大阪都構想住民投票の敗北とともに「政界引退宣言」したはずの橋下大阪市長が、その舌の根も乾かぬうちに維新の党を割って新しい国政政党をつくるという。首相官邸の指示なら「引退宣言=政治公約」をドブに投げ捨てることも厭わない橋下新党は、厳しい国民の審判に晒されるだろう、大阪都構想住民投票後の新しい政治情勢について(1)、橋下維新の策略と手法を考える(その55)

 8月末の数日間、福島県原発事故被災地(相双地方、浜通りの北部に位置する相馬地方と双葉地方)を回ってきた。今年5月には巨大津波で壊滅した宮城県石巻市の復興状況調査のために雄勝地区に行き、被災者の方々と今後の取り組みについて意見交換してきたが、今回はそれとは全く異なる悲惨な状況に遭遇することになった。原発事故発生後すでに4年半近くなるにもかかわらず、被災地はそのまま放置されているのである。

福島第1原発、第2原発の煙突が見える国道6号線が昨年開通し(道路部分だけを除染、沿道区域は高線量の帰還困難区域なので立ち入りは許されない)、歩行者やバイクなどは依然として通行禁止だが、バスや乗用車は通れることになった。そこで南相馬市から南下して波江町、双葉町大熊町富岡町楢葉町広野町を縦断する視察ツアーが企画され、放射線測定器付のバスで国道6号を駆け抜けてきたというわけだ。そこには息を呑むような光景が広がっていた(詳しいことは、後日報告します)。

拙ブログでは東日本大震災が発生してから約1年後、「震災1周年の東北地方を訪ねて」を1年間かけて100回余り書いてきたが、足元の大阪で橋下維新の大阪都構想騒動が起こって以来、その対応に追われて本格的な調査報告は書いていない。いずれまとめて「東北地方訪問記、パートⅡ」を書くつもりだが、ここ当分は「安倍・橋下マター」に集中することをお許し願いたい。

今回の「橋下新党騒動」は予定の行動だといえる。大阪都構想住民投票で敗北を喫した橋下市長が大見得を切って「引退宣言」をしたその翌月、6月に安倍首相、菅官房長官、橋下・松井両氏の会談が(会食も含めて)3時間という異例の長時間にわたって持たれた。その直後からばったり途絶えていた橋下ツイッターが再開され、「維新の党は民主党と一線を画すべき」「民主党という政党は日本の国にとってよくない」といったメッセージが乱発され始めた。民主党との連携を目指す松野代表への牽制が開始されたのだ。

 柿沢維新幹事長の言動に対する松井氏の批判は、「橋下新党騒動」の単なる切っ掛けにすぎない。柿沢氏の行動に言いがかりをつけて予定の行動に移っただけのことだ。「ゴーサイン」は8月25日の菅・松井会談で確認され、以降、26日松井氏維新顧問辞任表明、27日橋下・松井両氏離党表明、28日橋下氏「大阪維新の会」で新党結成表明、29日橋下氏大阪府枚方市で新党結成を正式表明、大阪選出維新国会議員と意志統一などと矢継ぎ早に行動が移されてきた。この間、「党を割ることはない」との橋下メッセージの賞味期限はわずか1日となり、手の平を返す速度は一段と速くなった。まさに「電光石火の早業」というべきか。

 この一連の騒動は全国津々浦々をめぐる大ニュースとなった。滞在していた福島でも「福島民友」「福島民報」などの地方紙が連日1面で報じるなど、ことはもはや大阪という地域政党の域をはるかに超えて全国版に発展している。安倍政権が安保法案の参院強行採決を目前にして「橋下新党」の結成にゴーサインを出し、空前の国民世論を抗して安保法案を何が何でも成立させる手筈を整えたのだ。これが「橋下新党騒動」の顛末だ。

だがしかし、事態の進展は予断を許さない。安倍政権は70年首相談話で若干の内閣支持率の回復には成功したものの、国会を取り巻く未曾有のデモは一向に衰える気配がない。残念ながら昨日の国会デモには参加できなかったが、9月に入れば一段と反対世論が高まることは必至だ。この空前の世論に抗して無謀にも船出する「橋下新党」など物の数ではないというべきだろう。「親船・安倍丸」がいままさに難破の危機に直面しているとき、その親船に乗り移る橋下氏らの気が知れない。(つづく)