再録『ねっとわーく京都』2011年6月号、“創造的復興”は東日本大震災を救えるか、私たちは阪神淡路大震災の歴史的教訓に学ばなくてはならない(広原盛明の聞知見考、第5回)

あれから時間が止まった
 東日本大震災の発生からもう1カ月余り(2か月近く)になる。だが、現場での懸命の支援活動にもかかわらず、被災地の復旧は遅々として進んでいない。なかでも深刻なのが、福島第1原子力発電所の事故だ。原発周辺はおろか10キロ・20キロ内の避難地域では、被災者は行方不明になった家族すら探しに行けない。こんな悲惨な災害が過去にあったであろうか。
避難所で日々不安な生活を送る被災者たちは、あれから時間が止まったままだという。地震が発生し、津波が職場・学校・病院・住まいを襲い、原発の建屋が爆発してから今日に至るまで、事態は基本的に何ひとつ解決されずに放置されている。被災者にとっては、あれから時間がずっと止まったままなのだ。
だがしかし、原発事故はいっこうに収まる気配がない。現場での決死の作業にもかかわらず、事故収束の目途が立っていない。4月17日に発表された東京電力の事故収束に向けての「工程表」は、原発安定のための単なる「目標と課題」を並べたものにすぎない。現に発電所構内の高濃度汚染水が減らず、原子炉の冷却システムを構築できないので、放射能汚染は空に海に広がる一方なのだ。
すでに多くの作業員の被曝量は限度を超え、避難地域(居住禁止区域)は30キロを超えて拡がりつつあり、4月11日には「計画的避難区域」が新たに追加された。いつ帰れるかの保証もなしに、当該地域の住民は住み慣れた家や故郷を後にしなければならなくなり、困惑と動揺が日増しに拡がっているのである。

凍るような不安と恐怖
 私は、これまで多くの災害現場に接してきた。国内では、阪神大震災はもとより中越地震鳥取西地震能登半島地震など各地の被災地を救援活動や復興調査のために訪れた。兵庫県の出石大水害や京都府の丹後大水害の調査にも行った。海外ではこの1、2年の間に、インドネシア北朝鮮ニューオーリンズの被災現場を目の当たりに見てきた。現場に立たなければわからない災害の悲惨な実態に触れる度に、いまなお心の痛みや身の引き締まる思いが込み上げてくる。
でも、今回の東日本大震災はいままでの災害とは決定的に違う。まだ現場には行ってはいないが(4月29日〜5月4日の約1週間、阪神まちづくり支援機構の1員として被災3県に支援活動に入る予定)、新聞やテレビで被災地の状況を知る度に、身体に不安と戦慄が走るのを抑えることができない。それも大津波で根こそぎ破壊された沿岸地域の光景を見たときだけでなく、一見何の変哲もない中山間地域の地方都市や農村の風景に対してである。
目に見える光景は、それがどんな悲惨なものであれ、私たちがそれを直視すれば事実を知ることができる。でも放射能は見えない。臭いもしない。なのに、住民は有無を言わさず退避を強制され、住み慣れた地域から引きはがされる。目に見えない放射能汚染の脅威がどれほど人々の不安と恐怖を掻き立て、日常生活を破壊するものか、いま私たちは日々24時間、そのことに向き合わざるを得なくなっている。

“創造的復興”が語られはじめた
 福島第1原発事故が日に日に深刻化・長期化の様相を深め、日本国内はもとより世界各国が危機意識を高めつつあるとき、どういうわけか、その一方で「単なる復旧ではない“創造的復興”」を掲げる主張が、最近になって一斉にキャンペーンされ始めた。
菅首相は4月1日の記者会見で、「すばらしい東北、日本をつくるという夢を持った復興計画を進める。世界で一つのモデルになるような新たな街づくりをめざしたい」、「山を削って高台に住むところを置き、海岸沿いの水産業(会社)、漁港まで通勤する」、「植物やバイオマスを使った地域暖房を完備したエコタウンをつくり、福祉都市としての性格も持たせる」など、東日本大震災の被災地再生の「まちづくり構想」を熱っぽく語ったという。
また4月14日には、設置されたばかりの政府の「東日本大震災復興構想会議」の初会合が首相官邸で開かれ、その動きが大々的に報道された。復興構想会議の設置の趣旨は、「未曾有の被害をもたらした東日本大震災からの復興に当たっては、被災者、被災地の住民のみならず、今を生きる国民全体が相互扶助と連帯の下でそれぞれの役割を担っていくことが必要不可欠であるとともに、復旧の段階から、単なる復旧ではなく、未来に向けた創造的復興を目指していくことが重要である。このため、被災地の住民に未来への明るい希望と勇気を与えるとともに、国民全体が共有でき、豊かで活力ある日本の再生につながる復興構想を早期に取りまとめることが求められている」というものだ。(首相官邸ホームページ)

