするとともに、日本建築学会、都市住宅学会の協力を得て1996(平成8)年9月4日に設立されました。支援機構は個人の組織した団体ではなく、専門家団体が組織した我が国で初めての横断的NPOです。構成団体は以下のとおりです。大阪弁護士会、兵庫県弁護士会、近畿税理士会、近畿司法書士会連合会、土地家屋調査士会近畿ブロック協議会、社団法人日本不動産鑑定協会近畿地域連絡協議会、社団法人日本建築家協会近畿支部、近畿建築士会協議会、建築士事務所協会近畿ブロック協議会。

 ――まちづくりを行うには、国、自治体等の行政との連携も不可欠であり、支援機構は行政とも協力しながら活動をしています。支援機構は、主に都市計画決定のなされていない地域(これを「白地地域」といいます)におけるまちづくりの支援を行うことにしていますが、いたずらに行政と対抗関係に立つのではなく、また行政の下請けになるのでもなく、対等な立場で行政と連携しながら市民のまちづくりを支援するものです。被災地の経験や蓄積されたノウハウを他の地域に伝えるのは、被災地の義務であると考えられます(これを神戸大学の室崎益輝教授は「被災地責任」と呼びます)。支援機構は今後も、被災地責任をはたすために、全国に対し、被災地の市民のまちづくりを支援するため、専門家、行政、NPO及び研究者の連携による支援機構の設立を呼びかけて行きたいと考えています。なにとぞ、ご理解とご協力をいただきますようお願い申し上げます。

 

 支援機構の活動は、東日本大震災の震災復興都市計画にも大きな影響を与えている。「巨大施設はつくらない」「持続可能なまちづくりを目指す」「国や自治体の行政計画を丸のみしない」「信頼する専門家集団のアドバイスを受ける」「自分たちの頭で考え、自分たちで実行する」などなど、阪神・淡路大震災の教訓が生きた形で受け継がれているのである。能登半島地震は目下救出・救命活動が先行する緊急事態にあるが、その後の生活復旧支援やまちづくりの段階においては、支援機構の経験や助言を大いに活用してほしい。(つづく)