稲田防衛相のPKО日報に関する国会虚偽答弁の発覚で、安倍政権の内閣改造作戦は台無しになった、国民世論は「脱安倍」へと着実に向かい始めた(40)、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その71)

 京都では祇園祭の季節を迎えて連日猛暑が続いている。昨年の祇園祭は「くじ改め」(山鉾巡行の順番を確かめる儀式)の前で観覧する機会に恵まれたが、今年はさすがの暑さに閉口してパスし、家の中に引きこもっていた。なのに、政界では安倍政権の失態が次から次へと暴露されて火が噴き、熱気はますます高まる一方だ。

 7月19日の各紙朝刊は、防衛省南スーダン国連平和維持活動(PKO)部隊の日報を「廃棄」したとしながら陸上自衛隊が保管していた問題で、稲田防衛相が日報保管の事実を知りながら、防衛省自衛隊幹部が事実を非公表にするとの方針を了承していたと伝えている。

 稲田氏はその後の国会で、日報が陸上自衛隊で保管されていた一連の経緯については「報告を受けていない」と説明し、「改めるべき隠蔽体質があれば私の責任で改善していきたい」とまで踏み込んで答弁していた。答弁は真っ赤なウソで、事実は、防衛省自衛隊の最高幹部が集まった今年2月の緊急会議で、「廃棄」されていたとする日報が保管されていたことを公表するかしないかの討議が行われ、稲田防衛相が組織全体で公表しない(隠蔽する)ことに同意していたのである。

 稲田氏は、これまでもしばしば虚偽答弁の疑いで国会の追及を受けてきた。森友学園の顧問弁護士に就任していた事実も当初は「ない」と言い張り、法廷に出廷していた事実を突きつけられて漸く答弁を撤回し、自分の記憶に基づいて答弁したのであってウソをつくつもりはなかったなどの詭弁でその場を切り抜けてきたのである(安倍首相が任命責任の追及を恐れて罷免しなかった)。

今回も稲田氏は7月18日、このニュースを流した共同通信社の取材に対し、2月の緊急会議で非公表の方針を了承したかどうかの事実関係については、「ご指摘のような事実はありません」と書面で回答している。また19日午前には、防衛省で記者団に対し、日報を陸上自衛隊が保管していた問題について「隠蔽(いんぺい)を了承したとか、非公表を了承したとかいう事実はまったくない」と真っ向から否定した。菅官房長官も記者会見で、稲田氏から18日夜、電話で隠蔽を否定する報告を受けたことを明らかにし、「しっかり調査し、今後とも誠実に職務にあたってほしい」と激励したと言う。ウソの上塗りを平気で重ねる稲田氏や菅氏の態度は、ナチスゲッペルス宣伝相も「真っ青」というところではないか。

事柄の真偽は、今月24日に予定されている閉会中の予算員会審議の場で明らかにされるであろうが、その前に稲田氏が辞任して雲隠れすることも予想される。新たな防衛相の任命はまずないだろうから、安倍首相あたりが防衛相を兼任することになるかもしれない。しかし、その場合においても安倍首相は説明責任および任命責任を厳しく問われることになる。国民の疑惑には丁寧かつ真摯に説明すると言っただけに、この際、これまでの国会審議のような居直りやすり替えは一切通用しない。針のむしろに座るほかないのである。

安倍首相自身は「悪い時には悪いことが重なる」と思っているだろうが、このことは決して偶然に起こったことではない。これまでお友達内閣の度重なる弊害には目をつぶり、国政私物化の事実や責任を一切取ろうとしない積年の弊害が、ここにきて一挙に表面化しただけのことだ。来るべき時が来たのであり、自民党が安倍首相に追求が及ばないようにどれだけ野党の質問時間を削っても、国民は見るべきところを見ている。国民の信頼を失った首相はもはや「水に落ちた犬」同然なのであり、溺れるほかはないのである。

とはいえ、予算委員会審議を何とか乗り切って水辺に這い上がったとしよう。そこで待っているのは、内閣改造という次の難関だ。安倍政権は支持率が落ちるたびに内閣改造を繰り返し、表面だけを変えて国民の目をごまかしてきた。でも、そんな姑息な方法はもう通用しない。死に体になった安倍政権と心中するような馬鹿な政治家はいないだろうし、いたとすれば、それは「閣僚不適格」の人材が集まるだけの話だ。すでに改造前の世論調査においてさえ、内閣改造に「期待しない」が過半数に達している。改造後の世論調査ではさらに決定的な民意が示されるだろう。

思えば、長い道のりだった。だが、「権力は腐敗する」「絶対権力は絶対に腐敗する」との格言通り、安倍政権はいま音を立てて瓦解しつつある。各社の世論調査では支持率が30%台に急落し、不支持率が50%台に急上昇している。中には支持率が20%台に落ち込んだ結果もあらわれてきており、支持率回復の目途は全く立たない状態だ。「信なくば立たず」の世論の恐ろしさを初めて味わった安倍首相に対して、残された道は総辞職しかないだろう。有終の美を飾るといった表現には似つかわしくない人物であるが、「野垂れ死にだけはするな」との最期の言葉を送りたい。(つづく)