なぜ復旧ではなく、“創造的復興”なのか
 会議の冒頭、菅首相は「(被災地は)ただ元に戻す復旧でなく、創造的な復興(ビジョン)を示してほしい」と述べ、それに応えて議長の五百旗頭真防衛大学校長が会議の基本方針として、(1)超党派の国と国民のための会議、(2)被災地主体を基本とし国としての全体計画を作る、(3)単なる復興でなく創造的復興を期す、(4)全国民的な支援と負担が不可欠、(5)明日の日本への希望となる青写真を描く、の5項目を示した。また会議後の記者会見では、「復興に要する経費は阪神大震災時の比ではない。国民全体で負担することを視界に入れないといけない」として、まだ議論もしていないうちから「震災復興税」の創設をいきなり提唱した。
菅首相がぶち上げた“創造的復興(ビジョン)”は、松本健一内閣官房参与(文芸評論家)が首相に面会し、「流された所を国が買い上げ、漁港、魚市場、加工場、駐車場を整備し、そこに山の上(の住宅地)から通う。公共事業にもなり、雇用にもなる」と、意見具申した内容がそのまま下敷きになっているらしい。だがそのときの両者の会話の中には、後で政治問題化する重大な意見交換が含まれていた。
それは、松本参与が最初は「菅首相の言葉だ」として記者団に漏らし、後になって「自分が言った」として訂正した「原発の周囲30キロあたりは20年、30年住めない」といった趣旨の内容である。松本参与の最初の発言がもし事実だとすれば(私は事実なのだろうと思う)、被災地はもとより私たち日本国民が直面している東日本大震災の危機は、実は容易ならぬ事態と段階に立ち至っているといわなければならない。もし事態がそこまで深刻化しているのであれば、いま政府のなすべきことは「最悪の事態」に立ち向かう抜本的対策の立案であり、今後長期化するかもしれない放射能汚染地域の自治体や地域住民に対する責任ある保障と全面的な生活再建策の提示でなければならないはずだ。
だがこの「最悪の事態」「国難」に対して向き合おうとしない菅首相が採った方策(方便)は、東日本大震災が巨大地震・巨大津波原発事故という「三位一体の大災害」であるにもかかわらず、原発事故問題を復興議題から切り離して“創造的復興”という甘いキャッチコピーで包みながら、国民の目を悲惨な現実から逸らせようとする、小手先の「目くらまし」キャンペーン作戦の開始だった。

阪神淡路大震災のときも“創造的復興”だった
 私が“創造的復興”を簡単に信用しないのには訳がある。それは阪神淡路大震災復興計画の策定時、当時の兵庫県知事や神戸市長が「復旧よりも復興」を声高に叫び、災害を奇禍とした「大ハコモノ計画」を推進しようとした歴史的経緯と事実があるからだ。そしてこれに輪をかけて議論をリードしたのが、政府の阪神淡路復興委員会委員長に任命された下河辺淳氏(日本の5つの総合開発計画を全て策定したテクノクラート官僚、元国土事務次官)だった。
下河辺氏は、復興委員会の議論の進め方として「緊急3カ年計画」「復興10カ年計画」「21世紀に向けた長期ビジョン」の3段階に分けて復興委員会が意見を述べることとし、うち被災者の生活再建に直結する「緊急3カ年計画」に部分は兵庫県や神戸市などに任せて実質的に議論せず、復興委員会は「復興10か年計画」と「21世紀長期ビジョン」を中心にして提言することを提案した。
そして「私は阪神の復興というのは思い切ったビジョンを言うことだと思っているんです」、「復興委員会が履行に近いところまで発言するのはちょっとしんどさを感じるんですね」、「復興委員会もだんだん特定事業(巨大ハコモノ事業)の楽しい話に移行したい。そうしないといつまでも暗くてですね」などと言って、強引に意見集約を進めた。
以降、阪神淡路大震災復興計画は“創造的復興”(大ハコモノ計画)一色で染められ、「復旧」(被災者の生活再建)がなおざりにされる方向へ一路傾斜していった。結果は、鉄とコンクリートで固められたハコモノ・インフラは従前以上の規模で復興したものの、肝心の被災者や県外避難者の数は調査されることもなく放置され、正確な数字はいまだに分からないままだ。このことは誰もが否定できない歴史的経緯であり、厳然とした事実なのである。
こうした“創造的復興”の経緯と背景については、拙著(3冊)を参考にしてほしい。『震災・神戸都市計画の検証』(自治体研究社、1996年)、『開発主義神戸の思想と経営―都市計画とテクノクラシー』(編著、日本経済評論社、2001年)、『日本の都市法Ⅱ、諸相と動態』(原田純孝編著、東大出版会、2001年)のなかの拙稿「阪神淡路大震災における震災復興都市計画の検証―20世紀成長型都市計画の歴史的終焉」の3部作に、全てを書いたつもりだ。

