731部隊検証の新たな展開(6)、100部隊施設配置図をめぐる議論について、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その136)

 皇宮博物院の研究員からいきなり100部隊の建物配置図と称する付図のコピーを示され、これについて意見を求めたいと言われたときはいささか戸惑ったが、その時点で、私が述べたコメント(一連の質疑応答も含めて)をまとめると、次のようになる。

(1)通常「部隊」といえば兵舎(宿舎)がなければならないが、付図には宿舎が記されていない。理由として考えられるのは、感染の恐れがある細菌実験施設群から宿舎を隔離するために別の場所に立地しているか、それとも書き落としたかのどちらかであろう。しかし、車庫や倉庫など小規模な建物までが記されているところを見ると、書き落としたとは考えられず、別の場所に宿舎があると考えるのが妥当である。
(2)「配置図」という場合は、正確な測量に基づく敷地の規模と形状、建物の大きさや形、敷地における位置、道路との関係、方位、縮尺などが図面として記されていなければならない。だが、付図には建物名称と位置が示されているだけで、建物は機械的に並べられているにすぎない。したがって、当該付図を歴史的資料として展示する場合は、「100部隊建物配置図」ではなく、「100部隊施設配置概念図」あるいは「100部隊施設配置構成図」として示すのが適当ではないか。
(3)100部隊基地の全体像を示す場合には、731部隊(平房)とハルビン市との位置関係が重要であったように、「100部隊施設配置概念図」に加えて、新京特別市と100部隊基地の位置関係(鉄道、道路網、宿舎を含めて)を示す「100部隊位置図」が必要であろう。これは、100部隊が軍馬防疫・治療の任務を果たすためには、満州全域に展開している関東軍部隊と鉄道・道路で結ばれていることが不可欠であり、また新京特別市の医科大学や伝染病院との協力関係も必要だったからである。

 これらの諸点について、帰国してから三友回顧録の関係箇所を調べてみた。以下はその抜粋である。

(1)100部隊の性格と兵舎(宿舎)の位置について。
 「昭和16年4月6日の朝、(略)宿舎に予定されている大同公園近くの民康ビルに立ち寄って旅装を解き、これから100部隊に向かうところである。トラックは陸軍官舎の立ち並ぶ大房身を過ぎ、新京特別市をとりまく環状道路まで来ると左に折れた」(19頁)
 「やがて、1キロ程先の次のうねり頂に赤煉瓦造りの建物の一群が見えてきた。(略)トラックは土埃をあげて坂を登りきると、稜線上の部隊の前で停車した。門柱には部隊の表札もなく、衛兵所には腰に拳銃を下げた軍属が何人かいるだけで、想像していた『部隊』というイメージとは凡そかけ離れた、それは何処かの工場の入り口といった風情であった。正門の向こうに見える構内には人の影もなく、軍馬防疫廠ということであったが、馬の影すら見当たらなかった」(21頁)
 「教育が終って、新京市内の民康ビル合同宿舎から孟家屯(連京線で新京から南へ2つ目の駅)の技術員宿舎へ移り、いよいよ各部科へ配属されることになった」(43頁、連京線:大連と新京を結ぶ鉄道幹線)
 「私が二部に配属になってから2カ月後に始まったこの動員によって、召集兵が100部隊にも続々集まってきて、本部前の広場に幕舎を張って野営を始めた。今まで兵隊の居なかった部隊の様相は一変し、衛兵所には兵隊が立哨し、隊内を動哨が巡視するようになった。100部隊が軍隊らしい姿を見せたのは、後にも先にもこの時ばかりである。勿論、こうした異常状態は100部隊だけのことではなかった。私達は孟家屯から毎日徒歩で通っていたが、その途中にある補給廠にも兵隊が溢れ、ドラム缶や軍需品が続々と運び込まれて、周囲の畑の中へ積み重ねられていた」(52頁、この動員:1941(昭和16)年7月の「関東軍特別大演習」といわれる対ソ大動員作戦)
 「(1945年8月)11日の夜半、軍司令部から在京部隊隊員家族に疎開命令があり、12日大房身官舎に居った人達は新京駅から貨車に乗って南下した。これらの人々は14日午後朝鮮の定州に到着し、ここで下車している。(略)12、13日と決戦準備や書類の焼却に当たっていた部隊に対し、14日になって朝鮮の第17軍司令部の指揮下に入って、現編成のまま防疫業務に従事するよう関東軍司令部から命令があり、資材の梱包や貨車への積載が行われていたが、軍関係の秘密研究機関を湮滅(いんめつ)せよとの陸軍省軍事課の指示に基づき、関東軍司令部から100部隊の破壊命令が出された。そこで15日、天皇陛下の戦争終結放送を聞いた後、部隊の爆破、焼却や、繋留馬の殺処分が開始された」(80頁)

  これらの文章から、①100部隊は軍馬防疫を担う試験研究部隊であり、通常の戦闘部隊とは性格が異なること、②戦闘部隊の場合は常に臨戦態勢下にあるため、緊急事態に備えて基地内に兵舎が設けられていることが鉄則であるが、試験研究部隊の場合はその必要性がないため、基地外に兵舎(宿舎)が設けられていたこと、③兵舎は、階級によって新京郊外の将校・下士官・技師などの陸軍官舎(家族もいた)および数か所に散在する雇員・傭人宿舎(女子軍属も多数いた)に分かれていたこと、④雇員・傭人宿舎には、様々な職種の単身者や家族持ち要員が住む「合同宿舎」が数棟あったこと、⑤青年技術員を一斉採用するため、単身者用の「技術員宿舎」が作られたらしいこと(731部隊の少年兵宿舎を想起させる)、⑥技術員宿舎は基地に徒歩で通える距離にあったこと、⑦細菌兵器製造にかかわる技術員は、秘密保持のため同一の合同宿舎に集められたこと(後述)、などがわかる。

 しかし、問題は100部隊基地の大部分が現在すでに中高層マンション団地として開発されており、基礎部分の発掘を含めてもはや遺跡調査は不可能に近いことであろう。僅かに公園用地として残された一部の敷地には、煙突や焼却施設の一部が保存されているものの、基地全体をイメージできるだけの状態にはない。となると、100部隊の全容を知るには、展示物の解説や資料説明が重要になるが、この付図コピーがどれだけ役立つかはこれからの課題である。(つづく)