歴史の生き証人が語ってくれる 
“創造的復興”は、いったい被災地の行方にいかなる影響を与え、そしてどのような結果としてあらわれるのか。それは阪神淡路大震災復興計画の「目玉」として強行された神戸空港建設と新長田地区再開発事業の現状が「歴史の生き証人」として語ってくれる。
神戸市民挙げての反対運動を無視し、大震災の直後から神戸市長が「希望の星」と叫んで強行した神戸空港建設は、それ以降、膨大な赤字を垂れ流し続けて、神戸空港はいまや「廃港か存続か」の岐路に立たされている。とりわけ昨年の日本航空路線の全便撤退以来、空港利用者は半数近くにまで激減し、その後、格安航空便の就航はあったものの、今後の回復見通しは絶望的だといわれている。
神戸空港に行って見ればよい。日航カウンターは閉鎖されて周辺一帯はガランとした空きスペースが広がり、開港当初の予想乗降客数に合わせて進出した飲食店や売店は、いまや閉鎖・撤退の危機に直面している。数少ない発着便が終了した後の空港構内は、まるでゴーストタウンのような雰囲気で静まり返っているのである。
また、神戸市を活性化する決め手として推進された「新長田副都心再開発計画」の場合は、もっと悲惨だ。超高層ビル40棟を林立させた20ヘクタールの壮大な副都心地域をつくるはずだった大プロジェクト計画は、その後、再開発住宅や商店への入居者数が予測をはるかに下回って空き室・空き店が続出し、度重なる「計画変更」に追い込まれて、いまや「想定外」の事態に立ち至っている。
若者グループや家族連れの買い物客で溢れるはずだった広大な再開発商店街は、いまでは高齢者の姿がちらほら見られるだけで、シャッター通りに近い光景と化している。神戸市都市計画局の前宣伝を信じて入居した商店主たちは、数少ない利用客のあおりを喰って悉く経営難に陥り、いまやテナント料や共益費の支払い、ローン返済などに苦しむ「去るも地獄、残るも地獄」の状態に直面しているのである。

「元の復旧」でなにが悪いのか 
 話を東日本大震災の方に戻そう。今回の被災地の復旧復興計画は、私たちが未だかって経験したことがない、あるいは太平洋戦争の戦災復興に匹敵する困難な事業だと認識することからまず始めなければならない。だがそのことが直ちに“創造的復興”につながるかと言えば、話は別だ。
 政府の復興構想会議のメンバーの中には、ざっと数えても「ハコモノ屋」と目される人物が結構たくさんいる。なかにはゼネコンをバックにした防災専門家などもいて、すでに壮大な「鉄とコンクリートの塊」の復興計画案を幾つも用意していると伝えられる。被災集落や市街地を囲う「スーパー堤防建設計画」しかり、被災地全体を底上げする巨大な「人工基盤造成計画」しかり、「エコタウン」という名の高所の「大住宅団地造成計画」しかり、である。
 だが本來の意味での復興とは、被災者の生活再建を土台にした着実な「復旧事業」のことであって、決して「復興ビジネス」や「震災ビジネス」のための「儲け話」のことではない。漁師は、漁具や漁船そして水揚げ場や水産加工場がなければその日を生きていけない。百姓や酪農家は、田畑や牧草地、ハウスや畜舎、出荷場や加工場がなければ安定した所得が得られない。商店主や工場主は、まずは自分の店や工場を復旧させないことには、毎日の現金収入が手に入らないのである。
「元の復旧」とはすなわち被災者の仕事の確保のことであり、それを基礎にした生活再建のことだ。震災復興計画の出発点は、津波の被災地域であれ原発の避難区域であれ、まずはこの基本原則に立って進められなければならない。そしてこの原則から逸脱して、“創造的復興”との掛け声のもとに避難計画や仮設住宅の建設が強行されるときは、被災住民は漂流して「流浪の民」となり、被災地が鉄とコンクリートの「ゴーストタウン」になることは避けられない。

●補注:被災地の人びとは、阪神淡路大震災の「創造的復興」の象徴であるJR新長田駅前再開発地区がゴーストタウン化しつつある現状を見てほしい。